アメリカ資本主義のルーツとプロテスタント~宗教と経済のつながりを考える アメリカ編⑥

アメリカ編

アメリカ資本主義のルーツとプロテスタント~宗教と経済のつながりを考える 僧侶上田隆弘の世界一周記―アメリカ編⑥

先の記事でぼくは世界経済の中心ウォールストリートを歩いたことをお話しした。

その最後に述べたように今回の記事では「もしこの資本主義の殿堂たるウォールストリートの成り立ちに宗教が関わっていたとしたら?」というテーマでお話ししていきたい。

今回参考にするのは宗教と経済のつながりに関する論考として最も有名な著作である、1905年に発表されたマックス・ヴェーバーの『プロテンスタティズムの倫理と資本主義の精神』という本。

『プロテンスタティズムの倫理と資本主義の精神』 マックス・ヴェーバー
大塚久雄訳 岩波文庫

マックス・ヴェーバーによれば近代資本主義はプロテスタントの中でも特にカルヴァン主義者たちによって生まれたと述べている。

つまり、現代の資本主義のルーツは宗教にあると述べているのだ。

カルヴァン(1509-1564)はスイスで活躍したルターと並ぶプロテスタントの宗教改革の立役者。

カルヴァンの思想の重要な点は人々が救われるかどうかは神によって既に決定されているという「予定説」を重んじることであった。

そしてカルヴァン主義者とはその「予定説」を信じる人たちのことを指す。

彼らこそ資本主義の精神的土台を創り上げた人々だったのだ。

彼らはカルヴァンの「予定説」を核に強い信仰心を持ち、強力な団結を誇る集団だった。

だが、この「予定説」には弱みがあった。

カトリックの観点では、罪を告白し、教会の権威によって罪の消滅を認められれば救済を得ることができた。免罪符もその一つの形だった。

それによって信者たちは自分が救われるという実感を教会から受け取ることができたのだ。

だが、カルヴァン主義者はそうはいかなかった。

なぜならプロテスタントはそのような教会による罪の赦しというものをすべて否定していたため、自分が救われるかどうか目に見える形で知ることはできなかったのだ。

しかも「予定説」によって、自分がこれまでどんなことをしてこようと神によって天国行きか地獄行きかはすべて決定済みだとされている。

これでは本当に自分が救いが得られるのかどうかは信者側にはまったく判断不能だったのだ。

こうなってしまえばまさしく「自分が救われる運命にある」と信じるしかない

「自分が救われると信じるしかない」ということは言うは易しだが、これを死ぬまで自分の信念のみでずっと継続し続けるということはどれだけ困難なことだろう。

「本当に自分は救われるのだろうか・・・?」

どうしても人々はこの悩みを抑えきることができない。

カルヴァン主義者のほとんどがこのことに悩みを持つようになっていったのだ。

だが、そこでこの状況を救う教義が生み出される。

それが「天職」思想とそれによる恩寵の教義だ。

「天職」。これは読んで字のごとく「あなたの今の仕事は天から与えられた仕事です。それに誠実に打ち込むのがあなたのなすべきことです」というシンプルな教義だ。

この教え自体は特に独創的でも新しいものでもない。

だが、カルヴァン主義においてはここに様々な教えがくっつき、それまでとは全く異なった天職思想が生まれてくることになったのだ。

そのひとつが恩寵という考え方。

恩寵とは神からの恵みという意味だ。

恩寵自体も特に新しい思想というわけではない。

だが、これと天職思想が結びついた結果、仕事で得た利益は神からの恵みであると考えられるようになった。

この考え方の画期的なことは利益が大きければ大きいほど、神はそれはお望みになり、より大きな恵みを与えたのだと考えられたことだった。

つまり、経済活動の成功が神の恵みそのものであり、それが救いの指標になるという発想が可能になったのだ。

これまで救いの実感を得ることができなかったカルヴァン主義者にとって、これほど明確に救いの実感を与えてくれるものはかつてなかった。

多くのカルヴァン主義者にとって、経済活動の成功が信仰面においても非常に重要なものになった瞬間であった。

そしてさらに興味深いことに、カルヴァン主義者を含むプロテスタント全体の教義として重要視されていた質素倹約がこの経済活動の成功に一役買うことになる。

カルヴァン主義者は基本的に贅沢を排した質素倹約を重んじた生活をする。

質素倹約をすればどうなるだろうか。

そう。お金が貯まりだす。

その貯まったお金をどうするかというと、彼らはさらにビジネスに投資する。

自分の楽しみや贅沢にお金を使うのではなく、神の恵みを増すためにさらにビジネスにお金を使うのだ。

個人的な趣味嗜好のためにお金を使うことは質素倹約の教えに背くことになる。

だが、神の恵みのために自分の天職を全うし、より大きな利益を得ようとすることは神の教えに忠実に生きることになる。

こうしてビジネスに投下されるお金が増え、ますます利益追求を目指していくことになったのだ。

現代の感覚で考えれば、お金を貯めてより有効にビジネスに生かそうとするのは個人レベルでも企業レベルでも当たり前のように思える。

しかし驚くべきことにルターの宗教改革が起こった16世紀以前にはそんな思考回路はほとんど存在していなかったのだ。

もちろんはるか昔から大商人やお金持ちの人間はいたものの、資本主義のような大規模企業とはやはり様相は異なる。

彼らはあくまで個人レベルで、商人の生き方として商売を営んだ。

しかしそれがカルヴァン主義者の思想が広がると、人々すべての理想的な生き方としての利益追求が奨励されるようになったのだ。

商人だけではなく、すべての人が救いのために働き、利益を求める。

これはとてつもなく画期的な変化だったのだ。

簡単に言えば、ビジネスに対するモチベーションがあまりに違ってくる。

それまでは食べていくために働き、できるだけ楽をしていられることを考えていた。そして余ったお金は飲んだり遊んだりと、その時その時に皆で楽しむためにお金を使っていた。

「働くこと」と「神によって救われること」はまったく別の問題だったのだ。いや、働いてお金を稼ぐことはむしろ信仰上卑しまれることさえあったのだ。

それがカルヴァン主義者の新思想によって状況は一気に変わってしまった。

質素倹約をして余ったお金はさらにビジネスに投下する。そうして生まれた利益は神の恩寵であり、救いの証だと考えられるようになっていく。

こうして人々は自分が救われるために生き方を変え、ビジネスに打ち込むようになっていった。

現代を生きるぼくたちにはなかなか理解するのは難しいが、信仰は人間を圧倒的な力で動かしていく。

信仰のために身を捧げた人間の活力を侮ってはいけない。

神のために働く人間は、そうではない人間の数倍ものパワー、効率で仕事をこなしていっただろう。

必死さがまるで違う。

楽して働こうという人間と、自分の救い、存在意義を賭けて本気で働く人間の差は現代を生きるぼくらでも想像できるだろう。

ここに資本主義が生まれる土壌が出来上がったというのがマックス・ヴェーバーの論のざっくりした説明だ。

アメリカはもともとイギリスの植民地として始まった。

アメリカにいち早く渡ったイギリス人は1620年にメイフラワー号で上陸したピルグリム・ファーザーズが有名だ。

実は彼らこそピューリタンと呼ばれているカルヴァン主義者の一派なのだ。

ピューリタンという言葉の語源は「purify」-「浄化する」という意味だ。

彼らはそれまでのキリスト教の教えをよりピュアにする、つまりより徹底的にカルヴァン思想を実践し真のキリスト教の理想に邁進するのだという思想を持った人たちであった。

彼らがアメリカに上陸し、アメリカ植民地の歴史はスタートした。

もちろん、時代を経るにつれて資本主義からカルヴァン主義的な宗教色は薄れていき、現代では資本主義とキリスト教という結びつきは見えにくくなっている。

それは日本でも同じだ。科学が発達し、神は死んでしまった(と考えられている)。

だが、神が死んでしまった現在でも、ぼくたちが日々当たり前のように働き、利益追求を求めているのも実は宗教の影響があった。

これと同じように、様々な面でも意識せずとも宗教によって形作られた思考パターンや行動パターンがぼくたちの中に必ず存在する。

たとえ見えずとも、宗教は今でもぼくたちの深い所に根を下ろしているのだ。

神は死んでも死なないのだ。

いや、死という概念そのものが神には存在しないのかもしれない。

神は人間とは切り離せない。宗教を学ぶことは人間そのものを学ぶことなのだ。

世界経済の中心、ニューヨークを歩くことはぼくにとって宗教と文化を学ぶ上でとても刺激的な体験だった。

光り輝く摩天楼も、人間が営んできた歴史のひとつ。

それがどのようにして生まれてきたのか。そこにどんな思想が絡んでいるのか。

それがぼくの興味をそそるのだ。

今回はマックス・ヴェーバーの『プロテンスタティズムの倫理と資本主義の精神』を参考にざっくりと資本主義と宗教のつながりをお話ししてきた。

かなりざっくりとした説明となってしまったので、読んでいて色々な疑問が浮かんできた方もおられるかもしれない。

だが、ぼくとしては現代人の資本主義の生き方が実はプロテスタントにルーツがあるということが伝わったならばとても嬉しく思う。

続く

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