MENU

ドストエフスキー『二重人格(分身)』あらすじと感想~自意識過剰男が狂気にまっしぐら。私のお気に入り作品

二重人格
目次

ドストエフスキー『二重人格(分身)』の概要とあらすじ

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)Wikipediaより

『二重人格』は1846年に出版されたドストエフスキー第2作目となる作品です。

私が読んだのは岩波書店出版の小沼文彦訳の『二重人格』です。他の版では『分身』というタイトルで訳されることもあります。

『二重人格』は、前作『貧しき人びと』と同じように、貧しくうだつの上がらない小役人、ゴリャートキンを主人公とした物語です。

巻末のあとがきにはこの物語のあらすじが以下のように書かれています。

ゴリャートキン氏は小心で、引っ込み思案の孤独を愛する男で、ロシヤ文学に現われる典型的な小役人である。彼には栄達を望む野心がある。だか彼には家柄もなければ才能もない。それは彼も自覚している。ところがその反面、自分にも人並の、いやそれ以上の才能があるのだという自負心の湧き起こる瞬間がある。それは恐るべき内心の相剋である。その結果、自分が栄達の道をつかむことができないのは、自分の出世をねたむ敵の仕業であると思い込むようになり、ここに完全な精神錯乱を起こし、ついに幻覚が現われるようになる。この強迫観念によって起こされた幻覚は―第二のエゴ、つまり第二のゴリャートキン氏という形をとる。

この新ゴリャートキン氏は、旧ゴリャートキン氏に欠けているあらゆる才能を身につけていて、つねに彼な愚弄するために姿を現わす。

岩波書店出版 小沼文彦訳『二重人格』P323-324

この物語は劣等コンプレックスの権化とも言うべきゴリャートキン氏が主人公です。

彼は世の中をうまく渡るのがとにかく苦手な不器用な人間です。軽妙にトークをすることなどもってのほかでどうしてもうまく人と話せない。卑屈になってしまったり、不自然な言動をしてしまう。

こう言って正しいのかわかりませんが、彼はいわゆるイケてない人間なのです。

何か突出した才能や仕事の能力、家柄があればそれでも社会でなんとかやっていけたかもしれませんがそれもありません。

ロシア独特の官僚社会では小役人など単なる社会の歯車。自分の仕事を評価してくれる人もいません。上司に取り入ろうにも人付き合いが苦手な彼にはそれも裏目に出てしまいます。

そんなどうにもならない状況を尻目に、周りの軽薄な人間たちは上司にうまく取り入ったり、グループでわいわいがやがやと軽妙洒脱なトークに花を咲かせます。

そういう人達がいとも簡単に出世し、自分はそんな人たちから馬鹿にされ笑いものにされる。

ゴリャートキンは耐えに耐えます。しかしついに我慢の限界に・・・

精神は錯乱し、もう一人の自分が現実の世界に現れだすのです。しかも、最も忌まわしい存在として。

解説によればこの新ゴリャートキン氏は、「旧ゴリャートキン氏に欠けているあらゆる才能を身につけていて、つねに彼を愚弄するため」に姿を現わします。

旧ゴリャートキン氏に欠けているのは、世の中を上手く渡る能力です。

軽妙洒脱な冗談を飛ばす、人たらし的な能力。

旧ゴリャートキン氏の前に現れた新ゴリャートキンは抜け目なく仕事の手柄を奪い、上司に取り入り、同僚たちと徒党を組みわいわいがやがやし、旧ゴリャートキンを寄ってたかって愚弄し笑いものにします。

旧ゴリャートキン氏は自分と全く同じ見た目の同姓同名のこの男を心の底から憎みます。

しかし、ここが面白いところなのですが、やはりどこかで憎みきれないものが彼自身の中にあるのです。

彼は自分に欠けている能力を持つ新ゴリャートキンを、憎みながらもどこかで羨んでもいるのです。

この心の葛藤が分身である新ゴリャートキンの存在を生み出し、物語の最後では完全なる発狂となっていくのです。

感想

この小説はドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』が発表された翌月の作品です。

前年、デビュー作が完成した直後、大物批評家ベリンスキーに称賛されたことで彼はいきなり文壇に華々しく参入し彼は天にも昇るような感覚を味わいます。

そんなドストエフスキーが自信満々で送り出した作品がこの『二重人格』だったのですが、なんと、この作品は多方面から「いたずらに冗長で、とても最後まで読み通せるものではない」と酷評されてしまったのです。

『貧しき人びと』の大成功から急転直下の酷評の嵐。

そんなにこの作品は出来が悪かったのでしょうか。

たしかに冗長な表現やくどいまでの反復表現が読みにくいという批判は的を得ているとは思いますが、小説の内容や書こうとしているテーマは面白いものがあると思います。

ではなぜこの作品はこんなにも批判されてしまったのでしょうか。

それは、この作品が持つ意味を当時の人々が理解できなかったからではないかと私は思っています。

発表当時はこの作品があの『貧しき人びと』のドストエフスキーによる作品であると人々は見ます。

ですが現代を生きる私たちは『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』のドストエフスキーの第2作目としてこの作品を見ます。

この違いは大きいです。

私たちはドストエフスキーが生涯にわたって内面の葛藤や苦悩を描いたことを知っています。

しかし『二重人格』発表当時は『貧しき人びと』のような、貧しく虐げられた人への理想主義的な人間愛を描いていた作家として彼は見られていました。

そんな彼がいきなり人間の内面の葛藤や暗く苦い部分をえぐり出したのですから、当時の人はその革新的な部分を理解できず、言葉の使い方の問題などの表面的なものを取り上げて批判したのです。

たしかに急に自分とそっくりの新ゴリャートキンという分身が現れて、現実世界に割り込んでくるという設定は読んでいてわけがわからなくなってきます。

どこまでが現実で、どこまでが旧ゴリャートキンの妄想なのかわからなくなってきます。そもそも新ゴリャートキンとは何なのか、実在しているのかなど、読者を混乱させます。

実はこれは『貧しき人びと』と同じようにゴーゴリの作品を下敷きにし、そこからドストエフスキーが彼独自の思想を盛り込んだからでした。『二重人格』はゴーゴリの『鼻』と『狂人日記』の影響を強く受けています。これらの作品を読んでから『二重人格』を読むとかなり印象は変わってくると思います。

あわせて読みたい
ゴーゴリ『鼻』『狂人日記』あらすじと感想~ドストエフスキー『二重人格』に強い影響を与えた「ペテル... ドストエフスキーはゴーゴリの『狂人日記』、『鼻』の影響を強く受けて彼の二番目の作品『二重人格』を作り上げました。 ゴーゴリの作品を読むことでドストエフスキーが何を言いたかったのかがより明らかになってくるように思えます。 作品としても『狂人日記』、『鼻』は非常に面白いです。シュールな笑いの極みと言ってもいいかもしれません。 シュールな笑いの好きな方はまずはまると思います。

しかし当時の文壇はドストエフスキーの革新的なゴーゴリ理解をまったく受け入れることができませんでした。

その辺をうまく書けていればここまで酷評されなかったのかもしれませんが、自分とは真逆のもう一人の自分が分身となって現実に現れるというアイディアはその後のドストエフスキー作品でも度々出てきます。

『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』はその典型です。

解説によると、

「評判が悪かったにもかかわらず、ドストエフスキーはこの作品に異様な執着を示し、最後まで改作の意志を棄てなかったのは、やはりこの作品には、ドストエフスキーの永遠の問題が含まれていたからにほかなるまい。」

岩波書店出版 小沼文彦訳『二重人格』P324

と述べられているように、この作品はドストエフスキーの作家人生において非常に重要なテーマを扱った作品であると言えるでしょう。

個人的には私はこの作品が大好きです。

初めて読んだ時は新ゴリャートキンの存在に混乱してしまいましたが、もう一度じっくり読んでいくと旧ゴリャートキンにとても感情移入してしまいました。

彼はたしかに不器用で世渡り下手で卑屈な言動を繰り返すのですが、世渡り上手なイケてる人間にはない魅力が彼にはあるのです。

私はそうした旧ゴリャートキンに共感を覚えます。

『二重人格』は『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』といった長編作品とはまた違った魅力がいっぱいの作品です。

ちょっと読みにくいですが慣れればすいすいいけます。

とてもおすすめの作品です。

※2022年4月27日追記 ドストエフスキー『二重人格』とゴーゴリとのつながり

『二重人格』をより楽しむために、この記事で紹介した内容を以下に紹介します。

あわせて読みたい
ゴーゴリ『鼻』『狂人日記』あらすじと感想~ドストエフスキー『二重人格』に強い影響を与えた「ペテル... ドストエフスキーはゴーゴリの『狂人日記』、『鼻』の影響を強く受けて彼の二番目の作品『二重人格』を作り上げました。 ゴーゴリの作品を読むことでドストエフスキーが何を言いたかったのかがより明らかになってくるように思えます。 作品としても『狂人日記』、『鼻』は非常に面白いです。シュールな笑いの極みと言ってもいいかもしれません。 シュールな笑いの好きな方はまずはまると思います。

ドストエフスキーの『二重人格』は1846年に発表された作品で、デビュー作『貧しき人びと』の華々しい成功で一躍文壇の寵児になった彼の第二作目にあたる作品です。

他の版では『分身』というタイトルで翻訳されているように、この作品では下級官吏ゴリャートキンが精神に異常をきたし、目の前に自分の分身が現れるという筋書きとなっています。

これは明らかにゴーゴリの影響が見て取れます。精神異常をきたしていく下級官吏ポプリーシキンの『狂人日記』、自らの鼻が目の前に自分の分身のごとく現れたコワリョーフの『鼻』がこの作品のベースになっています。

モチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』ではこのことについて次のように述べています。

ドストエフスキーはゴーゴリの人物像と言葉との魔法の埒外には出ていない。青年作家の『狂人日記』の作者とのたたかいはつづいている。ふたたびゴーゴリを模倣しながら、彼はこの幻影を乗りこえようとしている。同時代人たちはこの模倣は見てとったが、「反逆」には気づかなかった。(中略)

ドストエフスキーは狂気を基本のテーマとして、第一章から発狂のきざしの見える主人公を描いている。ゴーゴリの場合は、狂気のモチーフは単に凝った文体上のゲーム(日記や犬の往復書簡)だった。

ドストエフスキーは、狂人の心理、発病とその進行の過程を深く掘りさげている。師ゴーゴリの幻想的グロテスクふうから、彼は心理小説を作りあげている。

精神分裂症のモチーフは、ゴーゴリのもうひとつの小説『鼻』から暗示されている。六等官コワリョフもやはり「二つに分裂している」。彼の体の一部は独立した存在となって、制服を着て馬車を乗りまわす。自分の持ち主から離れた鼻は、彼の分身のごときものになる。

コワリョフは新聞社の広告係にいろいろ説明する。「わたしが広告しようとしているのはプードル犬のことではありません。わたし自身の鼻のことなんです。ですから、それはほとんどわたし自身のことじゃありませんか」(中略)

ドストエフスキーは、ポプリシチンの発狂とコワリョフの分裂というゴーゴリの二つのテーマを結合させながら自身の「分身」を創りあげた。たぶん、『死せる魂』の作者の幻想的な中篇小説を熟読しながら、そのイデーを彼なりに把握しようとしたのである。

ポプリシチンはどうして発狂したのか。コワリョフはどうして分裂症になったのか。どうしてこんなことが起こりえたのか。ドストエフスキーは、ゴーゴリを「もう一度とらえなおす」課題をみずからに課したのである。
※一部改行しました

モチューリスキー『評伝ドストエフスキー』松下裕・松下恭子訳P51-52

ドストエフスキーの同時代人たちはこうしたドストエフスキーの意図を理解することができず、この作品を単なるゴーゴリの模倣だと非難しました。

しかしドストエフスキーの中ではまったく違うことを意図してこの作品を書いていたのです。

もうひとつ解説を見てみましょう。

九等官ヤーコフ・ペトローヴィチ・ゴリャートキンは、ぺテルブルグのじめじめした霧の産物であり、幻想的な都市に住んでいる幻影である。

彼は役所、官房、往復文書、発信書類、行政上の「譴責」、権謀術数、官等、上申書といった奇怪な世界に出没する。国家という機械の小さな「歯車」であり、役人の大群のなかに埋もれてしまう砂つぶのような存在である。

ニコライ一世の官僚体制は、その巌のような重量で人間の個性を押しつぶしている。国家はその人間の番号と官等は知っているが、人物そのものは知らない。

おしなべて人間の価値は等級表に取ってかわられている。どの役人も互いに見わけがつかず、彼らの重要度は、内的なもの、徳性によってではなく、外的なもの、地位とか役職によって決まってくる。

人びとの関係は機械化され、人そのものは物と化している。役所にゴリャートキンの分身が現われても、役人のうち誰ひとりとしてこの「自然の奇蹟」に気づく者はいない。誰ひとりとしてその人間の顔を見ないが、物に顔などあるものか、というわけだ。物は互いに置きかえられるから、ゴリャートキンが分身に取ってかわられようと驚く者などいないのだ。
※一部改行しました

モチューリスキー『評伝ドストエフスキー』松下裕・松下恭子訳P52-53

まさしくドストエフスキーはゴーゴリの「ペテルブルクもの」で描かれた問題を先に進めました。ドストエフスキーもゴーゴリと同じように華の首都ペテルブルクの現実を見、幻滅を味わったのです。

ゴーゴリはそれをユーモアあふれる風刺作品としてこの世に送り出しましたがドストエフスキーはそれを深刻なほど掘り下げて自らの作品を作り上げたのです。

この作品は単なるゴーゴリの模倣とは到底言えないほどの深みを持った作品として私たちの前に現れます。

『評伝ドストエフスキー』では『二重人格』という作品がもつ意味を次のように述べています。これは現代を生きる私たちにも非常に重要な指摘ですので少し長くなりますが引用します。

官僚機構に押しつぶされ荒廃させられた人間は、いったいどんな人間でありえるか。自分の人格が次第に失われて行くのを感じている人間はどんな目にあわねばならないか。

彼は、この「書類」の王国の外では自分には人びととの真の結びつきがない、自分は空虚と無限の孤独とのなかに置かれていると自覚しないわけにはいかない。

こういう人間は恐怖と全面的な脅威とにさらされて生きて行かなければならない。

どういうふうにして彼は自分を守り、自分は自分なのだ、自分は唯一のもの、二人といない自分なのだ、自分を取りかえることもすりかえることもできないのだと証明できるだろうか。

どういうふうにして彼は自分が本人であると証拠だてることができるのか。

ゴリャートキンは、自分のまわりに柵をめぐらし、没個性的な集団から離れ、孤独にすごすことによって自分の人格を救おうとしている。追いつめられた鼠のように、自分の穴に身をひそめている。彼はドストエフスキーの最初の「地下生活者」である。

彼は、だれからも手を触れられないように「離れて」立っていることを望み、だれの注意もひかないように「みんなと同じであること」な願っている。

「おれはこう言いたいんだ」と彼は途方にくれてつぶやく。「おれは自分の道を、人とは別の道を歩いている。おれは別だ。自分の知っているかぎり、おれは誰の世話にもなっていない……。おれはおとなしい人間だが、おれの道はほかのやつらとは別なのだ」(第二章)。

個性を奪われた人間の卑屈さ、臆病さは、躁鬱病的な語調で描写されている。「おれは平気の平左だ。おれはみんなと同じように独立した人間なんだ。いずれにしても、おれの小屋は離れて立ってるんだ……。おれは誰とも知りあいたくはない。誰もおれにさわってくれるな。おれのほうもさわらないから。おれは『離れて立ってる』んだ……」

 この「離れて立っている」には、臆病な無力さがひびいている。ゴリャートキンは知っている―自分にはわが身を守る力がない、自分の穴にすばやくかくれることもままならない、自分には「確固たる性格」がない、自分の人格はとうに木端微塵になっている、と。生きることと生きることの責任とにたいする怖れが「そっと立ち去りたい」、「消えてしまいたい」という弱気な願望を生んでいる。
※一部改行しました

モチューリスキー『評伝ドストエフスキー』松下裕・松下恭子訳P53-54

この作品は19世紀ロシアで書かれた作品です。しかしここで述べられていることは現代日本を生きる私たちと何ら変わらないことです。私達とドストエフスキーは同じことに苦しみ、生きづらさを感じていたのです。

ドストエフスキーはそれをゴリャートキンを通して私たちに投げかけてくるのです。

私自身この作品を読んでとても心打たれるものがありました。個人的にも『二重人格』はドストエフスキー作品の中でも上位にくるくらい大好きな作品です。

周りとうまくなじめない。なじみたいとは思うのだけれどもやはりなじみたくもない。自分って何なんだ。何でこんな自分になってしまったんだ。どうしたらいい。なんで自分はこんな卑屈なんだ。自分がおかしいのか?どうしたら私は生きていけるのか。なんでこんなに苦しまなければならないのだろう。

そんな悩みを抱えている人にはぜひ読んでほしい作品です。ここに同じ悩みを抱えた人間のドラマがあるのです。ドストエフスキーはそうした人間の味方です。

私はこの作品を読んで、そうした人間の苦しむ姿に共感し共に苦しみながらも、同じ苦しみを耐えている人が他にもいるのだという不思議な安心感を感じたのを覚えています。

もちろん、この作品はハッピーエンドではありません。

ですが何か心にずっしり来るものを私達に残してくれる作品です。

ドストエフスキーはゴーゴリの『狂人日記』、『鼻』の影響を強く受けて『二重人格』を作り上げました。

ゴーゴリの作品を読むことでドストエフスキーが何を言いたかったのかがより明らかになってくるように思えます。

以上、「ドストエフスキー『二重人格』あらすじと解説―自意識過剰男が狂気にまっしぐら」でした。

Amazon商品ページはこちら↓

二重人格 (岩波文庫 赤 613-2)

二重人格 (岩波文庫 赤 613-2)

次の記事はこちら

あわせて読みたい
ドストエフスキー初期作品あらすじまとめ この記事では1846年から1849年のシベリア流刑までに書かれた作品のあらすじを簡潔にまとめていきます。 ドストエフスキーといえば『罪と罰』や『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など、長編のイメージが強いですが実はその作家人生の初期には多くの短編を書いていました。 ですが、デビュー作『貧しき人びと』の後の彼は苦悩が続きます。文壇からは酷評続きでヒット作と呼べるようなものがまったく出てこないのです。 これから紹介していく初期短編はドストエフスキーのそんな苦悩の時代の作品になります。

前の記事はこちら

あわせて読みたい
ドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』あらすじと感想~貧しくも美しい心を持つ2人の恋の物語  この作品は中編小説ということでドストエフスキーの五大長編と比べると手頃で手に取りやすい作品であるのですが、ドストエフスキーの入門としていきなりこれを読むと理解するのはなかなか難しいかもしれません。 ある程度の前知識が必要とされますが、逆に言えばそれさえあればドストエフスキーの貧しい人や虐げられた人への優しさ、愛情がこの作品では感じられます。 ドストエフスキーの原点とも言える作品です。

関連記事

あわせて読みたい
ドストエフスキーおすすめ作品7選!ロシア文学の面白さが詰まった珠玉の名作をご紹介! ドストエフスキーといえば『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』など文学界では知らぬ者のない名作を残した圧倒的巨人です。彼は人間心理の深層をえぐり出し、重厚で混沌とした世界を私達の前に開いてみせます。そして彼の独特な語り口とあくの強い個性的な人物達が織りなす物語には何とも言えない黒魔術的な魅力があります。私もその黒魔術に魅せられた一人です。 この記事ではそんなドストエフスキーのおすすめ作品や参考書を紹介していきます。またどの翻訳がおすすめか、何から読み始めるべきかなどのお役立ち情報もお話ししていきます。
あわせて読みたい
ドストエフスキー年表と作品一覧~ドストエフスキーの生涯をざっくりと この記事ではドストエフスキー作品一覧と彼の生涯を簡潔にまとめた年表を掲載します。 ドストエフスキーの生涯は簡易的な年表では言い尽くせない波乱万丈なものです。特にアンナ夫人とのヨーロッパ外遊の頃は賭博に狂った壮絶な日々を送っています。 ドストエフスキー作品は彼の生涯とも密接な関係を持っています。彼の生涯を知ることは作品を知る上でも非常に大きな助けとなるのではないでしょうか。
あわせて読みたい
ゴーゴリ『鼻』『狂人日記』あらすじと感想~ドストエフスキー『二重人格』に強い影響を与えた「ペテル... ドストエフスキーはゴーゴリの『狂人日記』、『鼻』の影響を強く受けて彼の二番目の作品『二重人格』を作り上げました。 ゴーゴリの作品を読むことでドストエフスキーが何を言いたかったのかがより明らかになってくるように思えます。 作品としても『狂人日記』、『鼻』は非常に面白いです。シュールな笑いの極みと言ってもいいかもしれません。 シュールな笑いの好きな方はまずはまると思います。
あわせて読みたい
ゴーゴリ『ネフスキイ大通り』あらすじと感想~ゴーゴリの「ペテルブルクもの」の始まり この作品はサンクトペテルブルクで最も賑わうメインの大通りである「ネフスキイ大通り」を舞台にした物語です。 ネフスキイ通りは不思議な魅力を持った通りで、誰しもがこの通りにうっとりさせられてしまうとゴーゴリは言います。 しかしこの華やかな通りに騙されてはいけない。ここではあらゆる不思議なことが起こるのだと彼は言い、物語が始まっていきます。 ゴーゴリはこの作品をきっかけにいくつもの「ペテルブルクもの」を執筆していくことになります。
あわせて読みたい
僧侶の私がなぜドストエフスキーを学ぶのか~私とドストエフスキーの出会い⑴ 地元を離れた東京での学生時代。 「お坊さんになるなら『カラマーゾフの兄弟』を読んでみてほしい」 偶然出会ったある人の言葉が私にとって一生を変えるほどの衝撃をもたらすことになりました。 私とドストエフスキーの初めての出会いをこの記事ではお話ししています。
あわせて読みたい
今後のブログ更新について~なぜ今ドストエフスキーを学ぶのか。私は何をしたいのか。 今後のブログ更新について―なぜ今ドストエフスキーを学ぶのか。私は何をしたいのか。 私は今年(2020年)の4月頃よりドストエフスキーについての記事を更新し続けてい...
あわせて読みたい
おすすめドストエフスキー解説書一覧~これを読めばドストエフスキー作品がもっと面白くなる! この記事ではこれまで紹介してきましたドストエフスキー論を一覧できるようにまとめてみました。 それぞれの著作にはそれぞれの個性があります。 また、読み手の興味関心の方向によってもどの本がおすすめかは変わってくることでしょう。 簡単にですがそれぞれのドストエフスキー論の特徴をまとめましたので、少しでも皆様のお役に立てれば嬉しく思います。
あわせて読みたい
親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点~越後流罪とシベリア流刑 親鸞とドストエフスキー。 平安末期から鎌倉時代に生きた僧侶と、片や19世紀ロシアを代表する文豪。 この全く共通点のなさそうな2人が実はものすごく似ているとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか。 と、いうわけで、この記事では親鸞とドストエフスキーの共通点についてざっくりとお話ししていきます。
あわせて読みたい
ドストエフスキーの代表作『罪と罰』あらすじと感想~ドストエフスキーの黒魔術を体感するならこの作品 ドストエフスキーがこの小説を書き上げた時「まるで熱病のようなものに焼かれながら」精神的にも肉体的にも極限状態で朝から晩まで部屋に閉じこもって執筆していたそうです。 もはや狂気の領域。 そんな怪物ドストエフスキーが一気に書き上げたこの作品は黒魔術的な魔力を持っています。 百聞は一見に如かずです。騙されたと思ってまずは読んでみてください。それだけの価値があります。黒魔術の意味もきっとわかると思います。これはなかなかない読書体験になると思います。
あわせて読みたい
『カラマーゾフの兄弟』あらすじと感想~ドストエフスキーの最高傑作!!神とは?人生とは?自由とは? 『カラマーゾフの兄弟』が発表されてから120年。これだけの月日が経っても変わらずに多くの人から愛され続けているのはそれなりの理由があります。 この物語が持つ魅力があるからこそ、読者に訴えかける何かがあるからこそ、こうして読み継がれているのだと思います。 『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキー作品の中でも私が最も好きな、そして思い入れのある作品です。 長編小説ということでなかなか手に取りにくい作品ではありますが、心の底からおすすめしたい作品です。
あわせて読みたい
ドストエフスキー『悪霊』あらすじと感想~革命家達の陰惨な現実を暴露したドストエフスキーの代表作 この作品の持つ魔術的な力は計り知れません。 あくが強い人物たちが一つの舞台でぶつかり合い、自らの存在を主張し合います。 まさに「悪霊」に憑りつかれたごとく、悪役たちは巧妙にそして残酷に社会を混乱に陥れていきます。その過程があまりにリアルで、読んでいてお腹の辺りがグラグラ煮え立ってくるような感情が私の中に生まれてくるほどでした。 やがてそれは生きるか死ぬかの究極の思想対決へと進んで行き、一体これからどうなるのか、彼らの心の中で何が起こっているのかと一時も目が離せぬ展開となっていきます。 これは恐るべき作品です
あわせて読みたい
ドストエフスキー『白痴』あらすじと感想~キリストの創造~ドン・キホーテやレミゼとの深い関係 「無条件に美しい人間」キリストを描くことを目指したこの作品ですが、キリスト教の知識がなくとも十分すぎるほど楽しむことができます。(もちろん、知っていた方がより深く味わうことができますが) それほど小説として、芸術として優れた作品となっています。 『罪と罰』の影に隠れてあまり表には出てこない作品ですが、ドストエフスキーの代表作として非常に高い評価を受けている作品です。これは面白いです。私も強くおすすめします。
あわせて読みたい
プーシキン『青銅の騎士』あらすじと感想~ゴーゴリ・ドストエフスキーの「ペテルブルグもの」の元祖 『青銅の騎士』が後のロシア人作家に与えた影響は並々ならぬものがあります。 こうした文学的な影響力もさることながら、ひとつの読み物としてもとても面白い作品です。さすがプーシキンの傑作と呼ばれるだけあります。 プーシキンらしく簡潔かつ研ぎ澄まされた表現でどんどん物語が動いていきます。現実と幻想が絶妙に入り混じったプーシキンの世界観がいかんなく発揮されています。
あわせて読みたい
ゴーゴリ『外套』あらすじと感想~小官吏の悲哀に満ちた日々~ドストエフスキー『貧しき人びと』に直結 『外套』はドストエフスキーを理解する上でも非常に重要な作品と言えます。 また当時のロシア社会を知る上でも興味深い作品です。ロシアの小役人たちの生態をゴーゴリはユーモアを交えて語っています。 ドストエフスキーは『外套』を下敷きに彼独自の物語を書き始めます。それが彼のデビュー作『貧しき人びと』だったのです。
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次