南インドの古都タンジャーブルへ~あまりに巨大!これはスリランカもひとたまりもない!
【インド・スリランカ仏跡紀行】(65)
南インドの大国チョーラ朝の首都タンジャーブルへ~あまりに巨大!これはスリランカもひとたまりもない!
さあ、第三次インド遠征がいよいよ始まる。
私の最初の目的地は南インドの古都タンジャーブル。
私はブッダゆかりの地を巡る前にここタンジャーブルでスリランカ仏教紀行の積み残しを片付けに来たのである。
この地図を見てわかる通り、南インドとスリランカはまさに目と鼻の先である。
「(32)スリランカの植民地時代の歴史についてざっくりと解説~ダルマパーラ登場の時代背景とは」の記事でもお話ししたように、スリランカでは11世紀初頭の南インドのチョーラ朝軍の侵攻によって王都アヌラーダプラが陥落している。
この王都陥落によってスリランカ仏教は教団存続が不可能になるほどのダメージを受けることになった。王権の庇護によって成り立っていた仏教教団において、王都の崩壊は致命的な問題だったのだ。このスリランカの危機をもたらしたチョーラ朝の首都こそ今回訪れるタンジャーブルなのである。
私はスリランカの歴史に一大転換をもたらしたこのチョーラ朝という存在に強い関心を抱いた。スリランカを呑み込んだ大国チョーラ朝とはいかなる国だったのだろうか。そんな関心から私はこの地を実際に訪問してみることにしたのである。
さあやって来たぞ。インドである。相変わらずのカオスだ。
これだよこれ。インドはやはりこうでなくちゃ。常に鳴り響くクラクションがもはや懐かしく感じられる。
私は強くなったのだろうか。インドに慣れてきたのだろうか。
スリランカのあの穏やかで秩序的な雰囲気とはまるで違うこの喧騒。インドはハマると癖になるというが、ついに私もハマりだしたのかもしれない。一瞬そう思ったのだがやはり甘かった。1時間もこんな中を走るとやはりうんざりしてくるのである。やはりインドはインドなのだ。スリランカとの違いを噛みしめる。
さて、本日の目的地タンジャーブルの象徴ブリハディーシュワラ寺院までやって来た。
こちらは11世紀初頭、チョーラ朝の最盛期に建てられたヒンドゥー教寺院だ。そう、まさにチョーラ朝がスリランカに攻め込んだ時期の建築なのである。まさに私の興味関心とぴったりの建設物なのだ。
外壁と門の前までやって来た。この時点で私は度肝を抜かれた。この門、とにかくデカいのである!実物は写真よりもはるかに凄まじい圧を放っていた。
そして何といっても圧巻はその門をくぐった瞬間だった。門の先にまた巨大な門が現れたのである。それが眼前に迫ってくる迫力たるや!言葉にならぬうめきが漏れてしまう。これはすごい。こんなとてつもないものを11世紀初頭の段階で作っていたのである。これはスリランカもひとたまりもない!こんな大国に攻め込まれようものならどうしようもないではないか。
こちらは寺院内の地図なのだが、私が今いるのは入ってすぐの①と②の間である。ここからさらに本殿境内へと通ずる門をくぐり、中へと入っていくのだ。実に壮大な構造である。
そして門の先に絶妙な構図で向こう側の景色が見えるのも素晴らしい。まるで額縁のようであった。単に巨大なものを作ったのではなく、芸術的なセンスまで持ち合わせていたのだ。これには脱帽である。
こちらが本殿前の門である。この門の彫刻も非常に有名だ。
下段の巨大な像はこの寺院の守護神である。日本で言うなら東大寺の金剛力士像的なものだ。彼らの優美かつ力強い動きに注目してほしい。さすが踊りを愛するインドである。踊りの神と言えばシヴァ神だが、こうした彫刻は彼らの得意分野なのだろう。
そして門の上部には細かい彫刻がびっしりと施されている。この上部構造と下部構造の対比が実に素晴らしい。我々の目線に近い下部構造でその巨大さや力強さを印象付け、その上に繊細な上部構造を配置することで粗野な印象を和らげているのである。力強さと繊細さが融合した実に見事な建築である。これには私もすっかり参ってしまった。降参である。チョーラ朝の力をまざまざと思い知らされた。スリランカが気の毒でならない。
境内の中までやって来た。かなり広い空間だ。その正面にはヒンドゥー教で大切にされている牛(ナンディー)像を祀るお堂とその奥には南インド最大級の本堂がそびえ立っている。
こちらがナンディ-像。なんと、この像は一つの岩から掘り出されたものだそうだ。
では、これより本堂へと進んでいこう。
石で作られた本堂内部。まるで洞窟の中にいるようだ。両側に並んだどっしりとした柱が重厚な雰囲気を感じさせる。
しかも奥に行くにつれて空間がどんどん狭くなっていく。ご本尊のおられる部屋まではまだ遠い。そう簡単には神様には会えないのである。
前へ前へとどんどん進んでくるインド人。人間との距離感がとにかく近い。ほんの少しでも隙間を開けたら身体をねじ込んでくる。
汗のにおい、香水のにおいも全て漂ってくる。そして何より、人間から発せられる熱を感じる。
我れが我れがと強烈なエゴをもって押し合いへし合いしていく彼らを見てふと思った。「三島はこうしたインドに来て感動していた。つまり彼は日本で居心地の悪い青年だったのだ」と。
これは少し説明がいるだろう。私は8月の初めてのインドで次のような仮説を立てたのである。
「インドにハマる人は、少なからず日本での生活に居心地の悪さを感じているのではないか」と。
インドと日本はまさに正反対と言っていいほど文化が違う。日本は異常と言ってもよいほど秩序立った社会だ。しかも「空気を読むこと」に対して病的なほどの絶対性がある。三島はまさにそんな日本に絶望していなかったか。居心地の悪さを感じていなかったか。
日本には日本の良さがもちろんある。しかしそこに馴染めない人間にとってはインドはまさに開放をもたらす存在になるのではないか。
そんなことを考えながら私はインド人の熱気の中で本尊へとお参りし、この本堂を去った。
それにしてもこの本堂は巨大である。63メートルの高さを誇るこの本堂は当時の他の寺院と比べても5倍以上の高さだったそうだ。まさに他を圧倒する存在がこの寺院なのである。現在においてもこの本堂はインド最大級だそうで、文句なしの世界遺産だ。チョーラ朝がどれほど圧倒的な国力を持っていたのかがよくわかった。
それにしても歴史というのは面白い。
「(38)失われた古都ポロンナルワの仏像に感動!スリランカ彫刻のハイライトがここに!」の記事でもお話ししたが、たしかにスリランカ王権はチョーラ朝に侵攻され崩壊してしまったが、チョーラ朝の支配によって進んだ技術や文化がもたらされたのも事実なのである。1055年を境にチョーラ朝からポロンナルワを奪還したシンハラ王権はこの都に優れた文化を残した。
私もこの地を訪れてそれをまざまざと感じた。チョーラ朝の影響を受ける前と後ではその文化水準が全く異なるのである。この大国と小国の関係はかつての中国と日本の関係を連想してしまう。日本における仏教もその由来は中国である。中国の文化を取り入れ、それが日本の土着の文化と混ざり合い、今の私達があるのだ。(「進んだ文化、文明」という表現は現代では難しい表現となってしまったがここではあえて使わせて頂く)
ここタンジャーブルを訪れることができたのは非常に大きな収穫だった。スリランカ仏教を考える上でも実に大きな意味を持つ訪問となった。何度も言うが、こんな大国に攻め込まれたらひとたまりもない。その国力の大きさを感じさせられた体験だった。
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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