チェーホフ『ロスチャイルドのバイオリン』あらすじと感想~人生を無駄にしてしまった男の悲哀と目覚めの感動作
チェーホフ『ロスチャイルドのバイオリン』あらすじ解説―人生を無駄にしてしまった男の悲哀と目覚めの感動作
チェーホフ(1860-1904)Wikipediaより
『ロスチャイルドのバイオリン』は1894年にチェーホフによって発表された作品です。
私が読んだのは中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 9』所収の『ロスチャイルドのバイオリン』です。
早速あらすじを見ていきましょう。
あるちっぽけな田舎町にヤーコフ・イワノーフという棺桶屋がいて、女房のマールファと水呑百姓同然のしがない暮らしをしていた。
なにしろその町の老人たちはめったに死ななかったので、棺桶のいることなど珍しく、商売はあがったりだった。
職人かたぎのヤーコフはまたヴァイオリンを上手にひいたので、ユダヤ人のオーケストラに呼ばれて婚礼の席に出ることがあった。
彼は、楽団のフルート吹きのユダヤ人ロスチャイルドが虫が好かず、しょっちゅう衝突する。
ヤーコフはたえず不機嫌だったが、それはのべつ損をしていたからだ。祭日などでやむなく仕事を休まなければならぬ日は年に二百日もあったし、オーケストラに呼ばれぬこともたびたびあり、警察署長が県庁所在地に行ってそこであっけなく死んでしまうようなこともあって、それらがみな彼には損となるのだった。
思いがけなく女房のマールファが病みついて、さっそく病院につれていったが、もはや手のほどこしようのないのを見てとった医者にすげなく扱われる。
ヤーコフは、日曜日やら凶日やらを勘定に入れて、床についたマールファのかたわらで棺桶をつくりはじめる。その棺桶代ももちろん損金のうちだ。
彼女が亡くなって野辺の送りをしたあと、ヤーコフはなんとなく気分がすぐれず、ふだん思ってもみなかった女房との過ぎ去った長い生活のことを思いだす。
ぐちひとつ言わずにつくしてくれた女房に一度としてやさしくしてやらなかった、そして自分の生涯は無駄にすごした損つづきの一生だったと思いあたる。
人は生きていれば損、死んでしまえば得なばかりだと得心するが、それでもやっぱり腹立たしかった。
ヤーコフが自分でも何の曲ともしらずにひきはじめた曲が、オーケストラの使いでたずねてきたロスチャイルドをひどく感動させる。ヤーコフは女房のあとを追うようにして死に、やがてロスチャイルドは棺桶屋からゆずりうけたヴァイオリンでその曲をひいてまわって、それを聞いた町の人びとは深く心を打たれるのだった。
筑摩書房、松下裕『チェーホフの光と影』P113-114
※一部改行しました
この物語の主人公はヤーコフという貧しい棺桶屋です。
彼はあらゆるものを損か得かで考える人間です。しかも悲しいことに仕事柄そうそう得をする場面などありません。結局生活のあらゆるものが出費や損のように見え、毎日イライラしているのでありました。
ただ、そんな彼にも特技がありました。それがバイオリンだったのです。
このバイオリンがタイトルの『ロスチャイルドのバイオリン』の伏線になるのです。
さてそんなヤーコフでしたが、ある日妻が体調を崩します。そして「あたしゃ死ぬよ!」と彼に呼びかけるのです。しかもいつになく晴れやかで喜びに満ちた顔でそれを言うのです。
彼には妻が幸せそうに見えました。具合が悪く、もう死にそうなのに幸せそうな老妻の姿を見て彼はこう思います。
もう夜明けで、朝焼けがあかく燃えているのが窓越しに見えた。老婆の顔を眺めながら、ヤーコフはなぜかふと、自分が一生のあいだ一度も彼女を優しくいたわったことも哀れんだこともなく、一度も頭布を買ってやったり、婚礼の席から甘い物を持って来ようと思ったこともなく、ただ怒鳴ったり、損をしたと言っては当り散らしたり、拳を振りあげて飛びかかったりしただけなのを思い出した。
なるほど彼は一度も妻を殴ったことはなかったが、それでもさんざん脅しつけて、その度に彼女は恐ろしさのあまりちぢみあがったものである。そう言えば彼は、ただでさえ出費がかさむという理由で彼女にお茶を飲ませず、仕方なく彼女は熱い湯ばかり飲んでいた。それで彼は、どうして彼女が今こんな奇妙な嬉しそうな顔をしているかがわかって、気味わるくなって来た。
中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 9』P450
※一部改行しました
彼はこれまでずっと黙って尽くしてくれた妻に一度も優しくしたことはありませんでした。そして妻がなぜ今幸せそうなのかわかってしまったのです。そのことにヤーコフは今初めて気付いたのです。彼の中で何かが変わり始めます。
「覚えていなさるかね、ヤーコフ?」嬉しそうに彼の顔を見ながら、老婆はたずねた。「覚えていなさるかね、五十年前に、神様があたしたちに髪の白い子供を授けて下さったのを?あの時、あんたとあたしは、いつも川のほとりに坐って、歌をうたっていたっけ……柳の木の下で。」ここで老婆はふっと苦い笑いを浮かべてこう言い足した。「あの娘も死んじまった。」
ヤーコフは記憶をたどってみたが、赤ん坊のことも柳の木のことも全く思い出せなかった。
「お前、夢でも見ているのさ」と彼は言った。
中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 9』P453
長いこと損得ばかりに目を向けイライラしていた彼は妻との思い出や子供のことすら思い出せないのでした。
そして間もなく妻は息を引き取り、墓地へ葬ります。
しかし墓地から帰る道みち、彼は激しい淋しさに襲われた。何か気分がすぐれず、呼吸は熱っぽくて重苦しく、足がだるくて、やたらに喉が乾いた。そのうえ頭のなかへいろいろな考えが入り込んで来た。
ふたたび、一生のあいだ自分がマルファを一度も哀れまず、一度もいたわらなかったことが思い出された。
一つ小屋に一緒に暮らした五十二年間は、思えば長い長い年月だったが、なんということもなく、その間じゅうたった一度も彼女のことを考えず、まるで彼女が犬か猫のように何の注意も払わないような結果になってしまった。
彼女のほうでは毎日、暖炉を焚いたり煮焚きをしたり、水を汲んだり薪を割ったり、彼と一緒に一つ床に寝たり、彼が婚礼の席から酔っ払って帰って来た時には、いつも大事そうにバイオリンを壁にかけて、彼を寝かせてくれた。しかもそうしたことをすべて、おずおずした心配そうな顔つきで、黙ってやってくれたのである。
中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 9』P453-454
※一部改行しました
失ってからようやく気付いた妻の優しさ。そして自分がいかに妻に対して何もしてこなかったかに思いが至るのでした。
彼はとぼとぼ歩き続けます。
ふと見ると、大きな空洞のある古い柳の木が枝を広げ、そのうえに烏の巣があった。……と、ふいにヤーコフの記憶のなかに、白い髪をした赤ん坊と、マルファの話した柳の木が生き生きとよみがえった。そうだ、これがあの柳の木なのだ。―青々とした、静かな、物悲しげな柳の木だったのだ。……ああ、この木も何と年取ったことだろう、可哀そうに!
彼はその古木の下に腰を下ろして、思い出にふけりはじめた。
中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 9』P455
そしてついに彼は自らの人生を次のように嘆きます。
前途にはもう何ひとつ残っておらず、過去を振り返れば、―そこにもぞっとするほど恐ろしい損いがい何ひとつ見あたらぬ。
なぜ人間は、こうした損ややりそこないをしないでは生きて行けないのか。
一体なぜあの白樺の森や松林は切り倒されてしまったのか。なぜ牧場は遊んだままになっているのか。なぜ人びとはいつも必要でないこととばかりやっているのか。
なぜヤーコフは一生、怒鳴ったり、ほえたり、拳を振りあげて飛びかかったり、妻を侮辱したりして過したのか。
たった今にしても、何の必要があってあのユダヤ人を脅しつけたり辱しめたりしたのだろう?
なぜ人間たちはお互い生きて行く邪魔ばかりしあうのか。そのためにどんなに損をすることだろう!ああ、何という恐ろしい損だろう!もし憎悪や悪意がなかったら、人びとはお互いに計り知れない利益をあげることができただろうに。
中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 9』P453-454
※一部改行しました
ヤーコフはそれまでの人生をいかに無駄にしてしまったかと嘆きます。そして妻に対するひどい仕打ちにも・・・
その後間もなく、彼自身も病気にかかり死に瀕していきます。
そこで最後の願いにと彼は自分のバイオリンを、いつも一緒に演奏してきたユダヤ人のロスチャイルドに託すことにします。
ヤーコフ亡き後、ロスチャイルドに受け継がれたバイオリンは今なおうら悲しい、いたましい音色を奏で、聴くものをほろりとさせるのでありました。
感想
この作品も10頁少々という短い作品ですが、これまた内容が凝縮されていてあっという間に引き込まれてしまいます。
そして何より、長年ずっと黙って尽くしてくれた優しい妻に対するヤーコフの後悔。これが何よりもいたましいです・・・
そして真に彼が自らの生き方を振り返ったのが、墓場からの帰り道に妻との思い出の場所に偶然やってきた時だというのですから何ともドラマチックです。
読んでいて泣きそうになるくらい切ないシーンです。
割と淡々とした作品をたくさん書いてきたというイメージがあるチェーホフですが、こうした感動的な作品も書くのだなと驚きました。
これは名作です。映像化したら最高に感動的な作品になると思います。
とてもおすすめです。
以上、「チェーホフ『ロスチャイルドのバイオリン』あらすじ解説―人生を無駄にしてしまった男の悲哀と目覚めの感動作」でした。
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