(25)ベルニーニ『トリトーネの泉』~ベルニーニのファンタジー世界が躍動する傑作噴水!
【ローマ旅行記】(25)ベルニーニ『トリトーネの泉』~ベルニーニのファンタジー世界が躍動する傑作噴水!
前回の記事「ベルニーニのライモンディ礼拝堂~見事な光のスペクタル!劇作家・演出家としてのベルニーニ」ではベルニーニの演劇的才能について見ていった。
今回の記事でもその演劇的才能が生きた作品を見ていくことにしよう。
ベルニーニの演劇的才能が生かされた噴水作品~水の街ローマの歴史
このような礼拝堂の装飾とならんで、祝祭や演劇の体験が生きているのは、一群の噴水においてである。噴水はさながら都市の広場を舞台とする祝祭の装置のようである。いうまでもなく、この場合の主役は水だが、べルニーニは光とともに水に関心を抱き、水を愛した。後年パリを訪れた彼は、ある夏の夕方シャントルーとともにポン・ルージュに散歩に出た。そして橋に着くと馬車をとめさせ、四半時飽くことなく川の様子を眺めて、「すばらしい眺めだ。私は水とは大の友達だ。水は心を清めてくれる」と述べている。ローマは水の恵み豊かな都市であり、同時に噴水の都市である。ローマの魅力であるその舞台のような眺めに、噴水は欠くことができない。そう考えるならば、べルニーニがローマに遺した最大の遺産は、彼が処々に作った噴水だともいえよう。
古代ローマは、壮大なスケールの水道施設のおかげで、豊かな水に恵まれていた。しかしこれらの水道施設が蛮族の侵入によって破壊されたため、給水の手段を断たれた中世のローマの人々は、カンポ・マルツィオ地区(今日のナヴォナ広場の周辺)を中心とした川沿いの低地に住み、テヴェレ河から採取して五、六日寝かした水を飲料水としていた。一四五三年に、ニコラウス五世がアルべルティに命じてアックワ・ヴェルジネと呼ばれた古代の水道の一部を甦らせてからも、人々は毎日テヴェレの水を水売りから買わなければならなかったのである。
ところが、十六世紀の末にシクストゥス五世がアックワ・フェリーチェを、そして一七世紀に入ってパウルス五世がアックワ・パオラを建設するに及んで、ローマはようやく古代に比肩する水道の都市となる。当時口ーマでは、これらの水道施設によって一一万ほどの人口に対して一日一八万立方メートル、つまり一人当たり一七〇〇リットルの水が供給されたといわれ、そのため当局は一八五〇年まで新しい給水手段を考える必要がないほどであった。こうした豊富な水を用いて、都市の各所に噴水が作られた。しかしべルニーニが登場するまでの噴水は、主に建築家の手に成る、幾何学的形態を基本とした建造物であり、彫刻が添えられる場合にも単なる飾りとしてしか扱われない、想像力に乏しいものだったのである。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P95-96
※一部改行した
古代ローマの水道技術については「(7)「すべての道はローマに通ず」~カラカラ浴場とアッピア街道、水道橋を訪問。古代ローマの驚異的な技術力に驚愕」の記事でもお話しした。
だがローマ帝国の優れた水道技術も帝国の崩壊とともに失われてしまった。
そんな水道なき都市となってしまったローマであったが、一六世紀後半から教皇たちの公共政策によって次々と水道が建設されることになる。この段階では噴水は完全に実用的なものとしてしか見られていなかったのだが、そこに登場したのがベルニーニだったのである。引き続き解説を見ていこう。
ベルニーニが最初に手掛けた噴水『バルカッチャの泉』
これに対して、べルニーニが手がけた最初の本格的噴水は、スペイン階段の下に設置された《バルカッチャの泉》(バルカッチャは老いぼれ船の意)である。一六二八年から翌年にかけて作られたこの噴水は、ウルバヌス八世の紋章を掲げた船をかたどっている。水は船の端からも中央からも流れ出て、船内にたまった水は船べりからあふれ出るという趣向になっているが、楕円の盤に重そうに横たわるこの船は、比較的単純な形態でできているにもかかわらず、見飽きることがない。ウルバヌス八世はこの噴水をたたえて、「教皇の軍艦は砲火を放つかわり戦いの火を消す甘美な水を放つ」と歌ったと伝えられる。またバルディヌッチによれば、べルニーニは噴水には何らかの高貴な意味がなければならないと考えていた。その点について言えば、この《バルカッチャの泉》は小舟、つまり教会そのものを表わそうとしたものだとも、あるいはまさしくこの場所にあったことが知られていた、ドミティアヌス帝のナウマキア(船遊びや船のゲームをするための場所)にインスピレーションを得たものだともいわれる。あるいは、その両方の意味が込められていることも充分考えられよう。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P96ー97
「(2)文豪たちの宿泊地だったローマスペイン広場をご紹介!ベルニーニの傑作「バルカッチャ」の噴水に夢中」の記事でもお話ししたが私はこの噴水が大好きだ。ローマの中でも最も好きな噴水と言っていい。鼻血が出そうなほど私はこの噴水に惚れ込んでしまった。
ちょろちょろ流れる水の流れがとにかく美しい。そしてこのつぶれた船の形状。何とも言えない心地よさを感じる。この「何とも言えない心地よさ」もベルニーニの計算によるものなのだろう。
ベルニーニ噴水の傑作『トリトーネの泉』~ファンタジー世界を具現化!
一方この《バルカッチャの泉》に続いて、一六四二年から四三年にかけて、ウルバヌス八世が実家バルべリーニ宮の前に広がる広場に作らせた《トリトーネの泉》は、べルニーニの噴水の中でも最も名高く、最も想像力に富んだ作品である。広場の大きさからすると、ごく小さく、また水も真上に噴き上がるだけという単純な趣向であるが、それにもかかわらずこの噴水は、広場を詩的でお伽話的な雰囲気でみたしている。その異教的雰囲気はオヴィディウスの詩句そのままだ。
海神は、三叉の鉾をおさめ、波浪をしずめ、海面に姿をあらわすと、肩にいっぱいの貝殻をつけた、水いろの肌をしたトリトンをよびよせて、その法螺を喨々とふきならし、海の波や河川に合図をあたえて引きさがらせるようにと命じた。トリトンは、いちばん内側の渦巻からしだいに外側にむかって大きくなっていく、そのまがりくねったラッパを手にとった。このラッパは大海原の真中で鳴らしても、ポエブスののぼる東の岸辺にも、ポエブスの沈む西の岸辺にもひびきわたるのだ。このときもトリトンが濡れたひげから水のしたたる口もとにラッパをあて、命じられたとおり「状況終り!」の号音を吹きならすと、そのひびきは、陸と海のすべての水たちの耳にとどいた。これを聞いたすべての水たちは、たちまちおとなしくなった。(『転身物語』巻一、田中・前田訳)
ベルニーニのトリトーネ(トリトン)は四匹のイルカに支えられた貝の上にすわり、ロに当てがった法螺貝から「号音」ではなく水を噴き上げている。水はトリトーネに当たってくだけ散り、あるいは貝からこぼれ落ちて、風の具合によってさまざまに光と音とをもてあそぶ。べルニーニの彫刻作品中、唯一の完全に独立した彫刻であるトリトーネは、どの方向から見ても、べルニーニ一流のダイナミックな動勢を感じさせ、同時に「ミケランジェロ的モニュメンタリティ」(ブラント)を達成している。そしてこれに水が加わった時、異教神話の詩的な雰囲気が周囲に広がるのである。べルニーニはここで、それまでの幾何学的形態に支配されていた噴水を一変させ、噴水を水と光と音のファンタジーを作り出す一つの総合的彫刻作品にした。このまったく新しい噴水の概念は、ヨーロッパ中で展開するバロックの豊かな水の祭典の基礎となったといえる。つまり、トリトーネが吹き鳴らす法螺貝は、新しい噴水の時代の幕開けを四方に告げているのである。(中略)
噴水が表わす「高貴な意味」は二通りに解釈される。まず、トリトーネは文芸による不滅を象徴するから、噴水は教皇の詩才をたたえたものだと解釈できる。さらに、イルカは王侯の祝福を表わし、バルべリーニのハチは神の摂理を象徴するので、神の導きによる教皇の賢明な治世を宣伝しているともいわれる。いずれにせよ観る者はその造形の魔術に魅せられるにちがいない。だが、近代の都市改造と近年の交通事情によってすっかり周囲が変わり、加えて水圧の低下で噴き上がる水の勢いが衰えてしまったために、今日その効果が半減してしまったことはいかにも惜しまれる。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P97-99
ベルニーニはこれまでも古代ローマの詩人オヴィディウスの『変身物語』をモチーフに彫刻を手掛けてきた。
ボルゲーゼ美術館の至宝『プロセルピナの略奪』や『アポロとダフネ』もまさにこの『変身物語』の神話をモチーフにした作品だ。
今作『トリトーネの泉』もこのようにオヴィディウスの詩を視覚的に具現化し噴水に仕立て上げたのである。
たしかに噴水の仕組みとしては至ってシンプル。ほら貝の先から水が真上に噴き上がるのみ。そしてその水がランダムに跳ね返り、滴り落ちていく。このシンプルな作りながらなぜか目が離せなくなる水の動きには驚かざるをえない。
これをイルカと呼んでいいのかわからないが、なんともコミカルでかわいらしい。
それにしても、現代はどこに行ってもテーマパーク的な場所に行くことができるし、画像や映像でもファンタジー的なものを簡単に見ることができる。
しかしベルニーニがこうした作品を生み出す前は噴水でこのようなものはなかったのである。実用一辺倒の無骨なものばかりだった。それをベルニーニは一から生み出してしまったのだからやはりこれは偉大な発明である。
『トリトーネの泉』のすぐそばにある『ハチの泉』
ベルニーニはバルべリーニ広場に《トリトーネの泉》から戻った水を貯め、馬の飲料水にするためのもう一つの噴水、《ハチの泉》を作った。生命と豊饒のシンボルである貝と、バルべリーニのハチを組み合わせるという風変わりな趣向でできているこの噴水は、小さいが、なかなか面白い作品である(ただし、今日の噴水は当初のままではない。元来は広場の別の側の建物に付けてあったのを、一九世紀にとりはずし、今世紀の初めに現在あるヴェネト通りの入口に独立した噴水として再構成したものである。現在の噴水にはこの時捕われた部分が多い)。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P100
『ハチの泉』は『トリトーネの泉』からほんのすぐそばにある。ほとんど目の前と言ってもいい距離だ。だが、創造よりもかなり小さく、しかも装飾も慎ましいものなので意外と目立たない。私もこれを見つけた時は「えっ?これなの?」と不安になってしまったほどだった。しかも『ハチの泉』という名前ではあるが北海道民の私からすると、「ホタテ貝の泉」に見えてしまう。それほどハチが控えめな作品だ。だが、じっくりと見ていると段々この噴水のファンタジー感が感じられるようになってくる。何より、かわいい。『トリトーネの泉』と『ハチの泉』はともに「かわいさ」を感じさせる噴水だった。
あの『トレヴィの泉』もベルニーニが造るはずだった!?
噴水についての今回の記事の最後に、ぜひご紹介したいエピソードがある。それが『トレヴィの泉』についての、ある驚くべき裏話である。では石鍋真澄の解説を聞いていこう。
こうした噴水の他にも、べルニーニは重要な噴水の仕事に携わった。アックワ・ヴェルジネの終着点である《トレヴィの泉》を整備、装飾するというのがその仕事である。
今日ローマの最大の観光名所の一つになっている《トレヴィの泉》(その名の由来は、そこが三叉路になっているからとも、三つの流出口があったからとも、また水源地の地名から派生したともいわれる)は、最も重要な執着の噴水だったにもかかわらず、長い間本格的な装飾がなされぬままになっていた。つまりアックワ・ヴェルジネの流出口に簡単な装飾があるきりだったのであるが、ようやく一六四〇年になって、この噴水の整備・装飾のために三万六〇〇〇スクーディという巨額の予算が組まれ、「アックワ・ヴェルジネの建築家」でもあったべルニーニにその仕事が任されることになった。
彼はまず周囲の家屋を整理して空間をつくりクイリナーレ宮から見えるように噴水を移動して今日のような向きに変えたのである。ところがそこまで進んだところで、工事は中断してしまう。というのは、アッピア旧街道にある古代の重要なモニュメント、チェチリア・メテルラの廟から装飾に用いる大理石を調達しようとしたことに激しい反対が起こり、加えて教皇庁の財政が悪化したことが決定的に工事の続行を妨げることになったからである。
そしてこの後さまざまな紆余曲折を経るが、一七六二年になってようやく今日見るニコラ・サルヴィのすばらしい《トレヴィの泉》が完成する。残念ながら、べルニーニが《トレヴィの泉》をどのように装飾しようとしていたかは推測の域を出ず、また彼の構想とサルヴィの作品との関連も定かではない。けれども、ここでは詳しく論じないが、ナヴォナ広場にある《四つの河の泉》から決定的な影響を受けていることは確かであり、べルニーニなくしては今日の《トレヴィの泉》は存在しえないのである。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P99-100
※一部改行した
まさかこの『トレヴィの泉』もベルニーニが手掛けることになっていたとは驚きだった。しかもその中止の理由がまたリアルである。解説に出てきたチェチリア・メテルラの廟は私も訪れたばかりだった。
アッピア街道にあるこの旧跡。「(7)「すべての道はローマに通ず」~カラカラ浴場とアッピア街道、水道橋を訪問。古代ローマの驚異的な技術力に驚愕」の記事の中ではお話ししなかったが、私はこの廟を見てベルニーニのことを思い浮かべずにはいられなかった。すでにしてこの廟からはかなりの石が持ち出されているのがわかるが、もしベルニーニ案が通っていればほとんど原型をとどめていなかったかもしれない。古代ローマの旧跡から大理石を調達するのはサン・ピエトロ大聖堂建設でも積極的に行われていたし、ベルニーニのバルダッキーノにしてもパンテオンから銅を調達している。
そうした古代ローマの遺跡からの調達に対してさすがにローマ市民も怒りの声を上げたのだろう。非常に興味深いエピソードである。
『トレヴィの泉』は誰もが知る名所中の名所だ。だが、ここにもベルニーニが実は絡んでいたのである。
ベルニーニの影響力には驚くしかない。
続く
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※以下の写真は私のベルニーニメモです。参考にして頂ければ幸いです。
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