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世界遺産カジュラーホー遺跡群を訪ねて~美しき天女の饗宴!性と宗教について考える

カジュラーホー
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【インド・スリランカ仏跡紀行】(14)
美しき天女の饗宴!世界遺産カジュラーホー遺跡群を訪ねて~性と宗教について考える

第二次インド遠征最初の目的地はデリーから飛行機で1時間半ほどの距離にあるカジュラーホーという町。

私が現地に着いたのはすっかり夜も暮れてからのことであったが、周囲に大きな建物もない田舎だからだろうか、月の光が実に美しく感じられた。

私がここカジュラーホーにやって来たのは理由がある。私はここで「あるもの」を見たかったのである。

それがこちらだ。

カジュラーホーのミトナ(交合)像 Wikipediaより

皆さんを驚かせてしまったかもしれないが、私はこれを見にはるばるカジュラーホーまでやって来たのである。

このカジュラーホーにはミトナ像と呼ばれる性的な彫刻が数多く残されている。私がこれに関心を持ったのは以前当ブログでも紹介した辛島昇・奈良康明共著『生活の世界歴史5 インドの顔』でこの彫刻が紹介されていたのがきっかけだった。

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お気づきの方もおられるかもしれないが、この本の表紙もまさにカジュラーホーの彫刻なのである。それほどインド文化において重要な存在ということができるだろう。

解説によれば、ミトナ像はヒンドゥー教における幸福を考える上で非常に大きな意味を持つという。なぜならヒンドゥー教において性愛(カーマ)は人生の三大目的のひとつとして公式に認められたものだったのだ。著者は次のように語っている。

ヒンドゥー教徒は直接的な性愛を、しかもオープンに認めている。明るい性の謳歌は大なり小なり古代社会の特徴だが、インドではそれ以上に性愛への偏見は少なかった。ダルマ(宗教)とアルタ(理財)とならんでカーマが人生の三目的にあげられていることでもそれは判る。直接的な性愛は率直に明るく語られていたし、文学や美術をみてもうかがい知ることができる。

河出書房新社、辛島昇・奈良康明『生活の世界史5 インドの顔』P234

その象徴的な存在としてカジュラーホーが挙げられていたのである。

さらに言えば定方晟著『インド性愛文化論』で次のように説かれていたのも大きなきっかけとなった。

仏教は堅くるしいもの、真面目くさったものと考えられている。しかし、膨大な仏教文献のなかに、エロ的、グロ的、サド的要素を見出すことは不可能ではない。(中略)

仏典のエロティシズムに焦点を絞ろう。仏教は性には無関心であるように見える。しかし、それは表面上のことであって、その底には抑圧された性が潜んでいる。性欲の克服を重視する仏教は、それだけ大きなそれへの関心を前提にしているはずである。(中略)

わたしはいま仏教の裏街道を示そうとしている。仏教学者のなかにはこれを好まない人がいるかもしれない。しかし、人間にとって大事な性の問題を避けて、仏教のなにがわかるだろうか。性愛(カーマ)はインドでは人生の三大目的の一つにあげられているくらいである。人間のすべての面を知ってこそ仏教の意義が正しく理解できると、わたしは考える。

春秋社、定方晟著『インド性愛文化論』P1-6

「人間にとって大事な性の問題を避けて、仏教のなにがわかるだろうか」

たしかにそうなのである。なぜそもそも仏教は禁欲を説くようになったのだろうか。なぜ女性との接触をひたすら避けようとしたのだろうか。「煩悩を断つため」と言えば話は簡単かもしれないが、なぜ性愛を煩悩と断定できるのだろうか。性愛がなければ愛の喜びもないではないか、子孫も生まれないではないか。

そして仏教とは反対にヒンドゥー教では性愛は幸福そのものとして称えられ、さらには神秘体験にまで昇華されることになっていく。「(5)ハリドワールのマンサ・デーヴィー寺院に神々のテーマパークを感じる~ヒンドゥー教の世界観への没入体験」の記事でもお話ししたが、ヒンドゥー教は人間の欲望を肯定する傾向が特に強い。欲望否定の仏教のストイックさとは真逆である。

はて、これはどうしたものか。ここで改めて仏教における性愛について考えてみるのも一興。そのためにカジュラーホー寺院でヒンドゥー教の性愛文化を見てみようではないかと思い、私はここを訪れることを決めたのである。

つまり、単にエロティックな彫刻を見に行きたいわけではないのである。

カジュラーホーは人口5000人ほどの小さな農村だ。1986年にここの寺院群が世界遺産に登録されたことから近年観光地化が進むことになったが、未だに田舎の雰囲気を残したままだ。

カジュラーホーの寺院群は大まかに東群、西群、南群の三つのエリアに分かれている。私が最初に訪れたのはそれらの中でも最大規模を誇る西群のエリアだ。

駐車場からエントランスへと歩いていくと大きな貯水池に出る。そしてこの池に沿って歩いていくと視線の先に寺院が見えてくる。

おぉ、これがカジュラーホー寺院か!たしかにこれは遠くから見ても美しい!写真では伝わりにくいかもしれないが現地で見たこの姿に私は感動してしまったのである。前回のインドでは見られなかった建築様式だ。

ちなみにであるが、カジュラーホーはあくまで地名であり寺院の名前ではない。だから正式には一つ一つの寺院の名前を言っていかなければならないのだが、このエリア全体について述べるときには便宜上これからもカジュラーホーと呼ぶことにする。

入り口から奥に向かって徐々に高くなっていく独特の構造。こちらは11世紀前半に作られたカンダーリヤ・マハーデーヴィ寺院。カジュラーホー全体における最大の寺院だ。インド建築史においても最高傑作のひとつとして知られている。

目を凝らしてみると、壁面にびっしり細かな彫刻がなされていることがわかる。ぜひその姿を早く間近で見たいものだ。

寺院のすぐ目の前までやってきた。階段の下から見上げるとものすごく高さを感じた。空を仰ぎ見るかのよう。

こちらは入り口部分の壁面。

おぉ!あったあった。これがカジュラーホーの彫刻か!たしかにものすごく細かく作られている。一体一体のクオリティが凄まじい。

だが、私の求めていたミトナ像がどうも見当たらない。カジュラーホーといえばミトナ像というイメージがあった私にとってこれは意外だった。

ガイドさんにそのことを話してみるとこう答えてくれた。

「カジュラーホーではミトナ像は全体の10%もありません。ミトナ像ばかり有名になってしまいましたが、実際は違うのです」

ほお!そうだったのか!これは意外だった。

そして私はガイドさんに案内されミトナ像の下へと向かった。

たしかに歩きながら壁面を見てもほとんどミトナは見られなかった。では、周りに掘られたミトナ以外の90%の彫刻は何の像なのだろうか。

だいたい半分以上がシヴァ神やヴィシュヌ神、その他多くの化身であり、あとは美しい天女がこの空間を彩っている。この天女たちのプロポーションがこれまた鮮烈。突き出た胸と尻、長い脚にくねる腰つき。ある像は鏡を手にし化粧をし、ある天女はサリーを脱ぐ仕草をしている。写真で見たミトナ像よりこちらの方がずっとセクシーである。

だが、何はともあれ、ミトナ自体は全体の内ごく少数というのがよくわかった。

そして寺院の中心ほどに来た時、その像は私の前に現れたのである。

拡大しよう。

生で観ると立体感があって写真で見るのとはまるで違う。生々しさ、肉感をとてつもなく感じる。もはや石ではない。挿入された男根まで緻密に作られているのにはさすがに笑ったが、これらのミトナ像からはいやらしさを全く感じなかった。欲にまみれた不純さはそこにはない。もはや崇高さすら感じられた。これは明らかにヨーガであり、単なる性的快楽を超えたものを志向している。

反対側には有名なミトナ像が。写真などで紹介されるのもこちらの方が多いかもしれない。

真下からのアングルで見てみよう。本などの写真はだいたい正面のカットになってしまうが、これは現地に行ったからこその特権だ。やはり立体感、肉体の丸みを感じられて非常に面白い。

そしてこれらの像を見ていて思うのだが、リアルを超えたリアルっぽさがある。これぞ芸術家の腕の見せ所だ。単に現実そのものを模写するだけでは超一流とは言えないのである。

先程とは反対側からの写真。まるでヒマラヤのようにそびえ立つ構造。この建築様式はまさにシヴァ神の住むヒマラヤの山をイメージして作られているそうだ。

それにしても、ミトナ像は露骨すぎてなんとも言えないものがあるがここカジュラーホーを歩いていると、ふとものすごく目に留まる天女像があるのも事実。皆姿も顔つきも違う。その中でたまに強烈に惹かれてしまうものがあるわけだ。

だが、それは性的なものが由来ではない。そうではなくポーっと見入ってしまう、まさにそんな感じだ。これはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂やパリのルーブル美術館やで感じた美の力とまさに同じだ。

私はこれらの像を見た時、完全に恍惚状態になり意識を奪われてしまっていた。気づけば15分以上の時間が過ぎていたのである。目の前の完全な美に夢中になり、思考が全て止まってしまったのだ。(詳しくは「ローマカトリック総本山サンピエトロ大聖堂~想像を超える美しさに圧倒される イタリア・バチカン編④」「(12)ルーブルの至宝『サモトラケのニケ』が素晴らしすぎた件について~ぜひおすすめしたいヘレニズム彫刻の傑作!」の記事を参照)

そして私がカジュラーホーの中で最も強烈なインパクトを受けたのがこの彫刻だ。これはチトラグプタ寺院に施された彫刻だが、左脚がくっと前に出て右脚前にひねり出されるこのラインに私は痺れた。腰回りと太ももの肉感の表現も群を抜いている。

私はこの優美な彫刻にすっかり魅了され、照り付ける灼熱の太陽の下しばらく動けなくなってしまった。

そしてふと気付く。

あぁ、この像も顔と腕が欠損しているではないか・・・と。

そう、まさに『サモトラケのニケ』と同じなのである。欠損しているからこその美というものがあるのである。これは言うは易しだがなかなか伝えにくい感覚だ。だが、私はそれを知っている。そして現にここで感じているのである。

ラクシュマナ寺院
ラクシュマナ寺院のミトナ像
寺院内部
寺院内部の天女像

さて、ここまでカジュラーホー寺院群についてお話ししてきたがいかがだったろうか。強烈な写真に驚かれた方もおられるかもしれない。だが、読者の皆さんもそろそろこう思われたのではないだろうか。

「それにしても、そもそもミトナ像って何なのだ?」と。

この記事の冒頭でミトナ像がヒンドゥー教の性愛文化から来ていることを少しだけお話ししたが、それでもやはり謎な存在に変わりはないだろう。

本来はここでミトナ像とは何かということについてじっくりお話ししていきたいのだがそれをしてしまうとものすごい分量の記事になってしまう。というわけで興味のある方はぜひ上でも紹介した辛島昇・奈良康明共著『生活の世界歴史5 インドの顔』を読んで頂ければと思う。実に興味深い指摘がなされているのでまさに目から鱗だ。

いずれにせよ、ヒンドゥー教は仏教に比べ圧倒的に性に対してオープンだと言える。

これは仏教とヒンドゥー教が主に誰を対象にした宗教だったかということと大きな関係があるのではないだろうか。

「【仏教講座・現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】⒂ なぜ仏教がインドで急速に広まったのか~バラモン教から距離を置く大国の誕生と新興商人の勃興」の記事でもお話ししたが、仏教はまず大前提として、当時の主流たるバラモン教的な世界観の否定から生まれている。つまり、この世のあり方を厭い、出家を選んだ人間のための宗教だった。つまり、普通の生活をしている一般庶民とはそもそもかけ離れた発想の教えだったのだ。

ではインドの一般庶民はどのような教えに親しんでいたのか。それが様々な神様へのお祈りや欲望肯定の教えを中心とするバラモン教(後のヒンドゥー教)だったのだ。

ヒンドゥー教はインドの一般庶民の心を捉える信仰形態を生み出した。性愛の喜びが人生の三大目的のひとつに据えられているのもまさにここに根ざしている。

となると、ではなぜ一般庶民とは関係のない仏教がインドで広がったのかという新たな疑問も出てくる。この辺の事情も実に興味深いのであるがそれを話し出すときりがなくなるのでこの辺で止めておこう。興味のある方は「【仏教講座・現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】⒇マガダ国王ビンビサーラとの再会~大国の国王達が続々とブッダへの支援を表明!権威を増す仏教教団」の記事をご参照頂きたい。

カジュラーホーは想像していたよりはるかに素晴らしい場所だった。衝撃を受けたと言っていい。

私の中のインド・ヒンドゥー教芸術のナンバー1はぶっちぎりでここである。インドにはもう行きたくないと公言してやまない私であるが、ここに関してはぜひまた再訪したいと思える場所である。それほど素晴らしい場所だった。インド芸術の最高峰であることは間違いない。

次の記事ではこのカジュラーホーに際して、インドのシヴァ・リンガ崇拝についてお話ししていきたい。

シヴァ・リンガとは何ぞや。

これはインドの男根崇拝の象徴なのである。しかもこれがヒンドゥー教の三主神の一人、シヴァ神と強い結びつきがあり、インド人の信仰に非常に重要な意味を持つのである。

せっかくカジュラーホーに来てヒンドゥー教と性愛について考えたのだ。であるならばさらに進んでヒンドゥー教において非常に重んじられるシヴァ・リンガについて学ぶのもよい機会だと思う。

インド人の信仰においてこのシヴァ・リンガはあまりに重要である。インドのどこに行ってもほとんど必ずこのシヴァ・リンガがあるほどこの信仰は生活に根ざしているのだ。

「男根崇拝といっても昔の話でしょ?」と侮るなかれ。現代インドでも若い男女がごく当たり前のようにこのシヴァ・リンガにお祈りするのである。

インドを知るためにはシヴァ・リンガは避けて通れない。では、引き続き見ていこう。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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