植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』あらすじと感想~日本を代表する仏教学者の桁外れのスケールと生涯を知るのにおすすめ!
植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』概要と感想~日本を代表する仏教学者の桁外れのスケールと生涯を知るのにおすすめ!
今回ご紹介するのは2014年にKADOKAWAより発行された植木雅俊著『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』です。
早速この本について見ていきましょう。
洋の東西を超える人類共通の智慧を求めた仏教学者、中村元。碩学がたどりついた仏教の核心とは?ヴェーダーンタ哲学の歴史を解明する6000枚の博士論文。『東洋人の思惟方法』の刊行と毀誉褒貶の嵐。念願の地・インドへの旅と原始仏教の独創的研究―。アカデミズムを超えて「人間ブッダ」の魅力を説き、多くの人に慕われた人柄と円熟期の思想、そして弛まざる学究の生涯をつらぬく“普遍思想史への夢”を鮮やかに描く。
Amazon商品紹介ページより
中村元先生は日本を代表する仏教学者で、当ブログでも先生の『ブッダのことば』や『ブッダの真理のことば』を紹介しました。これからも先生の著作をブログで紹介していく予定ですが、その前にぜひ先生その人についてもっと知りたいということで手に取ったのがこの本でした。
この本の「はじめに」では中村元先生についての驚くべきエピソードがいくつも述べられていましたのでそちらを紹介したいと思います。少し長くなりますが仏教を学ぶ上で非常に重要なことが説かれていますので、じっくりと読んでいきます。
中村元の肩書は、しばしば「仏教学者」とされている。確かに、ずば抜けた仏教学者であることに間違いないが、それには収まりきまらないところがあまりにも多い、「インド哲学者」だとしても同じことだ。中村は、卓越した仏教学とインド哲学の研究に基づいて、東西の思想・哲学を俯瞰し、最終的には普遍的思想史の構築の必要性を訴え、死ぬ間際まで自らそれに取り組んだ思想家であり、哲学者であったといえよう。
博士論文では、サンスクリット語で書かれたアビダルマや、大乗仏典、ジャイナ教や、バラモン教の文献、さらにはギリシア語の文献や、漢訳、およびチべット語訳の仏典に引用された断片から、ヴェダーンタ哲学史の千年にわたる空白部分を復元した。インド人の学者たちをも驚かせるほどの離れ業を成し遂げた。サンスクリット語、パーリ語、チべット語、英語、ドイツ語、ギリシア語、フランス語に精通した語学の天才にしてはじめて可能なことであった。その論文は、六千枚以上というあまりに膨大な量で、弟に手伝ってもらってリヤカーで東京帝国大学に運び込んだ。指導教授の宇井伯壽(一八八ニ~一九六三)は、思わず「読むのが大変だ」と漏らしたという。
その論文によって、文学博士といえば、七十歳、八十歳になって受けるものと言われていた当時、三十歳の若さで文学博士の学位を取得した。
仏教学の分野では、難解と言われた仏教を、いかに平易で分かりやすいものにするかに努めた。また、神格化され、人間離れしたものとされたゴータマ・ブッダから、歴史上の人物としての「人間ブッダ」の実像に迫り、最初期の仏教の実態を浮き彫りにした。それによって、仏教は本来、迷信や権威主義とは無縁で、道理にかなったものであったことを明らかにした。インドの釈尊の時代から「二千五百年」「五千キロ」という時空を隔てた今日の日本にあって、〝壮大な伝言ゲーム〟を経て生じた誤解や曲解を正すことに専念したとも言えよう。
中村は、インドの現地を何度も訪れ、インド人の生活、風上、自然などを踏まえ、サンスクリット語や、パーリ語などインドの原典に立ち返って考察した。インドに行こうとも思わなかった西洋のインド学者たちとは全く異なる態度であった。
「中村元選集」(旧版)全二十三巻の完結で文化勲章を受章したかと思えば、それから十一年後には決定版「中村元選集」全四十巻の出版に取りかかるというように、とどまることのないあくなき探究の連続であった。十九年がかりで仕上げた二百字詰め原稿用紙四万枚が行方不明になっても、不死鳥のごとく作業をやり直して八年がかりで『佛教語大辞典』を完成させ、毎日出版文化賞を受賞した。さらに、その『大辞典』の改訂のためのカード十万枚を残して亡くなり、それをもとに『広説佛教語大辞典』が没後二年にして出版されたことなど、驚嘆すべきことは枚挙にいとまがない。執筆した著書・論文の数は、分かっているだけでも邦文で千百八十六点、欧文では論文が二百八十四点、著書が十数冊で、計千四百八十点余というおびただしい数である。
西洋中心・アジア蔑視の偏見と闘い、東西の思想を比較・吟味して普遍的思想史の構築に専念した。それは異文化間の相互理解と世界平和に欠かせぬことだと思っていたからだ。
これほどの業績と、研究分野が多岐にわたっていることで、妬まれることや、「中村は、狂ったのではないか」と非難されることも多かったが、偏狭なアカデミズムやセクショナリズム(縄張り意識)と生涯、闘い続けた。
常に「分からないことが学問的なのではなく、だれにでも分かりやすいことが学問的なのです」と語り、平易な言葉で仏典を現代語訳し、「人間ブッダ」の実像を浮き彫りにしたことに対して、「厳かさがない」「経典としての荘重さがない」などと非難されたが、中村はこうした言われなき批判とも闘っていた。
「闘う」と言っても、それは仏教でいう「忍辱」の姿勢を貫くもので、中村は、だれに対しても和顔愛語の人であった。
八十六年の生涯を終え、その告別式で洛子夫人は、「主人は、何よりも好きな勉強を生涯続けられて幸せだったと思います」と語った。その言葉通り、亡くなる前の昏睡状態が続く中、中村の口から、「ただ今から講義を始めます。身体の具合が悪いので、このままで失礼します」という言葉が出てきた。昏睡状態のまま、淡々とした口調で四十五分にわたって講義し、「時間がまいりましたので、これで終わります。具合が悪いのでこのままで失礼しますが、何か質問はございますか?」と締めくくったという。
その講義の最初と最後の言葉は、筆者が長年拝聴してきた東方学院での中村の講義そのままであった。この昏睡状態での文字通りの〝最終講義〟の席にいたのは訪問看護の看護師一人であった。専門用語がたくさん出てきて理解できなかったというが、この渾身の〝講義〟に中村の学問人生のすべてが凝縮されているように思えてならない。
日本は、仏教国だと言われるが、六世紀の仏教伝来以来、漢訳仏典を音読みしてきたため、多くの人が経典に何が書かれているかも分からないままできた。そのため、仏教が呪術的で迷信じみたものとして、さらには権威主義的に語られることがなかったとは言えない。人々は、本来の仏教の教えを知りたいと思っても、なかなかそれに触れる機会が得られなかった。
中村は、釈尊の生の言葉に近い原始仏典を平易な言葉で現代語訳し、本来の仏教が「真の自己に目覚めること」を目指していたことや、いかに生きるかを説いたものであったこと、釈尊自身が難解な言葉ではなく、平易な言葉で教えを説いていたことを、分かりやすい言葉で明らかにしてくれた。
東日本大震災という未曾有の大災害を目の当たりにして、豊かさの半面、生きることの根底的な意味が問われている今日、真実の仏教を知りたいと思う人たちにとって、中村の業績は時とともこますます輝きを放つであろう。
本書では、中村元の生涯と業績を辿りながら、その思想の「輪郭」と「核心」を明らかにしていきたいと思う。
KADOKAWA、植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』P11-14
いかがでしょうか。実は私はこの本を読むまで、中村元先生その人のことをほとんど知りませんでした。ですが、ここで述べられたように、まさに異次元とも言える業績を残された方でありました。
この引用の中で、
「中村は、インドの現地を何度も訪れ、インド人の生活、風上、自然などを踏まえ、サンスクリット語や、パーリ語などインドの原典に立ち返って考察した。インドに行こうとも思わなかった西洋のインド学者たちとは全く異なる態度であった。」
と書かれていたのもとても印象に残っています。本文でこのことについてより詳しく知ることになりますが、私も2023年内にインドに行く予定です。私にとってこれが初めてのインドになります。そんな私にとって現地を学ぶことについて中村元先生がどう考えておられていたのかは非常に興味深いものがありました。
大きな視点で世界を見ていく中村元先生のあり方には私も心打たれるものがありました。
この本は仏教とは何かを考えさせられる、非常に大きな意味を持った作品です。ぜひぜひおすすめしたい一冊です。
以上、「植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』~日本を代表する仏教学者の桁外れのスケールと生涯を知るのにおすすめ!」でした。
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