(31)山伏弁円と親鸞の対決~関東滞在の象徴的出来事とも言える弁円の帰依

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』】(31)山伏弁円と親鸞の対決~関東滞在の象徴的出来事とも言える弁円の帰依
前章では親鸞の弟子のほとんどが武士という驚きの事実を紹介しました。
そして日々命のやり取りをしている屈強な武士たちからなぜ親鸞が一目置かれるようになったのかというところまでお話ししたのですが、この章ではそこからさらにその事実を掘り下げていきたいと思います。
これまでお話ししましたように、親鸞は宇都宮頼綱の招きにより稲田の草庵に住むことになりました。そしてその近郊エリアに布教に出かけ、各地に弟子が出来ていくことになります。
こうして次第に勢力を増していく親鸞。関東での布教は実に順調。流罪生活という苦しい時代を経てついに親鸞は活躍の場を見出したのでありました。
しかし、誰かが新たに繁栄するということは、誰かがそれを苦々しく思うことにもなります。
例にもれずここ稲田の草庵の近くにもそんな男がひとり・・・。彼こそ、その名を弁円といいます。
彼はここ常陸国を中心に活動していた山伏でありました。山伏とは修験道の行者のことで、山岳信仰と密教が合わさった信仰を持った人々のことを指します。こうした修験道の行者は全国津々浦々の山々で修行し、その霊力によって人々と共にありました。彼らは病気治癒や安産、雨乞いや虫除け、怨霊退治など生活に関わる様々な願いを一身に担っていたのです。
しかし親鸞がここに来てしまったことで弁円からどんどん人が離れていってしまいました。
弁円からすればこれはたまったものではありません。
彼自身、命を懸けて山岳修行を積み人々のために生きてきたわけです。それにも関わらず突然人々からそっぽを向かれたのですから新参者の親鸞に憎しみを募らすのも無理はありません。
そして弁円は配下を使って親鸞の身辺調査を行い、まずは護摩壇で呪おうとします。

しかしこの呪いが効かず、親鸞は相変わらず元気そのもの。そんな状況に業を煮やした弁円はついに「それならば直接殺してしまえ」と親鸞を稲田の草庵近くの板敷山で待ち伏せすることにします。この「殺してしまえ」という発想が坂東の荒々しさを表していますよね。弁円自身、配下が40人もいる棟梁だったそうです。弁円の出自が武士かどうかは不明ですが、僧兵に近い集団であったことがうかがえます。
というわけで弁円は板敷山の道で親鸞を待ち伏せしていたのでありますが、なぜか親鸞はそういう時に限って違う道を通るのです。板敷山には上下2つの道がありました。弁円が上で待ち伏せしていると親鸞は下を通り、ならばといって下で待ち伏せすると、親鸞は上を通るのです。
さて、これは何事かと。さすがの弁円も奇妙に思い始めます。もしや、会えないのは神仏のお導きなのか・・・?
部下が何十人もいるならば上下の道どちらにも置いておけばよいではないかという野暮なツッコミはここでは控えましょう。いずれにせよ、弁円は板敷山での待ち伏せに失敗し、親鸞という男に不思議な思いを抱くようになっていきました。
そしてついに弁円は決心します。「あの男に会いに行こう」と。こうして弁円は親鸞の住む稲田の草庵へと向かったのです。
ただ、弁円自身この時はまだ親鸞に帰依するだろうとは露ほども思っていませんでした。武具もフル装備で、もし目の前の男が気に食わなければその場で斬って捨てる覚悟だったかもしれません。
「親鸞は自分が命を狙われていることを知っているに違いない。だから板敷山ではかわされてしまったのだ。となれば今頃・・・」
そんな思いを懐きながら親鸞の草庵に到着した弁円。まさに緊張の一瞬だったことでしょう。
使いの者に来訪を伝えさせ、憎き相手のお出ましをまんじりともせず待ち構える弁円。
そしていよいよその時が訪れます。
おもむろに戸が開き、親鸞はその姿を見せました。その所作は自然体そのもの。親鸞は親しい客人を迎えるかの如く弁円を出迎えたのでありました。
この瞬間、弁円の中から親鸞を殺したいなどという気持ちは瞬時に消えてしまいました。
親鸞は命を狙われていたことを知っていたはず。それにも関わらずこのお方は何の気負いもなく現れた・・・。威圧するでも警戒するのでもない。ただ私を出迎えてくれたのだ・・・!
「あぁ・・・私はなんと愚かなことを・・・!」
弁円はその場に崩れ落ち号泣します。人生を変える一撃。親鸞のこの自然体な姿に弁円は完全に撃ち抜かれてしまったのです。
こうして弁円は親鸞に帰依し、その後も皆の手本として信頼される弟子となったのでした。
これが親鸞と山伏弁円の対決になります。
いかがでしょうか。これは関東での親鸞を考える上で極めて重要なエピソードなのではないかと私個人としては考えています。なぜなら、親鸞はここで一言も発していないのです。そしてそれにもかかわらず弁円はその姿やお顔を見ただけで崩れ落ちたのです。それほどのものを親鸞は持っていたのです。
武装した弁円を前にしても何も気負わず、わだかまりすら見せない親鸞。これは並大抵のことではありません。殺意ある者を目の前にして、はたしてどれだけの人がこのような態度をとれるでしょうか。
こういう親鸞だからこそ関東の武士たちは親鸞を信頼し、尊敬したのでしょう。これは単に肝が据わっているという次元ではありません。内から溢れ出る何かがあるのです。これはあらゆる人を受け入れた法然のような懐の広さを髣髴とさせます。親鸞も長い雌伏の時を経て大きく成長したのです。今や親鸞は英雄とも言うべき圧倒的な存在感を放つ人間となっていました。しかもそれは相手を威圧する性質のものではなく、その大きな心で受け止める優しさに満ちたものでありました。
殺意を持って現れた大男がその姿を目にしただけで泣き崩れるのです。親鸞とはそういうお方だったのでしょう。
このように、関東滞在の折にはすでに親鸞の信念は確固たるものと化していました。法然から頂いた念仏信仰はいよいよ親鸞の奥深くに根付き、大きな幹となって育っていたのです。こうした信念があるからこそ、弁円をはじめ関東の弟子達が感じ入るほどの立ち振る舞いとなったのでしょう。やはり親鸞の核には念仏信仰があるのです。核があるからこそそれが外側ににじみ出てくるのです。これがなければ表面をいかに取り繕っても「本物」にはなれません。
関東の弟子達は日々命のやり取りをしている武士たちでした。そんな彼ら武士たちが親鸞の「本物」ぶりに気づき、心打たれたからこそ弟子になったのです。ただ単に有力御家人の宇都宮頼綱の紹介や、法然の高弟だからという理由だけではありません。やはり親鸞その人の魅力があったからこその関東布教だったのです。
こうしたことを知れる上でも山伏弁円のエピソードは非常に重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
そしてこのような確固たる信念を築いた親鸞がその集大成とも言える主著『教行信証』を執筆したのもこの関東においてです。
次の記事では親鸞がその『教行信証』を執筆するきっかけとなったある書物についてお話ししていきます。親鸞の主著が生まれる背景に一体何があったのか、ぜひじっくりと見ていきましょう。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『日本中世の社会と仏教』
野口実『北条時政』
元木泰雄『河内源氏』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
高橋修『熊谷直実 中世武士の生き方』
細川重男『鎌倉幕府抗争史』
主要参考文献一覧はこちら

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