(4)革命家のバイブル、チェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』に憧れるレーニンとマルクスとの出会い
ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』を読む⑷
引き続きヴィクター・セベスチェン著『レーニン 権力と愛』の中から印象に残った箇所を紹介していきます。
革命家レーニンの勉学期
1887年、レーニン17歳の年に兄の処刑によってレーニン一家は町からもつまはじきにされ、レーニン(ウラジーミル)もサンクトペテルブルグ大学への入学も叶わぬ夢となってしまいました。
しかし有力者である知人の手助けもあり、首都から離れたカザン大学という名門校に特別に入学を許されます。これでめでたしかと思いきや彼はその後反政府活動に参加したとして退学処分となってしまいます。
そしてレーニン一家はコクシュキノという田舎の村に追放されることになり、しばらくの間ここに閉じ込められることになったのです。当局からすれば、これにより革命への情熱も抑えられるだろうと考えたのですが、レーニンはそう簡単に抑えられるような人間ではありませんでした。
こうして、彼は田舎で静かに自学自習した。「のちの人生、サンクトぺテルブルクの監獄やシべリアにいる時でも、カザンから追放されて田舎で過ごした年ほど、多くの本を読んだことはなかった」と、彼はのちに述べている。「早朝から夜遅くまで、これは真剣な読書だった」。
レフ・トロツキーはのちに、それを「社会主義者としての彼を鍛えた重要な時期……将来のレーニンが形成された不屈の勉学の年月」と記述している。彼は、兄が熱心に読んだ社会主義の古典や哲学、経済学、それに歴史の本を熟読した。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』上巻p89-90
※一部改行しました
レーニンのバイブル~チェルヌィシェフスキー著『何をなすべきか』とは
彼に最も深い影響を与えたのはニコライ・チェルヌィシェフスキーの小説『何をなすべきか』である。彼はこの小説家を偶像視していた。彼は一生涯、(ナージャやイネッサ・アルマンドではなく)この作家の肖像写真を財布に忍ばせていた。のちに彼がロシアの統括者になると、クレムリンの執務室にはチェルヌィシェフスキーの大きな肖像画が掲げられた。
彼はチェルヌィシェフスキーにファンレターを書いたことがあり、返事が来なかったことが「自分には非常につらかった」とあるとき語っている。
『何をなすべきか』は、チェルヌィシェフスキーが一八六二年、蜂起扇動の罪でぺトロパヴロフスク要塞に収監されているときに書いたこの作品を、芸術作品として優れていると評価する人はいない。著者自身でさえ、謙遜ではなしに、こう認めている。
「わたしには芸術的才能のかけらもない。言葉の使い方も下手だ。しかし、そうしたことは重要ではない……これを読むことは〔革命家としての〕諸君に有益だろうし……諸君は欺されることにはならない。この小説にあるのは才能でも芸術でもなく、ただ真実だけだ、とわたしは諸君に警告済みなのだから」
どういうわけか、この作品は検閲をすり抜け、合法的に出版された。大変な失策だった。もし専制というものが、いちおうは厳格な検閲を実施しようとするのであれば、これは発禁になる本だった。この本は大成功を収め、ウラジーミル・ウリヤーノフのような急進的な若者の一世代をそっくり鼓舞した。ウラジーミルは大学から追放された翌年の夏、この作品を五回読んだ。
ウラジーミルは、作中の理想的人物で、貧困が根絶され、万人が完全な自由のうちに生活する世界を夢見るラフメートフに強く共感した。この人物は革命の大義のためにすべての快楽を犠牲にし、貧困学生たちを助けるために自分の莫大な個人所得を使い果たす。
ステーキを生で食べてスタミナを蓄え、ジムでの体操や肉体を酷使する運動で体を鍛える。酒を飲まず、セックスもしない。彼に対して変わらぬ愛を告白する美しい女性の誘惑によっても、道を踏み外すことはない。
無私無欲な彼は、この女性をほかの男に譲ってしまう。彼の唯一の欲求は知識である。彼はむさぼり読む。あるときには八ニ時間もだ。ラフメートフは同志たちには「厳格主義者」として知られ、革命を成し遂げること以外の時間はない。彼は一日を一五分ごとに区切り、そのそれぞれに目標を設定する。彼の献身に揺らぎはなく、どこまでも誠実で、冷徹に能率的で、冷ややかに合理的なのだ。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』上巻p90-91
※一部改行しました
チェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』と言えば、ドストエフスキー界隈でもかなり有名な作品です。
彼の『地下室の手記』はチェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』に対する反論が書かれています。合理的知性は人間性を失わせると彼は叫ぶのです。
『何をなすべきか』という本はたしかに有名で、私も一度手に取ったのですがとにかく分厚く、長い小説です。さすがに読むのは大変そうだと私はあきらめてしまい、この本に実際に何が書かれているかは知らずじまいでした。
ですがこのレーニン伝でこうしてざっくりとでありますが中身を知ることができてとても助かりました。
レーニンは後に『何をなすべきか』というチェルヌィシェフスキーの作品と同名の本を書き上げ、これがボリシェヴィキ党のバイブルとなります。レーニンがどれほどこの作品に思い入れを持っていたかがうかがわれます。
『何をなすべきか』に憧れるレーニン
レーニンのもっとも初期の伝記作者の一人を含め、彼をよく知る人が証言するように、彼は意識的にラフメートフを真似た。ニコライ・ヴァレンチノフは、このボリシェヴィキ指導者が一九〇〇年代にスイスに亡命していた時期に彼の親友だったが、その後、仲たがいした。仲たがいの理由は、ヴァレンチノフがあえてチェルヌィシェフスキーを「才能がない」と、そして『何をなすべきか』を「雑で、大げさで、読むに堪えない」と批判したことだった。
レーニンは烈火のごとく怒った。「彼は椅子がきしむほどのものすごい勢いで立ち上がった。彼が怒ったときはいつもそうだったのだが、その表情はこわばり、頬骨の周りは紅潮していた。
『君は何を言っているのか、分かっているのか。どうしたら、これほど奇っ怪で馬鹿げた考えを思いつくのか。マルクス以前の社会主義の、もっとも偉大で、もっとも才能あふれる代表者であるチェルヌィシェフスキーの作品を、雑で才能がない、だって?……『何をなすべきか』を雑で才能がないなどと評するのを、わたしは絶対に許さない。何百人もが彼に影響されて革命家になった。例えば、わたしの兄は彼の虜になり、わたしもそうだった。彼はわたしの物の見方を完全に変えてしまった。この本はわたしに一生涯、霊感を与えてくれるのだ』」
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』上巻p91
※一部改行しました
レーニンがいかに『何をなすべきか』に影響を受けていたかが感じられます。
レーニンのブルジョワ趣味
ラフメートフとは違って、ウラジーミルは読書や独学者としての絶え間ない勉学から離れて、自分の最大の趣味を楽しむことがあった。彼は生涯を通して、田舎や自然を愛した。のちに、どこにいてもそうしたように、コクシュキノの周囲の森や野原を長い時間をかけて散策した。嬉々として丘や山をハイキングした。
年月を経るにしたがって、彼は神経衰弱、ひどい頭痛、不眠、そして抑制の効かない怒り、彼の妻に言わせれば「憤怒」の発作に悩まされるようになる。数日間、山の空気を吸ったり、海辺や田園地帯で過ごせば、精気はよみがえり健康が回復する。
彼はヴォルガ川を愛し、子ども時代には、その高い堤の上を何キロも歩いた。亡命時代には、毎年四月か五月になると、母親によく手紙を書いて尋ねた。「今年のヴォルガの春はいかがですか」
彼は地方名士の生活を満喫した。何年ものちに、ブルジョワ趣味にふけっていると批判されたとき、彼はこうした生き方を擁護した。
「そう、わたしもかつては、祖父のものだった田舎の領地で暮らしていた」と彼は同志の一人に言った。「ある意味で、わたしは地主階級の御曹司だ……わたしは領地での生活の快適さを忘れたことはない。領地のライムの木や花々のことを忘れたことはない。死ぬまでこれは変わらない……。干し草の山を作ったのはわたしではないけれど、その山の中でゴロゴロしていたこと、イチゴやラズべリーを植えたのはわたしではないけれど、それを食べたこと、牛の乳を搾ったのはわたしではないけれど、新鮮な牛乳を飲んだこと、それを楽しく思い出すんだ」
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』上巻p92
※一部改行しました
チェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』の革命家ラフメートフは尋常ではないほどのストイックさの持ち主でした。
そんなラフメートフに憧れるレーニンでしたが、彼自身は裕福な家庭の出身でその快適な生活を捨てることはありませんでした。レーニンのダブルスタンダード的な思考回路を物語るエピソードです。
マルクス主義との出会い
秋になって、一家はカザンに戻ることを許された。ウラジーミルはすぐさま、別の反体制急進グループに加わる。今回、参加したのはマルクス主義者の組織で、このグループはヨーロッパの諸都市に亡命している人びとを中心として新たに結成された「労働解放団」と緩やかに連携していた。
彼が初めてマルクスの著作を読んだのはこの時だ。レーニンを聖人として描いたソ連時代のさまざまな伝記によれば、彼は一夜にしてマルクス主義者に転向し、彼が告白した「愛」は、ひとめぼれだった。
「彼がたくさんの新聞紙に囲まれて台所のコンロの前に座り、マルクスの思想によって開かれた新たな地平について、両手を激しく振り回しながら話していたのを、わたしは昨日のことのように覚えています」と、妹のマリヤは、この推定上の「ダマスコの回心」の瞬間について語っている。しかし、彼女は事実を美化している。本当は、時間をかけて確信するようになり、情緒的にも知的にも得心したのである。もっとも、マルクスへの情緒的執心の方が常に勝っていたのだが。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』上巻p93
※一部改行しました
レーニンは兄の処刑によって革命家の道に進むことになりました。しかし最初からマルクス主義者として出発したのではありませんでした。少し意外な気もしましたが、当時の革命青年たちがたどる道の一つとして多くあったのかもしれません。
農地経営の失敗と弁護士資格の取得
ウラジーミルの母親は、何とかしなければ彼がサーシャ(※皇帝暗殺を企て、処刑されたレーニンの兄。ブログ筆者注)の歩んだ道を進み、もう一つの悲劇が家族を見舞うことになると心配になった。彼女は彼が地下革命家になる以外の、別の経歴を積む道はないか探した。地下革命家ではすばらしい収入は約束されず、将来は監獄か絞首刑執行人の繩が待っているのだ。(中略)
「母はわたしが農業をやることを望んだ。やってみようとしたが、うまくいかなかった。事態は好転しなかった。農民との関係はおかしなものになってしまった」と、のちに彼は述べている。彼はアラカエフカで三度の植え付け時期を過ごしたが、そこでの経験について触れた彼の発言としては、これしか知られていない。
彼は農業についてほとんど勉強せず、何の興味も示さなかった。彼は地主貴族の地位に居心地の悪さを感じていた。農民は彼をだまし、母親と地所は金銭的にかなりの損失を被った。牛数頭と馬一頭が小作人に盗まれるなど、家畜は「消えうせ」続けた。ここでの経験は何もかもが失敗だった。
しかし、彼は毎年の夏をシナノキの木陰での読書ざんまいで過ごした。『共産党宣言』をロシア語に訳した。マルクス主義の理論家の著作を次々と読んだ。時にはサマラに出かけて行き、革命家の地下集会に参加した。ヴォルガ川を単身ボートで漕ぎ下る旅に出たが、これは肉体を高度に鍛錬していなければできない旅である。川を六〇キロ下り、そこで陸に上がって、ヴォルガと並行して流れるウサ川まで、一・六キロの陸路をボートを担いで運ぶ。そこからまたボートに乗って出発点の近くまで漕ぎ戻るのだ。彼はこの旅を何回か繰り返した。
農業がうまくいかなかったので、母親はウラジミールに別の生業を提案した。法律の勉強なしで弁護士の資格を取るよう説得したのだ。大学の門は閉ざされていたが、サンクトぺテルブルク大学で学外生として試験を受けることを許可され、そのために首都に行くことを許された。
普通は四年間で修める課程を、彼は一年間で詰め込み、一四科目の試験のすべてで最高点を取り、学年のトップになった。これは画期的な知的成果だ。そして、彼が大いに愉快がったロシアのアイロニーの一つなのだが、違法な潜在的危険分子として彼を監視し続ける警察機関を尻目に、ロシアでもっとも輝かしい学位を得たのである。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』上巻p93ー95
※一部改行しました
レーニンの母は彼が兄と同じ道を辿ることを恐れました。そのため農地経営を彼にさせようとします。
しかしレーニンはまったく興味を示しません。
彼は田舎生活を読書三昧で過ごし、自らの思想を練っていたのです。
そしてその後さらに心配した母は今度は弁護士になることを勧めます。そして驚くべきことに通常4年かかるカリキュラムを1年で終え、全ての科目でトップを取るという異次元の頭脳を見せつけます。
やはりレーニンは驚くべき人物です。
こうして弁護士としての資格を取得しつつも、彼は革命家としての道を進んで行くことになります。
続く
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