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シェイクスピア『お気に召すまま』あらすじと感想~「この世はすべて舞台。男も女もみな役者に過ぎぬ」の名言で有名な名作!才気煥発のロザリンドの大活躍!
今回ご紹介するのは1599年から1600年頃にシェイクスピアによって書かれた『お気に召すまま』です。私が読んだのは新潮社より発行された福田恆存訳の『お気に召すまま』2007年第37刷版です。
早速この本について見ていきましょう。
弟に領地を奪われた公爵は、アーデンの森に移り住んでいる。公爵の娘ロザリンドは、叔父の娘シーリアと大の仲良しのため邸内にとどまっていたが、ついに追放される。男装したロザリンドは、シーリアとともに森に向ったが、一方、公爵の功臣の遺子オーランドーも、兄の迫害を逃れて森にやって来る…。幾組もの恋人たちが織りなすさまざまな恋を、明るい牧歌的雰囲気の中に描く。
Amazon商品紹介ページより
この作品はアーデンの森を舞台に才気煥発の女性ロザリンドが大活躍する物語です。シェイクスピア作品の中でも女性主人公が活躍する作品はそう多くはありません。この作品はそうした意味でも異彩を放つ作品となっています。
そして作中で語られるアーデンの森はシェイクスピアの故郷ウォリックシャーをモデルにしています。実はこの森が物語において非常に重要な意味を持っています。
このことについて巻末の中村保男による解説では次のように述べられています。
『お気に召すまま』と言えば、ああ、アーデンの森かと誰もが思う。それほどこの劇の主な舞台となっている自然林は有名だ。アーデンの森はフランスにあることになっているが、『お気に召すまま』を書いたときにシェイクスピアの念頭にあったのは、彼の育ったウォリックシア州のエイヴォン河畔にあるストウンレイの鹿園だったことは間違いない。鹿のいるその森で密猟をしたことが発覚してシェイクスピアは故郷に居たたまれなくなってロンドンへ出奔したのだという説さえあるくらいなのだ。おまけに、アーデンという名はシェイクスピアの母の旧姓でもあった。
福田訳『お気に召すまま』の原本となった「ニュー・シェイクスピア全集」を編纂したドーヴァー・ウィルソンはこう書いている。シェイクスピアが背景描写で初めて成功したのは『夏の夜の夢』の妖精の棲む森であり、『ヴェニスの商人』の最終幕ではさらにその上を行ったが、それよりもなお雰囲気効果醸成に成功したのは『お気に召すまま』のアーデンの森であり、これに匹敵するのは『マクべス』の暗夜と、『あらし』の孤島―たえず音楽が響きわたっているようなあのプロスペローの島だけである、と。
新潮社、シェイクスピア、福田恆存訳『お気に召すまま』2007年第37刷版P189
そしてこのアーデンの森とはいかなるものか、そしてこの森が作品上どんな効果をもたらしているのかということについては訳者の福田恆存が詳しく解説しています。そちらを見ていきましょう。
シェイクスピアの故地ウォリックシャーを埋めるアーデンの森の五月の美しさは、既に『夏の夜の夢』でお馴染みのものである。なるほど『お気に召すまま』においては、それ程の自然描写は無い。が、シェイクスピアが、そして当時の見物がこの森を一種の桃源郷と見なし、その約束の下にこの作品が書かれ観られた事は明らかである。(中略)
旧公爵を始め、すべての者にとって、もちろんオーランドーにとっても、アーデンの森は厭わしき現実の世界に対置された桃源郷であって、そこに働く「魔カ」は争いや憎しみに疲れた心を癒し、失意を慰めてくれるものなのである。
この芝居の最後で、フレデリック公爵が一修道僧の言葉により、戦わずして去り、悔いて位を退くというのも、やはり森の「魔力」の働きであり、これはロッジの『ロザリンド』には無い、シェイクスピアの思附きである。
改めて言うまでもなく、この「魔カ」の働きは『あらし』において、遥かに意識的に前面に押し出されて来るのだが、それについては改めて述べる。
要するに、アーデンの森という仮象の世界を前提としなければ、『お気に召すまま』は理解できない。それを一つの約束事として受入れてしまえば、オーランドーがギャニミードをロザリンドと知っていたのかいないのかというリアリスティックな謀議立ては大した意味の無い事になってしまうし、その他の「馬鹿らしさ」も結構楽しい笑いの種になる。
※一部改行しました
新潮社、シェイクスピア、福田恆存訳『お気に召すまま』2007年第37刷版P182-184
要するに、アーデンの森という仮象の世界を前提としなければ、『お気に召すまま』は理解できない。
と訳者が述べるほど重要なのがこのアーデンの森ということになります。
そしてこの作品において最も有名なのがタイトルでも紹介した「この世はすべて舞台。男も女もみな役者に過ぎぬ」という名言です。
こちらは河合祥一郎著『あらすじで読むシェイクスピア全作品』という本で紹介されていた翻訳です。一般的には「この世はすべて舞台。男も女もみな役者に過ぎぬ」という言葉が知られているのではないでしょうか。私もこのイメージが頭にありました。
ですが福田恆存訳では次のように翻訳されていました。
全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない、それぞれ出があり、引込みあり、しかも一人一人が生涯に色々な役を演じ分けるのだ
新潮社、シェイクスピア、福田恆存訳『お気に召すまま』2007年第37刷版P70
先に見た言葉と比べるとだいぶ印象が違いますよね。
ですが言わんとしていることは同じです。「この世は舞台である。そして一人一人が様々な役を演じているのだ」ということになります。
劇作家らしい、なんとも味わい深い言葉ですよね。自身も演者として舞台に上っていたシェイクスピアだからこその言葉でもあります。
そしてこの『お気に召すまま』はこの言葉通り主人公ロザリンドがアーデンの森で男装しギャニミードと名乗り、意中の相手オーランドーと機知に富んだやり取りを繰り返します。
ロザリンドはまさにギャニミードを演じ、『お気に召すまま』という舞台の中でさらに舞台を演じるわけです。こうした二重構造は『夏の夜の夢』でもありましたが、この作品では作中の「この世はすべて舞台」という言葉と合わさって非常に印象に残るシーンとなっています。
上の福田恆存の解説にもありましたようにこの作品は『夏の夜の夢』や『あらし』ともつながりが深い作品です。
『リア王』や『マクベス』などの悲劇群は読んでいて正直重いです。まあ、その重さがそれらの最大の魅力でもあるのですが今作『お気に召すまま』や『夏の夜の夢』、『あらし』は非常に読みやすく明るい作品です。軽やかさがあります。
シェイクスピアの含蓄溢れる名言を味わうもよし、ストーリーの軽やかさを堪能するもよし、それこそ「お気に召すまま」です。
気軽に親しむことができるのがこの作品のありがたいところではないかと私は思います。
ぜひおすすめしたい作品です。
以上、「シェイクスピア『お気に召すまま』あらすじと感想~「この世はすべて舞台」の名言で有名な名作!才気煥発のロザリンドの大活躍!」でした。
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