エピクテトス『人生談義』~本当の自由とは。奴隷出身のストア派哲学者による驚異の人生論。清沢満之とのつながりも

ローマ帝国の興亡とバチカン、ローマカトリック

エピクテトス『人生談義』概要と感想~本当の自由とは。奴隷出身のストア派哲学者による驚異の人生論。清沢満之とのつながりも

今回ご紹介するのは2020年に岩波書店より発行されたエピクテトス、國方栄二訳の『人生談義』です。

早速この本について見ていきましょう。


「君は私の足を縛るだろう。だが、私の意志はゼウスだって支配することはできない」。ローマ帝国に生きた奴隷出身の哲人エピクテトスは、精神の自由を求め、何ものにも動じない強い生き方を貫いた。幸福に生きる条件を真摯に探るストア派哲学者の姿が、弟子による筆録から浮かび上がる。上巻は『語録』第一・二巻を収録。(全二冊)

「もし君が自分のものでないものを望むならば、君自身のものを失うことになる」。ローマ帝国に生きた奴隷出身の哲人エピクテトスは、精神の自由を求め、何ものにも動じない強い生き方を貫いた。幸福の条件を真摯にさぐるストア派哲学者の姿が、弟子による筆録から浮かび上がる。下巻は『語録』第三・四巻、『要録』等を収録。(全二冊)

Amazon商品紹介ページより
エピクテトスの想像画(55頃-136頃)Wikipediaより

エピクテトスは古代ローマのストア派哲学者で、奴隷出身という驚きの出自を持つ人物です。彼の思想は後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスにも大きな影響を与えたことでも知られています。

この『哲学談義』そのものはエピクテトスによるものではなく、弟子アリアノスが彼の言葉を書き記して出来上がったものとされています。

この上下巻それぞれの巻末ではエピクテトスについて詳しい解説が付されていますので、彼の生涯やその思想の特徴についても初学者でもわかりやすく読んでいくことができます。

その中でもエピクテトスと日本との関わりについて解説された箇所が非常に興味深かったのでここに紹介したいと思います。

エピクテトスがどのように読まれてきたのかを簡単にたどってみたが、以前には異教徒の書でありながら、キリスト教徒の修練のために読まれてきたのに対して、近年ではむしろ、「幸福論」「人生論」の書とみられることが多い。比較的古い例では、カール・ヒルティ(一八三三―一九〇九)の『幸福論』(草間平作訳、岩波文庫、一九三五年)がある。『要録』のドイツ語訳を収録して、随所に懇切丁寧な注解を付しているが、「幸福」について考える人はまずこの書を繙くことを勧めている。

わが国で最も早い段階で影響を受けた人物としては、浄土真宗僧侶清沢満之(一八六三―一九〇三)がいる。清沢は東本願寺が東京に開校した真宗派の大学(後の大谷大学)の学監に就任した人物として知られるが、日記『臘扇記ろうせんき』(発表は一九〇二年)を見ると、エピクテトスからの書き抜きがその大半を占めている。

友人から英語訳のエピクテトスを借りて耽読し、「エピクテママス氏教訓書を披展ひてんするに及びて、頗る得る所あるを覚え……、修養の道途に進就するを得たるを感ず」と記している(『清沢満之全集』第八巻「当用日記抄」、岩波書店、ニ〇〇三年、四四一―四四二頁)。このように古代ローマの異教哲学者が語ったことは、時代も異なり、宗教も異なるにもかかわらず、清沢の心をも深くとらえたわけである。

現代はおよそニ〇〇〇年前に生きたこの哲人の社会とは異なり、驚くほど多様化し、複雑化している。そして、多忙を極める生活の中で、私たちの心の中の空隙はますます広くなっていると言われる。こうした状況の中で、英語圏を中心にエピクテトス思想を扱った自己啓発本が数多く出版されているのをみると(しかも著者の多くが古典学の研究者ではない)、エピクテトスの言葉がなお現代人の心の琴線に触れるからだと思われる。

岩波書店、エピクテトス、國方栄二訳『人生談義』上巻P440-441
清沢満之(1863-1903)清沢満之記念館HPより

清沢満之といえば私も非常につながりが深い人物です。と言いますのも私は大谷大学大学院に通っていました。そしてその時の指導教官が清沢満之を研究していた影響もあり、私もゼミの仲間たちと一緒に清沢満之の思想を学んでいたのでありました。

彼を学んでいると必ずぶつかるのが上に出てきた『臘扇記ろうせんき』であり、エピクテトスになります。清沢満之がいかにエピクテトスに強い衝撃を受けたかということを私たちはその時知ったのでありました。

ですが当時はそこから先へ進むことはできず、『人生談義』までは読むことはありませんでした。いつか読みたいとはずっと思っていたものの、なかなか手を伸ばすことができなかったのです。ですがほぼ10年越しでいよいよこの本を読むことになりました。まさかこんなに回り道をして読むことになるとは思ってもみませんでした。

さて、本書『人生談義』はかなり硬派な哲学書です。次の記事で紹介しますマルクス・アウレリウスの『自省録』は非常に読みやすい作品でありましたが、この作品は正直かなり苦戦しました。まさに哲学談義です。セネカの著作も読みやすさは抜群でしたがこのエピクテトスに関してはかなり毛色が違います。

この作品はエピクテトスが読者を想定して書いたものではなく、あくまで弟子が師との対話を聞き書きした作品になります。ですので当時彼らがしていた哲学談義の様子がそのまま収められている形になります。まさしく問答形式で展開される箇所もあり、彼らの日常が垣間見れるのもこの作品の特徴かと思います。

こうした師と弟子の率直な問答というのは親鸞の弟子唯円による『歎異抄』を連想してしまいます。

この『歎異抄』との類似も、もしかしたら清沢満之を惹きつけたのかもしれません。

また、『人生談義』の中で有名なのはやはり「君は私の足を縛るだろう。だが、私の意志はゼウスだって支配することはできない」という言葉でしょう。エピクテトスはこの作品で自由とは何かについて述べていきます。奴隷という最も自由のない人間だったエピクテトスが一体何を語るのか。これは非常に興味深いです。

最後にこの本の中から二つほど彼の言葉を紹介してこの記事を終えたいと思います。

君はどんな人でありたいのか。まずそれを君自身に言うことだ。そのようにしてから、君のなすことをなせばよい。

岩波書店、エピクテトス、國方栄二訳『人生談義』下巻P137

ねえ君たち、哲学の学校は治療をするところだ。楽しんでではなく、苦しんで帰らねばならない。つまり、健康な状態でやって来るわけではなく、ある人は肩を脱臼して、ある人は腫れものができて、ある人は瘻管ろうかんができて、ある人は頭痛がするのでやって来るわけだ。それから、私はというと椅子に座って、ちょっとした考えや言葉を語るのだが、それは君たちが私を褒めて、来たときと同じ肩の状態で、同じように頭痛がして、腫れものをもったまま、瘻管をもったまま帰るためだろうか。君がちょっとした言葉を語ったときに私が「いいね」と言うために、若者たちは故郷を離れ、両親や友人や親族や財産と別れを告げてやって来るのだろうか。ソクラテスやゼノンやクレアンデスがやっていたのは、そんなことだったのか。

岩波書店、エピクテトス、國方栄二訳『人生談義』下巻P145-146

いかがでしょうか。柔らかな言葉を使いながらもなんと厳しいお叱りか・・・

特に「君がちょっとした言葉を語ったときに私が「いいね」と言うために、若者たちは故郷を離れ、両親や友人や親族や財産と別れを告げてやって来るのだろうか」という言葉はドキッとするものがあるのではないでしょうか。

「いいね」で溢れた現代社会においてこのエピクテトスの言葉は非常に重大な問いを投げかけているのではないかと私は思います。なぜ私たちは哲学をするのか、人生を問うのか。その原点をこのエピクテトスの言葉から感じることができるのではないでしょうか。

この作品は気軽に読むのには少し厳しいかもしれませんが、古代ローマの超一級の哲学者の思想書であることは間違いありません。現代人にとっても大きな意味がある作品だと思います。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「エピクテトス『人生談義』~本当の自由とは。奴隷出身のストア派哲学者による驚異の人生論。清沢満之とのつながりも」でした。

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