スリランカと和解すべく再び聖地アヌラーダプラへ~私なりのけじめと仏教への思いについて【もう一つのあとがき】

スリランカと和解すべく再び聖地アヌラーダプラへ~私なりのけじめと仏教への思いについて
2025年3月1日。私は今、成田空港にいる。
行先はスリランカ。これから私はスリランカの仏教聖地アヌラーダプラへと向かうのである。

離陸する前、いや昨日の成田への道中からすでに私はある種異様な緊張感に襲われていた。これまで何度も海外には行ってきたが、これは初めて感じる種類の緊張である。
なぜ私がこのような異様な緊張に襲われているのか。
それはまさに私はこれから謝罪と和解、けじめのためにスリランカを訪れるからなのである。
謝罪?和解?けじめ?
一体何のことを言っているのか。あなたはスリランカで何をしでかしたというのか。
そう疑問に思われるかもしれない。
だが、私にとってはこれは冗談ごとでは済まされない大きな問題だったのである。
スリランカへ出発する前にここで皆さんにその理由をお話しすることにしよう。

私は2023年から24年にかけてインド・スリランカの仏跡を巡る旅に出た。

その模様は上の旅行記の中でお話ししているのでここでは割愛させて頂くが、その旅行記の中で私は以下のような記事を書いた。

そう。私は仏教聖地であるスリランカの仏跡において感動できなかったという、ある種不遜な内容をこの記事で吐露したのである。
詳しくは上の記事を読んで頂きたいのだが、私はスリランカにおける仏教聖地に対し「宗教的無感覚」になってしまった。私は同じ仏教徒でありながらこの地において「ありがたい感覚」を得ることができなかったのである。もちろん、聖地として敬意を持ってお参りはさせて頂いた。しかし私の心の中で何か晴れがたいものがあったのも事実なのである。
そして極めつけがスリランカの世界遺産ダンブッラという石窟寺院であった。

私はこの遺跡のショックを忘れられない。これほどがっくり来た世界遺産は記憶にない。
この記事ではなぜ私がこれほどがっくり来たか詳しく書いているが、他国の世界遺産、さらに言えば仏教の聖地に対してがっくり来たという言葉を述べてしまったことに私は内心わだかまりを感じていたのである。
要するに、私はスリランカ仏教に対して批判的なことを書いてしまっていたのである。
だが、私がこうしてスリランカ仏教に対して批判的な思いを抱いてしまったのにも理由がある。
その最たるものが「自分自身の仏教信仰を問うため、自分とは異なる上座部仏教と闘う必要があった」ということだった。
もちろん、闘うと言っても文字通り相手を打ち負かすことを目的とはしていない。だが、私にとってスリランカの上座部仏教は日本の浄土真宗に生きる私のアンチテーゼとして巨大な意味を持つことは避けられないことだったのである。
教義的な面に入り込むとややこしくなってしまうのでここではざっくりと話そう。
まず大前提として上座部仏教は戒律を重視する。つまり厳しい掟を守り、世俗の生活とは離れて僧院の中で修行生活をするということだ。もちろん、肉食妻帯はありえない。上座部仏教はブッダ当時の教えを忠実に守ることを重んじるというのが基本にある。

詳しくは上の「スリランカの上座部仏教とはどのような仏教なのかざっくり解説~日本仏教との違いについても一言」の記事でお話ししているのでこちらを参照して頂きたいが、それに対し浄土真宗では戒律を守ることを重視せず、修行生活もない。あくまで在家生活を基本としている。つまり肉食妻帯の仏教なのだ。その上で阿弥陀仏のお力によって救済されていくというのが基本となる。こうなると同じ仏教と言えども全く違った姿の宗教のようにも見えてくる。
私にとって、同じ仏教ではあってもその教えや実践が全く異なる存在を学ぶことは大きな刺激となった。まさに上座部仏教は私を映す鏡と言ってよい。上座部仏教を学べば学ぶほど私の信仰が問われてくる。浄土真宗とは何なのか。どうして開祖親鸞聖人は修行を捨てたのか。どうしてそれでも深い宗教的境地に至ることができたのか。
自分とは違う存在と相対することは自分を知る大きなきっかけとなる。これはキリスト教やイスラム教などを学んで強く感じたことだった。2019年の世界一周の旅もそうした視点で私は世界各地の聖地を巡った。
そして今度は同じ仏教であっても全く異なる上座部仏教と私は相対するのである。だからこそ私は自分自身の存在をかけて全力で上座部仏教にぶつかろうと思った。だからこそ「闘い」だったのである。これは私の内面における闘いだったのだ。
勝手に闘いを挑まれるスリランカとしては大変迷惑な話ではあろうが、こういう思いで2023年私はスリランカに乗り込んだのである。
そして大事なことがもう1点。
スリランカ内戦と仏教の関係である。
これも私のスリランカ滞在の大きな柱であった。

1983年から2009年という26年にわたって続いたスリランカの内戦・・・
スリランカの内戦は人口の多数を占めるシンハラ仏教徒と少数派タミルヒンドゥー教徒の内戦だった。つまり、宗教が内戦の大きな原因のひとつだったのである。
もちろん宗教だけが主要因というわけではなくそれまでの歴史や政治経済問題が大きく絡んでいるのだが、仏教が内戦に絡むことになってしまったことに私は大きなショックを受けたのであった。
この内戦の大きなきっかけとなったのは先ほども述べたように、スリランカ人口の大半を占めるシンハラ仏教徒と少数派のヒンドゥー・タミル人の対立だ。だがこの対立もはじめからあったわけではない。この対立が激化したのはスリランカ仏教とナショナリズムが結びつくというこの国独特の宗教・民族観があったからこそだった。
詳しくは「平和を説く仏教が内戦の原因に?スリランカ北部の街ジャフナで暴力と宗教について考える」の記事でお話ししたのでここでは割愛するが、内戦と仏教、ナショナリズムというテーマも私の中で大きなウエイトを占めていたのである。そんな私が無邪気にスリランカの仏教聖地を巡れることができようかというのは皆さんも想像できるのではないだろうか。
というわけで、私のスリランカ訪問はかなり深刻な思いで決行されたのである。
このような私であったからこそ、アヌラーダプラで宗教的無感覚に襲われ、ダンブッラでは心底がっくり来たのである。私があのような記事を書いたのもこうした背景があったのだ。
とはいえ、スリランカ自体は実に素晴らしい国であった。ポロンナルワの仏像に感動し、キャンディ、コロンボでの日々は今でも忘れられないほど刺激的で楽しかった。ジャングルの奥地で見た大乗の仏像にも心が躍った。


また、スリランカ上座部仏教の管長様とお話しさせて頂いたあの日も忘れられない!上座部仏教も大乗仏教も同じ仲間であると語ってくれたのはこの時のことだ。こうした体験があったからこそ、私は闘いの中にも心温まるものをたくさん持ち帰ることができたのだ。

そして帰国後旅行記を書き終え、いよいよ日本仏教を本格的に学び直して私は衝撃を受けることになる。
なんと、スリランカの上座部仏教と日本仏教はあまりにも似ていたのである。
仏教伝来から国家との共存、民衆との繋がりが広がっていく流れなど、驚くほど似ている。しかもそもそも日本も僧兵の存在や、戦国時代の強力な武力集団としての教団など多くの「戦い」に絡んでいる。
私はスリランカ内戦と仏教について強い関心を持っていたのだが、日本も戦と仏教が絡んでいたのである。何もスリランカだけの話ではなかったのだ。もちろん、日本も「僧侶が堕落して僧兵となり云々」という単純な話ではないことは本を読めば読むほど見えてはきたのだが、スリランカの内戦に目を向けすぎたために日本史がおそろかになっていたというは私の落ち度である。
また、教えや信仰実践の形態においても上座部仏教が葬儀や忌日法要、祈禱を重視していることも再確認した。出家者の厳しい掟や修行と並行して、人々の実生活と近い距離でお参りしているのも事実なのである。日本においても深淵な仏教哲学と葬儀供養の伝統は今も変わらず共存している。そして教えの究極的な到達点やその道筋もやはり似通うものがあるのである。上座部仏教の管長様が、「道は違えど歩む先は同じ」と仰られていたのはそういうことだったのだ。
そして何より、仏像である。

私はかつてスリランカの極彩色の仏像に違和感を感じてしまったのだが、よくよく考えれば日本の仏像も皆金ぴかではないか!私のお寺のご本尊も金ぴかである。内陣も金ぴかである。
もちろん、私がスリランカで違和感を感じたのは「最古の歴史を誇るはずなのに、その全てが新しく作られている」という事実においてであった。
とはいえ、こうした新しい仏像に対して敏感になりすぎるのもナンセンスなように思えてきた。
スリランカにはスリランカの事情があるのである。それは日本も同じである。
私自身、帰国して旅行記を書き終わり、闘いは幕を閉じた。そして日本仏教の歴史を知れば知るほどその共通点や、お互い何とも言い難い歴史の事情というものも見えてきた。きれいごとだけではないのである。宗教は宗教だけにあらず。政治経済、文化、国際情勢など様々な要素が絡んでくる。日本史を学び直しながら、スリランカに対して随分厳しい視点で向かってしまったなという反省が私の中で大きくなっていった。旅行記を書く上で生じた「しこり」も残ったままだった。
そんな折、私はこれから先日本仏教を学ぶ上でもけじめをつけなければならないと思い始めた。
私が無感覚になったあのアヌラーダプラの菩提樹でその無礼を謝罪し、和解しなければならない。それがけじめなのではないかと思い始めた。
その思いは日に日に増し、のっぴきならないところまで大きくなってきた。
私はもう海外に行くことはないだろう。お寺や家庭の事情もあるわけだし、これが最後という約束で1年半前にインド・スリランカの旅に出たのである。
しかし!しかしである!これはもうどうにもならない。これから私が前に進むためにはどうしてもスリランカと和解しけじめをつけなければならない。
というわけで私はスリランカに行くことを決定した。スリランカに実際に滞在できる時間は1日半ほど。まさに弾丸である。このスリランカ行きを許してくれた住職や家族には感謝しかない。できるだけ早く帰ります。お許しくださいと頭を下げ私は航空券を予約した。
そしてついにその日がやって来たのである。
アヌラーダプラ再訪

さて、異様な緊張感の中いよいよ日本出国である。
スリランカの首都コロンボまではおよそ10時間弱のフライト。
予定よりも30分ほど遅れての到着だったが、外はかなり強い雨が降っていた。そして「やれやれ、ようやく着いたぞ」とほっと一息ついていると驚きのアナウンスが流れた。
「強い雨のため25分ほど機内で待機になります」
そんなことあるのか!?と耳を疑ったがどうしようもない。どうも、機内からターミナルへはバスでの輸送だったそうでこの雨だとそれができないとのことであった。
おかしい。今は乾季のはずでこんな豪雨など降らないはずではないか。
やはりスリランカはただでは許してはくれないということか。
しかも天気予報を見てみるとここから数日ずっと曇り時々雷雨となっていた。これには苦笑いしかなかった。
何はともあれ入国しガイドさんと合流。
以前のスリランカでもお世話になったガイド、プラバースさんだ。
プラバースさんもこの雨は本当に珍しいと言っていた。ただ、雨は午後以降に降ることが多いので朝ならば大丈夫でしょうとのことだった。
この日ホテルに着いたのは日本時間23時頃。スリランカ時間は日本よりも3時間半遅い7時半。
翌日はスリランカ時間朝5時に出発してアヌラーダプラへ向かう。日本時間で言えば8時半なので十分現実的な時間だ。

翌朝5時。アヌラーダプラへ出発。4時間ほどで到着できるとのこと。真っ暗な道をひたすら走る。

6時頃から薄っすら明るくなり始め、7時にはすっかり朝という雰囲気。
心配されていた雨も全く降る気配なし!これは助かった。

予定通り4時間ほどでアヌラーダプラへ到着。
私はこの日のために日本から衣を持って来ていた。車で着替え、この仏教聖地で僧侶の服装で歩く。
以前来た時は日程も長期で荷物の関係上、衣を持ってくることはできなかったが、今回私はけじめをつけるためにやって来た。どうしても正式な服装でここに来たかったのである。
仏教聖地を衣で歩くというのは以前来た時よりもさらに背筋がぴしっと伸びる気がした。そしてすぐに気づく。私は以前のような対決者としてのメンタリティーではなく、共に歩む者としてここにいるのだということに。

乾季のこの時期は特に巡礼者が多いようで、以前来た雨季の時よりもかなり賑わっている。スリランカの方はお寺参りの時には皆こうして白い服を着てお参りする。私はその中で一人黒い衣を着て歩くので目立ちやしないかと少し不安になったが、皆さんこうした僧服の姿に見慣れているのか特に気にしてはいないようであった。

菩提樹の周りは以前見た時と変わらず、たくさんの巡礼者で賑わっていた。しかしインド的なカオスではなく秩序そのもの。ある人はお供物をお供えしに並び、ある人は脇に座りお経を読み、ある人は菩提樹の周りを整然と回り続ける。
仏教聖地にふさわしいおだやかで調和的な空気である。今や私はこうしたスリランカ仏教の聖地を素直に味わっている。

私もお花を捧げ、菩提樹にお参りをした。1年半ぶりに私はここに戻って来た。
私はもう、闘いには来ていない。同じ仏教徒としてこの聖なる木と向き合っている。私の闘いは終わったのだ。
勝手にやって来て勝手に闘いを挑んでこられたスリランカにとっては大変迷惑な話であっただろう。だが、私にはこの闘いが必要だったのである。何事もなあなあで済ますのであればそもそもこのような闘いは必要ない。私自身、自分の仏教を問うためあえて自分と異なる存在ととことん向き合ったのである。自分の中の絶対を探求すれば、自ずと絶対に譲れないポイントが出てくるのである。
私はむやみに対立せよと言っているのではない。あくまで自己を突き詰めるならばそうした内面の闘いが生じざるをえないということを言いたいのである。そしてその相手としてスリランカほど巨大な存在は存在しなかった。つまり、この国の仏教は最高の好敵手であったのである。
私は今闘いを終え、握手しにここにやって来た。全力の闘いを終えての和解である。そこにはもうかつての対決心はない。
重ねて言うが勝手に闘いを挑んだのは私である。そんな私が和解だの何だのというのはずいぶんお門違いな話であるが、それでもやはり私にとっては大事な闘いだったのである。この勝手な闘いを始めてしまったことに対する謝罪は私のけじめでもある。だからこそ正装でここアヌラーダプラまでやって来たのだ。そしてこの和解が私のこれからの僧侶としての道を支えてくれるだろう。私はそれを信じている。
完
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