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マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』あらすじと感想~「宗教はアヘン」はどのような意味なのか

目次

「宗教はアヘン」はここから~マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』より

カール・マルクス(1818-1883)Wikipediaより

今回ご紹介するのは1844年にマルクスによって発表された『ヘーゲル法哲学批判序説』です。この作品は有名な「宗教はアヘンである」という言葉が説かれた作品であります。

私が読んだのは岩波書店より1974年に発行された城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収の『ヘーゲル法哲学批判序説』(2013年第32版)です。

早速この本について見ていきましょう。

この二つの論文は,ヘーゲル左派に属していた若きマルクスが,フォイエルバッハの宗教批判をこえて,マルクス自身の立場に到達し,『経哲草稿』さらには『資本論』への道をきり拓いた画期的著作である.市民社会をこそ問わねばならぬとして,批判の正面におき,かれの「人間的解放」の思想を鮮やかに力強く展開する.

岩波書店HP商品紹介ページより

この作品は上の解説にありますように、フォイエルバッハの宗教批判に大きな影響を受けた作品となっています。フォイエルバッハについては以前当ブログでも「フォイエルバッハの唯物論~マルクスの「宗教はアヘン」はここから生まれた「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(11)」の記事で紹介しました。

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フォイエルバッハは唯物論を説き、宗教を強烈に批判した人物であり、主著『キリスト教の本質』という作品を残しています。

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彼の『キリスト教の本質』を読んだ後にマルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』を読むとそのつながりがはっきり見えてきます。特に「宗教はアヘンである」という言葉に関する流れに関してそれが感じられます。

せっかくですのでここで「宗教はアヘンである」という言葉が出てくるその流れを見ていきましょう。『ヘーゲル法哲学批判序説』は文庫本で35頁と、かなりコンパクトな作品です。しかも有名な「宗教はアヘンである」の流れはこの本の始まりとして書かれているのですぐ出てきます。ではその流れを引用していきます。

ドイツにとって宗教の批判、、、、、は本質的にはもう果されているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。

誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈り、、、、、、、、、、、、、、、、[oratio pro aris et focis]が論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な、、、、存在も危くされている。天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映、、だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象、、だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。

反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、、、、、、、、、、、、、、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。

岩波書店、カール・マルクス、城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収『ヘーゲル法哲学批判序説』(2013年第32版)P71-72

「ドイツにとって宗教の批判、、、、、は本質的にはもう果されているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。」

マルクスがこう言うのはフォイエルバッハのキリスト教批判を前提としていますが、さらにさかのぼってみるとシュトラウスという人物の『イエスの生涯』という本も関わってきます。そのことについては以前紹介した以下の記事でお話ししていますのでぜひご参照ください。

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また、上の引用で重要なのは「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、、、、、、、、、、、、、、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。」という箇所です。マルクスはこのことを前提に論を進めていきます。

しかし人間というもの、、、、、、、は、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界、、、、、であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界、、、、、、であるがゆえに、倒錯した世界意識、、、、、、、、である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論埋学であり、それの唯心論的な、体面にかかわる問題[point-d’honneur]であり、それの熱狂であり、それの道徳的承認であり、それの儀式ばった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質、、、、、が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したもの、、、、、、、、、、である。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香、、をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。

岩波書店、カール・マルクス、城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収『ヘーゲル法哲学批判序説』(2013年第32版)P72

若干ややこしい文章が続きますが、後半の「宗教は、人間的本質、、、、、が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したもの、、、、、、、、、、である。」という箇所に注目です。

そしてマルクスはこれを受けてあの有名な言葉を述べていきます。

宗教上、、、の悲惨は、現実的な悲惨の表現、、でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議、、でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片、、である。

岩波書店、カール・マルクス、城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収『ヘーゲル法哲学批判序説』(2013年第32版)P72

これがあの有名な「宗教はアヘン」という言葉が述べられた箇所になります。

なんと、この作品が始まってからたった2ページ目で姿を現しました!

先程、「人間が宗教をつくるのであり、、、、、、、、、、、、、、宗教が人間をつくるのではない」という言葉を見ていきましたがそれとこの部分を照らし合わせるとマルクスが何を言わんとしているのかが見えやすくなります。

「なぜ宗教は救いを説くのか。それは現実世界があまりに悲惨で、人々が救いを求めているからだ。宗教がそもそものはじめにあったのではなく、人間がそれを望んだから宗教を作り出したのだ」とマルクスは述べます。そして「実際に宗教は悲惨な状況にいる人々の鎮痛剤、つまりアヘンとしての働きを担っている」と語るのです。

私たちは「宗教はアヘン」と聞くと、何やら宗教が人々を狂わせるかのような意味で受け取りがちです。ですがそういうことを言わんがためにマルクスは「宗教はアヘン」と述べたわけではないのでした。それは次の箇所からも明らかです。

民衆の幻想的な、、、、幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な、、、、幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求すること、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、である。したがって、宗教への批判は、宗教を後光、、とするこの涙の谷、、、〔現世〕への批判の萌し、、、、、、、をはらんでいる。

岩波書店、カール・マルクス、城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収『ヘーゲル法哲学批判序説』(2013年第32版)P72ー73

現実の悲惨から逃避するために鎮痛剤に頼ってはいけない。現実の悲惨から抜け出すにはまずは宗教という幻想を棄てることだ。自分が鎮痛剤に頼っていたことに気づき、目覚めよとマルクスは促します。

批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。

それゆえ、真理の彼岸、、、、、が消えうせた以上、さらに此岸の真理、、、、、を確立することが、歴史の課題、、、、、である。人間の自己疎外の聖像、、、、、、、、、、が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題、、、、、である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判、、、、、、法への批判、、、、、に、神学への批判、、、、、、政治への批判、、、、、、に変化する。

岩波書店、カール・マルクス、城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収『ヘーゲル法哲学批判序説』(2013年第32版)P73

「宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。」

う~む、何とも詩的な表現です。見事と言うしかありません。

そしてマルクスは核心に迫ります。

「こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判、、、、、、法への批判、、、、、に、神学への批判、、、、、、政治への批判、、、、、、に変化する。」

これはどういうことかと言いますと、次のように言い換えることができるかもしれません。

「虐げられた人びとよ、目覚めよ!あなた達こそ政治活動を担う存在だ!それこそ悲惨な現実を変える道なのだ!」

こうなってくるとマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』までひとつながりのものを感じますよね。

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「プロレタリアートよ、立ち上がれ!」というスローガンの理論的な根拠のひとつとして「宗教はアヘン」という考えが語られたことを『ヘーゲル法哲学批判序説』を通して知ることができました。

「宗教はアヘン」という言葉は僧侶である私にとって非常に厳しいものがありました。なぜマルクスはそのように語ったのか、何を意図して語っていたのかを知れたことはとても大きな経験となりました。

以上、「マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』あらすじと感想~「宗教はアヘン」はどのような意味なのか」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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