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岩淵達治『ブレヒト 人と思想64』あらすじと感想~われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら

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岩淵達治『ブレヒト 人と思想64』概要と感想~われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら

今回ご紹介するのは1980年に清水書院より発行された岩淵達治著『ブレヒト 人と思想64』です。私が読んだのは2015年新装版第一刷です。

早速この本について見ていきましょう。

ブレヒトは,「われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら」と言った。この挑発的な文章は,「もし」以下にたいへんな含みがある。シェイクスピアを変えられると言い切れる人は,変えられるだけの確固とした立場をもっていなければならないのだ。ブレヒトから学ぶべき態度はブレヒトを変えられると言い切れるようになることなのである。しかし私たちにはブレヒトを超えるまで知ることがすでに途方もない課題のように思われる。

Amazon商品紹介ページより
ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)Wikipediaより

この本はドイツの劇作家ブレヒトの生涯や時代背景、思想をコンパクトに知れるおすすめの作品です。

私がこの本を手に取ったのはシェイクスピアを学ぶ過程で知った蜷川幸雄さんがきっかけでした。蜷川幸雄さんの本の中でピーター・ブルックやバフチンと共に何度も言及されていたのがこのブレヒトでした。

当ブログでもピーター・ブルックの『なにもない空間』やバフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』は紹介しましたが、今回ブレヒトとは何者ぞやということで読んでみたのが本書『ブレヒト 人と思想64』になります。

そしてこの本の表紙にいきなり「われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら」という、シェイクスピアを学んでいる私にとって非常に興味深いフレーズが書かれていたのでありました。

これはいよいよブレヒトとはどんな人だったのか興味が湧いてきました。

そしてこの本を読み始めてみると、戦後の日本の演劇事情も垣間見えてきました。「なるほど、蜷川さんもこういう空気の中で演劇人として生きていたんだな」とわくわくしながら読むことになりました。

せっかくですのでこの本の冒頭の文章をここで紹介したいと思います。時代背景と演劇のつながりを考える上でもとても重要な箇所ですので少し長くなりますがじっくり読んでいきます。

はじめに―ブレヒトとわたし

ブレヒトを今世紀の偉大な思想家のひとりに数えてもまず反論する人はあるまい。だがわたしとブレヒトの出遭いは、個人の精神史にとって大きな体験となるような偉大な思想家との最初の触れあいとしてはいささか奇妙なものだった。それはブレヒトが、思想家であるよりも前に演劇人であめり、演劇と思想という、ふたつ並べてみるといかにも収まりの悪い領域を結びつけようとした先駆者だったからであるらしい。わたしのブレヒトに魅せられるきっかけになったのは、まがりなりに自カで原書で読んだほんの数十ページの「演劇のための小思考原理クライネス・オルガノン」という演劇論だった。大学を出たばかりの一九五一年のことだった。

それに私的な事情も重なっている。学芸会以外は芝居らしきものを見たことがなかった私は戦後いっぱしの演劇青年になり、学生演劇に熱中した。戦時中の鎖国状態で海外の芸術の動きに目を塞がれていた反動でもあろうが、戦後の新劇は翻訳劇一辺倒に近く、新しい外国作家が続々と紹介されていた。戦時中に弾圧された新劇の傾向は概して左翼的であり(今なら公式左翼的といえよう)、戦前に定着しかけたまま中断された社会主義リアリズムの理論が主流になっていた。ソヴィエトで提唱されたこの理論を俳優術に反映していると思われたのがスタニスラフスキーの体系であり、その著「俳優修業(俳優の仕事)」は、役者志望の青年たちに聖典のように読まれたものである。

俳優志望で、学生演劇の迷優であった私も、ご多分に洩れずこの聖典を拝読したわけだが、俳優として一度も「役そのものになりきる」経験をもてなかった私は、これを読んで絶望するばかりだった。生来醒めているせいか、敗戦による価値観の転換でシラけてしまったせいか、私には役になりきる暗示や自己催眠をかける能力が欠如していた。しかし俳優の破産宣告を受けたように悩む一方では、激情的パセチックな熱演力演に接するとこみあげてくる不快感を抑えることができなかった。そんな頃に戦後もなおとだえていたドイツの新刊書がようやく輸入されるようになり、戦前も多少知られていたブレヒトの活躍のニュースとともに、「試みフェルズーヘ」と題された何冊かの著作を手にすることができた。大学ノートのような粗末な装丁の本だった。まず作品より演劇論にとりついたのは、それが短くて当時の語学力にも相応らしくみえたからである。そのなかに私は、役になれぬ役者の罪悪感を拭ってくれるあのことばを見つけたのだ。

「俳優にとって〈彼はリア王を演じているのではなく、リア王そのものだった〉などと評価されることは、致命的な打撃である。」

狂喜した私は、この文章をメモし、日頃私の演技に批判的な、スタニスラフスキーを信奉する芝居仲間たちに挑戦したのである。幸いブレヒトは進歩的作家でもあったから、、、、、、、、この理論は強力な後楯になった。つまり私はブレヒトを権威として利用するという、最もブレヒト的でない誤りをのっけから犯していたのである。特に俳優が役になりきることの可否にこだわりすぎることが、後のプレヒトの誤解を助長したことを考えると、この誤りはかなり罪深いものである。

清水書院、岩淵達治『ブレヒト 人と思想64』2015年新装版第一刷P3-5

著者とブレヒトとの出会いが書かれたこの箇所ですがいかがでしょうか。戦後の若者たちの演劇界の様子が伝わってきますよね。やはり戦後の急激な価値観の転換、そしてソヴィエトの存在、こうした世界規模の時代背景が演劇界にもかなり大きな影響を与えていたことがよくわかります。

また、蜷川さんの本の中でもよく出てきたスタニスラフスキーの巨大な影響力も伝わってきました。「役になりきる」という発想はここに理論的根拠があったのですね。これもソヴィエト的、社会主義リアリズムから生まれてきているというのも興味深いです。これまで当ブログではロシア帝国、ソ連、現代ロシアの歴史も学んできましたがやはり演劇にもこうした時代背景や思想が影響しているということを改めて感じました。

そして最も印象に残ったのは後半の「狂喜した私は、この文章をメモし、日頃私の演技に批判的な、スタニスラフスキーを信奉する芝居仲間たちに挑戦したのである。幸いブレヒトは進歩的作家でもあったから、、、、、、、、この理論は強力な後楯になった。」という箇所です。

かつての日本ではやはり理論武装がなければどうにもならなかったという現実があったのだと痛感します。安保闘争、学生運動の映像や本を読んでもとにかく「言葉」が飛び交います。しかもその言葉が明らかに高尚な言葉ばかり。1990年生まれの私からすると驚くしかない言葉の応酬。理論武装がなければ圧倒的な言葉の波に流されてしまう。そんな時代に演劇は中心的な役割を果たしていたのだと改めて感じ入りました。それは社会情勢の影響を受けないわけがありませんよね。

私は以前「バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』~蜷川幸雄が座右の書とした名著!」の記事で蜷川幸雄さんもバフチンの理論を強力な後ろ盾として用いていたのではないかということをお話ししました。(もちろん、その記事の中でも書きましたが、蜷川さんが理論武装云々を超えてバフチンの論に純粋に影響を受けたという点も忘れてはなりません)

革新的な演劇を生み出していた蜷川さんも多方面から様々な攻撃を受け、それこそ理論武装がなければ厳しい状況に追い込まれていました。そんな中ソ連の高名な思想家バフチンの理論があれば、敵方も引き下がるしかあるまいと私も思いました。こうした演劇作品そのものだけでなく思想・理論面でも戦わなければならない厳しさというものを最近の読書で私も感じたのでありました。

さて、本書『ブレヒト 人と思想64』では第一次大戦、第二次大戦、冷戦という時代をくぐり抜けた劇作家ブレヒトの生涯を見ていくことになります。この本を読めば彼の思想にどれほど時代背景が大きな影響を及ぼしていたかがよくわかります。

第一次大戦を経たドイツではナチスが猛威を振るい、東西冷戦では両陣営の思想が渦巻いていました。そんな中ブレヒトもマルクス主義を研究しています。現代日本を生きる若者には想像もできないような社会を彼は生きていたのでした。そんな中彼が生み出した劇作品は一体どんなものだったのか、彼の何がそこまで革新的だったのか、そのことをこの本では知ることができます。

この本は時代背景と演劇のつながりを知れる非常にありがたい作品です。また、あのトーマス・マンとの敵対関係も見どころです。私は個人的にトーマス・マンの作品が好きなのですが、ブレヒトのおかげでまた違った側面からトーマス・マンを考えることができました。

最後に、この記事のタイトルに書いた「われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら」という言葉ですが、実はこの本ではシェイクスピアについてはほとんど語られません。本書の終盤に「シェイクスピアは変えられるか」という章題で2ページほど書かれているに過ぎません。

ですがこの本全体を読めばわかるのですがブレヒトがシェイクスピア演劇についてどう考えているのか、古典の作品を現代で上演するというのはどういうことなのかが見えてきます。

今この記事でそれを解説することはできませんが、それはぜひこの本を読んで確かめてみて下さい。著者はブレヒトがどんな演劇を目指していたかを丁寧に解説して下さっています。

私がこの本を手に取ったのはシェイクスピアがきっかけでしたが、「演劇と時代背景」について考えることができたのは大きな収穫だったなと思います。

当時の演劇界の空気感を知れるこの本はとてもおすすめです。私も1ページ1ページ興味津々で読みました。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「岩淵達治『ブレヒト 人と思想64』~われわれはシェイクスピアを変えられる。もしわれわれがシェイクスピアを変えられるなら」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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