⑵親鸞聖人の優秀すぎる叔父たちの存在①日野範綱~あの後白河法皇の側近中の側近!?

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】⑵親鸞聖人の優秀すぎる叔父たちの存在①日野範綱~後白河法皇の側近中の側近!?
前回の記事「⑴親鸞の誕生とその出自~藤原氏傍流の日野家に生まれた聖人と当時の貴族事情について」では親鸞聖人(以下敬称略)の出自と当時の貴族事情についてお話ししました。増えすぎた貴族たちがポストを失い没落していく中、親鸞の父日野有範もなす術なく出家へと追い込まれてしまったのでありますが、この世知辛い世の中、自らの知恵才覚でのし上がっていった人たちも存在しました。
それが親鸞の叔父である日野範綱と日野宗業だったのです。
範綱と宗業は親鸞の父たる有範の兄に当たります。家系図で言いますと次のような関係性です。

この叔父たちの存在が親鸞の人生に大きな影響を与えることになります。
前回の記事でお話ししましたように親鸞の祖父日野経尹は「放埓の人」と呼ばれていて朝廷で何らかの失態を犯した人物でありました。そのためその息子たる範綱、宗業、有範は出世の道を絶たれてしまったのでありました。
日野家は元々儒学を専門とする一族でした。なので順当に行けば儒学者としての職を得ることができたのですがそれが絶たれてしまったのです。
そこでこの三兄弟はどうなったのか。
まず、すでに私たちが見てきた親鸞の父有範は貴族としての生活を諦めて息子たちを出家させました。どのタイミングかは不明ですが彼自身も後に出家しています。
ですが兄たち2人は全く別の道を行くことになりました。
まず長男の範綱はなんと、後白河法皇の院近臣として仕えることになります。しかも単なる近臣ではなく、側近中の側近と言える位置まで最後には上り詰めることになりました。これは驚きですよね。

藤原為信 画 Wikipediaより
後白河法皇といえば平安末期から鎌倉時代初期にかけて絶大な権力を持った院政の主です。その後白河法皇の直属の部下として範綱は仕えていたのです。
実はこれにも当時の時代背景が関わってきます。
日本の歴史において院政がスタートしたのは1086年の白河上皇からと言われていますが、それまでは摂関政治が主な政治体制でした。あの有名な藤原道長の政治ですね。私たちは摂関政治というと藤原氏が独占的な権力を握っていたと思ってしまいがちですが実はことはそれほど単純ではありません。実際には天皇と摂関家が相互に権力を補い合う関係性でもありました。つまり天皇家側も自らの権威を安定化する上で摂関家は重要なパートナーでもあったのです。言い換えるならばWin-Winの関係性です。
ですが、院政期になると天皇家と摂関家の結びつきを離れて独自に政治を取ろうとする上皇(出家すると法皇になる)が現れます。もはや藤原氏の力を頼らずとも自力で政治を動かせる時代になったのです。こうなってくると側近には従来の権力側にいた人間よりも、何のしがらみもない新しい人間の方が信用できます。そこで上皇は独自に有能な人間をヘッドハントし自らの側近として集めるようになったのでした。
これにはヘッドハントされた側にも大きなメリットがあります。これまでお話ししてきましたように、当時没落していく貴族は山ほどいました。しかもどんなに優秀な人間であっても家柄が良くなければ全く出世は不可能という時代です。そんな中圧倒的な権力を持つ上皇の直々の部下になれるとしたらこんなに良い仕事はありません。まさに一世一代の大逆転です。そんな命の恩人とも言える主君に対して忠実な仕事ぶりをするのも当然でしょう。
こうして上皇側も忠実で優秀な部下を手元に置けるわけです。ここにおいてもWin-Winの関係が成立したのでありました。
さあ、ここで思い出してみてください。あの日野範綱です。
彼もまさに家柄的に出世は不可能ではありましたが、飛び抜けて優秀な人間でした。まさに後白河法皇が望んだ人物です。こうして範綱は法皇の側近として働くことになり、めきめき頭角を現すことになります。
ただ、そうは言っても彼は苦労人で、源平争乱の煽りを受けて何度も免職の憂き目に遭っています。後白河法皇は「日本国第一の大天狗」と呼ばれたように、様々な謀略を図りました。失敗はしてしまいましたがあの有名な「鹿ケ谷事件」もそのひとつです。こうなると政敵から厳しい追及を受け、側近たちが皆追放されてしまうのでした。当然側近であった範綱も拷問の末追放されています。
とはいえさすがは「日本国第一の大天狗」。政敵が敗北していなくなるとすぐに元の勢力を取り戻します。側近たちも鶴の一声でカムバックです。こうして範綱は後白河法皇が亡くなるまで任務をこなしたのでありました。
そして私も驚いたのですがなんとこの範綱、鎌倉幕府の事務方の代表大江広元と頻繁に業務上の書簡を交わしていたのです。これが何を意味するのかと言いますと、範綱が朝廷のトップ後白河法皇の側近中の側近であったことが示されているのです。後白河院制の窓口として範綱が幕府との実務的な協議に絡んでいた・・・。やはり彼はとてつもなく優秀な人物だったのです。
さらにさらに、範綱は1192年の後白河法皇の葬儀に際し入棺役人といういわば現代でいう葬儀委員を務め、葬儀執行の中心にいたとのこと。これには私も驚きました。しかも範綱は法皇の死去に殉じて間もなく自身も出家したようです。
このように範綱は後白河法皇の側近中の側近とも言える存在でした。そして最終的に範綱は従三位、つまり上級貴族にまで出世しました。これは「放埓の人」を出してしまった日野家ではありえない位階です。親鸞の父有範は特に目立った事績を残さぬまま出家の運びとなってしまいましたが、こうした優秀すぎる叔父が親鸞の事実上の養父となったのは見逃せないポイントです。
では、次の記事ではもう一人の叔父たる宗業についてお話ししていきます。このお方もとてつもない人物でした。
続く
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