(17)法然教団での親鸞の充実した日々~『選択集』書写や真影制作の許可など法然から信頼される聖人について

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(17)法然教団での親鸞の充実した日々~『選択集』書写や真影制作の許可など法然から信頼される聖人について
大原問答によって一躍有名になった法然。

その拠点たる吉水草庵には続々と人が集まってくるようになりました。

「修行のできるできないを問わず、誰でも平等に救われることができる」という法然の教えは特に下層階級の人々の心に響きましたが、それだけでなく摂関家の九条兼実まで法然に帰依したことから貴賤問わず様々な人々が集まるようになっていきました。
そして親鸞を含め多くの僧侶が法然の弟子として教団に入門していくことになります。
前回の記事でお話ししましたように親鸞が入門した頃にはすでに教団は大所帯となっており、優秀な兄弟子たちが数多くおられました。信空・感西、源智、行空、幸西、証空、弁長、長西など、後の浄土宗の中心を担っていく俊才たちです。
しかも彼ら直弟子だけでなく、比叡山や園城寺で活躍する僧侶も法然教団に出入りしていました。つまり、ここは各寺院の枠を超えて法然の提唱した新たな仏道を研究するものすごくホットなスポットになっていたのです。
親鸞はこの活気溢れる法然教団で研鑽を積むことになりました。尊敬する師匠の下、毎日勉強し、仲間たちとああでもないこうでもないと議論しあえる場は親鸞にとっていかに刺激的なものだったでしょうか。想像するだけでも胸が熱くなります。
そして親鸞はこの法然教団でめきめき頭角を現すことになります。
その最たるものが1205年の『選択本願念仏宗』の書写です。入門して4年の月日が経った親鸞に法然の主著『選択本願念仏集』書写の許可が下りたのです。
『選択本願念仏集』は1198年に法然が体調を崩した際、九条兼実に「あなたがいなくなってしまえばせっかくの念仏の教えが失われてしまいます。どうか書物にして残してください」と懇願された結果書かれたものでした。
法然からすれば、自身の専修念仏の教えは一歩間違うと弾圧されかねない危険なものという認識がありました。そのため元々は書物の形で残すつもりがなかったのですが、兼実の懇願の結果、方針を変えて執筆に至ったという経緯があります。
ただ、この書が危険な書物であることに変わりはありません。『選択本願念仏集』はその後も公の場で公開されることはありませんでした。それほど法然は恐れていたのです。そのためごく限られた弟子にしか書写を許しませんでした。つまり書写を許すということは法然が認めた弟子中の弟子ということになります。それに親鸞が選ばれたのです。これには親鸞も大喜びでした。

しかも嬉しいことに同じ1205年、今度は法然の真影(肖像画)の制作も認められます。真影の制作はまさに最も信頼する弟子にしか許されないことです。『選択本願念仏集』の書写に加え、肖像画の制作まで許された。これは親鸞にとってあまりに光栄なことだったでしょう。その喜びようたるや想像もできません。
この出来事は親鸞の主著『教行信証』にも書かれています。自分のことを全く書きたがらないあの親鸞が次のように記しているのは注目に値します。
『選択本願念仏集』は九条兼実の懇願によって書かれたものである。真宗の肝要、念仏の奥義がこれに書かれている。これはとてもわかりやすい書物である。誠にこれは、希有最勝の華文、無常甚深の法典である。年を経て日を経てその教えを受ける人は千、万といえども、たとえ法然上人と親しくも疎遠でもこの書写や真影を得ることは実に難しいことである。しかしすでに私は書写させて頂き、真影も制作する機会に恵まれた。これは阿弥陀仏の教えに帰したからこそであり、これぞ往生決定のしるしである。よって悲喜の涙を抑えてこの由来を記した。
※『真宗聖典』P400の該当箇所を意訳した
とにかく自分のことを語りたがらない親鸞が人生の集大成とも言える主著『教行信証』にこのように記したということはよっぽど嬉しいことだったのでしょう。『教行信証』の草稿が完成したのは1224年頃だとされています。親鸞はここから生涯にわたって加筆修正を加えていますが、少なくともこの書写と真影の許可を得てから20年近く経っても「悲喜の涙」が出るほど嬉しかったということになります。
実際、親鸞は生涯にわたって「法然の説いた阿弥陀仏の教え」を人々に説き続けています。親鸞にとって法然という師匠はそれほど大きな存在だったのです。
私はこうした親鸞の姿を見るに、あの優秀すぎる叔父たちの道を重ねてしまいます。後白河上皇の側近となった日野範綱、後鳥羽上皇に重用された儒学者日野宗業。2人は没落貴族であった日野家に生まれ、どん詰まりであった人生を自らの知恵才覚で切り開きました。そしてさらに2人に共通するのが、既存の秩序からはみ出た圧倒的なカリスマの下で活躍したということです。後白河も後鳥羽も既存の秩序からはみ出た圧倒的な存在でした。だからこそ既存の常識を超えて突き進んでいきます。そんな圧倒的カリスマに力を認められた2人。これはまさに法然と親鸞の関係に似ているのではないかと私は思うのです。
法然も既存仏教からはみ出た存在であり、圧倒的カリスマです。そしてその法然に力を認められ親鸞は一気に頭角を現しました。
「生まれ」という自分ではどうにもならないものを理由に出世を阻まれ、どこに行っても自分の力を認められない日々は誰にとっても辛く苦しいものです。そんな中、圧倒的な存在から自分の力を認めてもらえるとしたらどれほど嬉しいことでしょうか。苦しんで苦しんで、そんな中人生で初めて「あなたがほしい。あなたの力を貸してくれ。私と共に行こう。」と言ってくれたなら、私なら一生付いていくかもしれません。
事実、範綱も宗業もそんな人生を歩みました。そして親鸞も然りです。親鸞は生涯法然を慕い続けたのでありました。
さて、こうして法然教団での充実した日々を送ることになった親鸞ですが、当時の親鸞は若さもあったのか(と言っても30代ではありますが)、実は教団内ではかなり尖った存在でもありました。その尖りっぷりをうかがえるエピソードが本願寺の公式伝記たる『御伝鈔』に2つほど収録されています。次の記事ではそんな尖った親鸞のエピソードをご紹介したいと思います。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
主要参考文献一覧はこちら

前の記事はこちら

関連記事





