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ボスニアの首都サラエボに到着~ボスニアはどんな国? ボスニア編②

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ボスニアの首都サラエボに到着~ボスニアはどんな国? 僧侶上田隆弘の世界一周記―ボスニア編②

4月26日。

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの空港に着陸。

首都の国際空港としては控えめなサイズの空港。

どんよりした雲空。

しかし気温は30度近く。蒸し暑い空気を感じる。

いよいよサラエボにぼくは来たのだ。

空港からは車で旧市街にある宿まで移動。

ヨーロッパともアジアともどこか違う雰囲気の街並み。

少し寂れた様子を見せる街の姿は先の紛争の爪痕が尾を引いているからなのだろうか。

さて、旧市街外れにある宿に到着。

今回滞在した宿は川沿いにあるペンションで、静かで景色もよく、旧市街中心部まで徒歩10分もかからないという立地の良さ。

しかしこの旧市街外れの静かな立地というのが後に起こった出来事の原因にもなってしまったのだがそれはまた後の話。

何はともあれ、目の前を流れるはミリャツカ川。

この川の下流、歩いて10分ほどの場所には第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の舞台、ラテン橋が架かる。

ラテン橋

ぼくはこの川沿いに歩き旧市街へと歩き出す。

初日の今日は飲み物の調達がてら軽く街並みを散策だ。

ボスニアは路面電車が市民の足。

かなり年季の入った車体。物資が少ないのが響いているのだろうが、驚くことにここサラエボは世界で初めて路面電車が実用化された街なのだそうだ。

というのも当時ボスニアを支配していたオーストリアの首都、ウィーンに導入するための実験としてここで運用が始まったのだ。

それが1885年の出来事。

ウィーンといえば言わずと知れた華の都。

そこに導入するための実験として使われたということは、それだけこのサラエボの街は栄えていたということもできるだろう。

旧市街の中心部から少し離れた通りはやはり少し寂しげな街並み。

ヨーロッパ世界やアジア世界、さらにはアラブのイスラム世界とも違う、様々な文化が混じり合った独特な景観。

これは中世から長きにわたってボスニアを支配していたオスマン帝国の影響が大きかったためこのような独特な景観になったと言われている。

オスマン帝国の象徴・イスタンブールのアヤソフィア

その後オスマン帝国に代わって1878年からここを支配したのが、先ほど述べた皇后エリザベートで有名なハプスブルク朝オーストリアなのだ。

ウィーン・シェーンブルン宮殿

くしくもぼくがボスニアを訪れる直前に滞在していたのがオーストリアのウィーン。

ウィーンで見たハプスブルグ家の宮殿の様子がありありと目に浮かぶ。

彼らがここを支配下に置いていたのだ。

そして旧市街を歩いていると、視界の先には山がそびえ立っているのが見える。

サラエボは街の周囲を山で囲まれた街。

街からすぐそこに豊かな自然がある。

だが同時にこの地形こそサラエボの人々を苦しめることとなってしまったのであった。

さて、ここでボスニアについて少しだけお話ししていこう。

ボスニアは人口およそ350万人。

バルカン半島に位置するボスニア・ヘルツェゴビナ。

この地域はかつては北からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアから成るユーゴスラビア社会主義連邦共和国を形成していた。

しかし1990年代のユーゴ紛争によってこの連邦国は消滅。

それぞれの国が紛争の末独立を果たし、現在の形となっている。

みなさんも歴史の授業で耳にしたことがあるであろう「ヨーロッパの火薬庫」とはまさしくこのバルカン半島。

第一次世界大戦はここから始まったのだ。

そして20世紀初頭だけではなく21世紀を迎えんとしていた1990年代にもこの地は争いの火種と化してしまったのだった。

それだけこの地を巡る政治的、歴史的状況は複雑を極めているのだ。

旧市街中心部 バシチャルシア広場

紛争からおよそ20年以上が経過しサラエボの街は復興しつつある。

しかしその速度は紛争後間もなくは遅々として進まず、近年になってようやく急ピッチで街の復興が進んできているそうだ。

観光地としての人気も近年上昇し、まだまだ不十分なところがあるとはいえ、街は賑わいを取り戻しつつある。

飲み物を調達しに来たスーパーマーケット。

スーパーと言っても小さな商店と言った雰囲気。

社会主義時代の名残だろうか、こんなに並んでいてもレジにはスタッフ一人だけ。

なかなか列が進まない。

たまたまこうなってしまっただけかもしれないけれど、海外では日本みたいに何事も思い通りにいかないのがスタンダード。

旅も中頃になりぼくも海外のリズムになんとなく慣れてきたようだ。

話によると新市街まで行けば欧米式の大きなスーパーマーケットがいくつもあるそうだ。

だがここ旧市街では昔ながらのスタイルが今でも残っている。

ある意味、そういうお店を体験できたことがその地を知る上では貴重な経験になったと言えるかもしれない。(もっとも、旧式の商店と比べたらスーパーと言っている時点でこの店も十分近代的なのだけれども)

さて、サラエボに到着した本日の行程はこれにて終了。

明日からはガイドさんと共にサラエボの街を紛争当時のお話を聞きながら見学する。

続く

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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