(20)法然の七箇条制誡から見る教団の混乱ぶりとは

【入門 現地写真で見る親鸞聖人の生涯】(20)法然教団の危機~比叡山からの訴えと法然の七箇条制誡から見る教団の混乱ぶりとは
1204年、比叡山の僧侶たちから天台座主真性に法然教団の専修念仏の停止を求める訴えがなされました。
そして座主からの問い合わせを受けて法然は直ちに「送山門起請文」を送り弁解に努めました。そしてさらに皆を集め、「七箇条制誡」という文章を制作し、弟子達190名にも署名させ、比叡山に提出しました。もちろん、その中には親鸞の名前(当時の名で綽空)もあります。
この「送山門起請文」と「七箇条制誡」の提出により法然教団への攻撃は回避されることになりましたが、法然の身辺は一気に不穏なものへ変化していきます。
今回の記事ではこの比叡山の訴えと「七箇条制誡」を見ていきながら、当時の法然教団の実態をより深く見ていきたいと思います。
さて、まずは比叡山の訴えからです。
1186年の大原問答をきっかけに勢いを増した吉水教団でしたが、 親鸞が弟子入りした1200年初頭頃には急激に弟子や信者が増えたことで様々な問題が起こるようになっていました。法然の教えを聞いた者が比叡山や興福寺などの他のお寺の僧侶とトラブルを起こし始めたのです。
どんなトラブルが起きていたかはこれからじっくりと見ていきますが、こうしたトラブルを引き起こす元凶が法然なのだから責任を取りなさいというのが比叡山側からの訴えになります。
これに対して「以後このようなことが起こらないよう、ここに記す七つのことを誓います」というのが法然の『七箇条制誡』になります。

「私たちはもう〇〇をしません」という誓いは逆に言えばこれまでそのようなことをしていたということの裏返しに他なりません。つまり、この「七箇条制誡」を読めば当時比叡山で問題視されていたトラブルの内容を我々も知ることができます。
というわけでこれよりその七箇条をひとつずつ見ていくことにしましょう。
一句一文も見ないで真言宗や天台止観の教えを否定し、阿弥陀仏以外の仏や観音勢至以外の菩薩を誹謗することを禁止する事。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P169
これがトラブルの一つ目です。法然の教えは専修念仏ということで、阿弥陀仏の教えこそ絶対であり、他の教えは必要ないというものでした。そしてこれを聞いた弟子や信者たちが他のお寺の僧侶に対し、誹謗中傷を加えていたというのが一つ目の問題になります。これまでお話ししてきましたように当時の日本仏教は八宗兼学ということで、それぞれの仏様や教えと融和的な関係を持ってきました。それを破壊してしまう法然のやり方はいかがなものかと比叡山側は批判したのです。
これは今の私たちが聞いてもその言い分は理解できますよね。法然自身は他宗派の僧侶に対し面と向かって誹謗中傷するようなことはしませんでしたが、過激な弟子や信者たちが法然の教えを大義名分にこうした言動を繰り返していたというのは想像がつきます。
では、二つ目の誓いを見ていきましょう。
学識のない身で学識のある人に口論を挑み、他宗の者に遇って好んで論争をすることを禁止する事。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P169
これはもう現代でもよく見るパターンです。いわゆる「はい、論破!」です。
法然の専修念仏の教えを水戸黄門の印籠のように携えて、とにかく論破して困らそうとする人間が多かったということです。ここで法然が「学識」を強調するのにも理由があります。法然自身次のように補足を加えています。
右の件について言うと、論議は学識の深い者のすることである。愚者のすることではない。また論争のあるところには様々な煩悩が起こる。智者はこのような状態に陥ることを遠く避けるものである。まして一向念仏の行者はなおさらである。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P170
そもそも論義というのは高僧がそれぞれの学問研究の成果を討論しあう場です。これは相手を論破するのが目的なのではなく、あくまで仏道修行の一環です。相手をやっつけて満足するのを目的にするなどもってのほかです。
そしてさらに法然自身の仏道観から言うと、極楽往生にはこうした学識の深さよりも自分の愚かさ、つまり「無知の知」を知る愚者であることこそ阿弥陀仏の願いに適っていると考えます。よってこうした論議そのものを法然はそもそも推奨していません。にもかかわらず他者に議論を吹っ掛け、やっつけたと自己満足に浸る人間が多かったことがこの誓いから見えてきます。こうした論破癖のある人が増えると社会が回らなくなるのは私たちもよく身に染みているかと思います。ここでは論破癖の害悪についてはお話ししませんが、当時もそうした事例が多々あったということは間違いないようです。
次に三つ目を見ていきます。
異なった理解を持ち、異なった修行をする者に向かって、愚かで偏った心で、「自分の宗を捨てて、その宗を悪く言い立てよ」と無理強いすることを禁止する。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P170
これも強烈ですね。京の街でこうしたことが横行していたとしたらそれは比叡山の僧侶が怒るのも無理はありません。
続いて四つ目です。
「念仏門には戒も行もない」と言い放って、みだりに異性との婬行や飲酒や食肉を勧め、たまたま戒を守る者があればそれを雑行の者と呼び、「弥陀の本願を憑む者は悪を行うことを恐れなくてもよい」と言うことを禁止する事。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P170
これはものすごく重要です。たしかに法然の教えでは戒律を守ることが極楽往生の条件にはなっていません。ですがだからといって進んで戒律を破ったり悪いことをしてもよいということにはなりません。それをはき違えて悪いことを積極的に行おうとする者が出てきたのです。あるいは悪いことをした人間がその免罪符として念仏を使い始めたということです。
戒律の遵守自体はこれまでお話ししてきたように、当時の日本ではあまり守られてはいませんでした。しかし戒律の重要性をはなから否定するような言説はやはり問題があります。どうしても戒律を守れないというのは仕方がない。だが戒律を守れぬ自分という懺悔の心があることが重要なのだと当時の真面目な僧たちは考えていました。そんな彼らにとって最初から戒律を否定するような言説はやはり認めることはできなかったのではないでしょうか。
そしてさらにですが、例えば人から物を奪った男がいたとしましょう。その男が物を盗った瞬間「南無阿弥陀仏」と念仏を称えたらそれでこの悪は帳消しになるのでしょうか。いや、なりません。ですが、以前もお話ししましたように当時の平安京は群盗が多数出没するなど治安の悪化が顕著でした。そんな中その群盗たちがこの念仏の教えを語って好き放題やり始めたらどうでしょう。これは治安維持の面からも危険です。比叡山の僧侶はそうした事例まで想定して批判したのではないかと思われます。
では五つ目です。
まだ物事の正誤も分からない愚か者が、聖教にもなく、師の教えでもない、恐らくは自分勝手な見解を述べ、みだりに論争を企てて、知識ある人たちから笑われるーそのような行動で、無知の者の心を惑わせ乱すことを禁止する事。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P170ー171
これは弟子たちや信者たちが念仏の教えを勝手に歪めてより極端に解釈していったことを戒めています。先の論破や戒律の問題とも重なってきますね。論破にせよ極論にせよ、それらは人の耳目を集めます。そうすると、それに引き寄せられてしまう人が出てしまう。これもやはり危険な兆候です。そういう論破や極論に騙されなければよい話なのですが、これに引っかかり心酔する人が後を絶たないのは現代も同じです。これを比叡山は批判したのです。
引き続き六つ目を見ていきましょう。
愚かで智慧がないのに説法を好み、正しい教えを知らないで種々の誤った教えを説き、学問も知識もない出家や在家を教化しようとすることを禁止する事。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P171
これも上と似ています。そして最後の七つ目も合わせて見ていきましょう。
自ら仏の教えでない誤った教えを説いてそれを正法と唱え、偽って師から受け継いだ教えだと称することを禁止する事。
春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P171
こう見てみると、やはりこれは法然その人の問題ではなく弟子たちと信者たちの問題であったことが見て取れるのではないでしょうか。
法然自身は持戒堅固で優れた人格者でありました。真摯に仏道に励み、様々な宗教的体験を通して自身の念仏信仰を確立しました。
しかし、弟子達やその信者たちは違います。彼らはそうした長い長い宗教的鍛錬の道を経ていません。
「極楽往生には戒律も修行も必要ありません。どんな身分の人でもどんな悪を犯してもお念仏を称えれば極楽往生ができます」という教えを聞いたら、「そうか!そうなのか!」と短絡的に捉える者も多かったのではないかと思います。つまり、「戒律も修行も意味がない。やっている僧侶は間違っている。悪いことをしたとしても念仏さえ称えればそれでよいのだ」と考えるのです。事実、そうした理解をしている人間が多かったからこそ比叡山から批判されたのです。
これは真摯な仏教者法然でしたら想像もできません。法然は優れたお人です。だから「たとえ戒律も修行も必要ない」としてもそれを簡単に馬鹿にするようなことはしません。わざわざ悪いことをして誇るなんて想像すらできないことでしょう。
おそらく、法然から信頼されるような高弟たちは皆こうした法然の人柄や教えを理解していたと思います。しかし多種多様な人間が次から次へと集まっていた法然教団にはそれを理解できない人間もいたのではないでしょうか。
そしてさらにたちの悪いことに、法然教団の正式な門下でもないのに勝手に法然の名を語って上のような問題行動を起こしていた人間が多々いたのではないかということです。私はむしろこのケースが事の真相だったのではないかと考えています。法然の教えはシンプルです。そして多くの下層階級の心を掴む力がありました。それを逆に利用されたということですね。
いずれにせよ、事はもう法然一人の問題では収拾がつかないところまで来てしまいました。
宗教的な面からの批判と、治安維持の面からも危険視され始めた法然教団。
今回見てきた「七箇条制誡」の提出によって一応は比叡山は矛を収めましたが、これら問題行動はそうそう簡単に収まるものではありません。結果、翌1205年に今度は奈良の興福寺から弾圧を求める書類が朝廷に提出されることになります。これを「興福寺奏上」といいます。
この「興福寺奏上」は比叡山からのよりさらに一歩進んだ批判がなされています。つまり、法然教団にとって状況はさらに悪くなっていったことが示されています。
次の記事ではこの「興福寺奏上」を見ていくと同時に、この書状の執筆者とされてきた興福寺の高僧解脱房貞慶についてお話ししていきます。従来の浄土宗や浄土真宗からは法然教団を弾圧に追い込んだ大悪人のような言われ方がされてきましたが、実は最近の歴史学の検証によりそれが間違いであった可能性が明らかになっています。次の記事ではそんな貞慶についてもお話ししていきたいと思います。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
主要参考文献一覧はこちら

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