辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』あらすじと感想~インド宗教の源流!神々への讃嘆と祭式の雰囲気を掴むために
辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』概要と感想~インド宗教の源流!神々への讃嘆と祭式の雰囲気を掴むために
今回ご紹介するのは1970年に岩波書店より発行された辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』です。私が読んだのは1975年第6刷版です。
早速この本について見ていきましょう。
インド最古の宗教文献であるヴェーダのうち、紀元前13世紀を中心として永い間に成ったリグ・ヴェーダはとりわけ古く、かつ重要な位置にある。それは財産・戦勝・長寿・幸運を乞うて神々の恩恵と加護を祈った讃歌の集録であって、アーリア人がのこしたこの偉大な文化遺産は、インドの思想・文化の根元的理解に欠かすことができない。
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この本は古代インドの根本聖典『リグ・ヴェーダ』の主要な箇所を抜粋した作品になります。
前回の記事ではこの聖典のおすすめの参考書、辻直四郎著『インド文明の曙―ヴェーダとウパニシャッド―』をご紹介しましたが、いよいよその本丸の登場です。
この『リグ・ヴェーダ』について、訳者は「まえがき」で次のように述べています。これが非常にわかりやすい解説でしたので少し長くなりますがじっくり読んでいきます。
インドで一番古い宗教文献をヴェーダといい、その中でリグ・ヴェーダは特に古く、かつ最も重要な部分をなしている。古代インドの宗教や神話、文学や哲学、あるいは文化一般に興味をもち、インド思想の根元にさかのぼろうとする人は、多少なりリグ・ヴェーダについて知らなければならない。およそ西紀前一五〇〇年ごろを中心としてインドの西北部パンジャープへ侵入し、次第に東方に向かって領土を拡めたアリアン人が最初に残した文化的遺産こそリグ・ヴェーダである。彼らは武力によって先住民を征服したと同時に極めて宗教心が強く、物質的には他の古代文明と比べて特に誇るべきものを持っていたとは思えないが、精神文化の面では異常な活力を展開した。多くの神々を讃えて財産・戦勝・長寿・幸運を乞い、その恩恵と加護とを祈った。リグ・ヴェーダはこれらの讃歌の集録である。優秀な讃歌によって神を動かして所願を成就し、庇護者たる王侯貴紳から多くの報酬を得るため、詩人のあいだに激しい競争があったらしく、文学的にすぐれた作品が多数に残っている。
彼らの宗教はその本質において明らかに多神教で、讃歌の対象となった神格の数は非常に多く、その範囲も多岐にわたっている。大自然の構成要素を始めとし、神秘力があると認められたものは、動植物でも器具でも神格化され、時には普通抽象概念と呼ばれるもの(例えば「契約」、「激情」)も崇拝の対象となった。また一見祭式との関係が明瞭でない歌、哲学的思索の進展を示す歌なども、かつては宗教儀式中にそれぞれの役割をもっていたにちがいない。
しかし神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の讃辞を受けている。神々はそれぞれ特定の活動範囲を守り、天則すなわち自然界・人間界の秩序を維持する理法・真理に服従すると同時に、この天則の諸相を各自の掟として堅持し、他の侵犯を許さない。主要な神格は、多かれ少なかれ擬人法の適用を受け、アリアン人の理想を反映するが、しばしば特徴が薄らぎ、厳格な区別があいまいとなる。その結果神々は概して威力に勝れ光彩に満ち、賢明で恩恵に富み、怨敵・悪魔を克服して信者に財宝と名声とを惜しみなく授け、邪悪を罰すると同時に贖罪する者を赦免する。
讃歌は人間の言葉によって具象化した天則の発現であり、神の恩恵による霊感をもつ詩人に開示された天啓である。優秀な讃歌と甘美な供物特に神酒ソーマを捧げる祭祀とで神々を満足させ、庇護者の願望を達成し、自己の競争者を凌駕して多量の報酬を得ることが、当時の詩人兼祭官の関心事であった。この結果詩作の技法と祭式の規則とは長足に進歩したが、時代の進むにつれて文学的には新鮮味を失い、複雑な祭式を職能とする祭官族の専横をまねき、祭式万能の弊風を生むにいたった。
岩波書店、辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』P3-4
『リグ・ヴェーダ讃歌』というタイトル通り、この聖典ではとにかく神々への讃嘆が繰り返されます。
そして上の解説にありましたように、その神々のバリエーションがとにかく豊富です。また、そこに神々のランク付け、秩序があいまいというのが非常に興味深いです。まさに多神教的な世界がそこに繰り広げられます。
その中でも特に興味深かったのが後のヒンドゥー教で主神となるヴィシュヌとシヴァがこの『リグ・ヴェーダ讃歌』では影が薄いという点です。シヴァ神においてはその前身のルドラという名前で登場しますが、古代インドの時点ではそこまで人気のある神ではなかったというのは非常に興味深かったです。
このヴェーダで影の薄かったヴィシュヌとシヴァがやがてインドの宗教で絶大な人気を得るようになっていく。この変化がインド宗教を知る上で非常に重要なポイントとなりそうです。
また、以前紹介したM・J・ドハティ著『インド神話物語百科』では『リグ・ヴェーダ』について次のようにも述べられていました。
宇宙の創造については、『リグ・ヴェーダ』は謎めいており、決定的な答えを提示しているというよりも、むしろ問いかけている。宇宙の始まりは、存在(有)もなく非存在(無)もない状態だったと述べているのである。空という領域(空界)もなく、その上の天もなく、死もなく、不死もなかったという。こうした宇宙論は、潜在的可能性の状態、そこから何かが現れるかもしれないがまだ現れていないカオスの状態を示しているように思われる。(中略)
この形のない宇宙は、『リグ・ヴェーダ』では「かの唯一者」と呼ばれる。このひとつの点か場所か宇宙かであるもの―こうした区別自体が無意味である―は、そこまでに存在したもの、存在したかもしれないものすべてを含んでいた。「かの唯一者」以外のものはまったく何もなく、「かの唯一者」は「自力により風なく呼吸していた」という。この行為から意欲と意(思考)が生じたが、このすべてがどのように起きたのかは、人知の及ばないことである。
『リグ・ヴェーダ』は答えを提示できないと認めている。宇宙には答えを知る者がまったく存在しないからである。デーヴァ(神々)ですら宇宙の創造後に出現したので、宇宙がどのようにつくられたのかを知ることはできない。しかも『リグ・ヴェーダ』は、創造主がいかなるものであれ宇宙を出現させた創造主が―あるいは出現させなかったのかもしれないが―どのように宇宙が出現したのかを知っているにちがいない、あるいは創造主も知らないかもしれない、とまで示唆している。
これは何もかも漠然としているが、やっかいなほどでもない。基本的な概念はこうだ。何が起きて宇宙を出現させたのかは、人知ではまったく理解できない。宇宙を創造しようとする意識的な行為があったのかどうか、知ることはできない。すべてのものは宇宙の内部に存在し、宇宙創造よりも後に出現したのだから、宇宙創造以前の状態がどのようなものだったのか、あるいは宇宙の外側がどのような状態なのかを想像することなどできない。
原書房、マーティン・J・ドハティ著、井上廣美訳『インド神話物語百科』P28-31
『リグ・ヴェーダ』は答えを与えるのではなく、問いを与えると著者のドハティは述べます。
たしかに『リグ・ヴェーダ』を読んでいても、神々を讃嘆するのみで、「世界のなぜ」に詳しく答えることはありません。ドハティはこうも述べてます。
全体的に見ると、ヒンドゥー教の文献は宇宙の創造や本質についての事実を提示してはいない。その代わりに、思索と疑問の提起がある。読んでも答えが示されているわけではなく、宇宙の謎についてじっくりと考えるよう促しているように感じられる。しかも多くの文献は、死すべき運命の人間が宇宙のような広大なものを正しく理解することなどとても無理だと認めている。
原書房、マーティン・J・ドハティ著、井上廣美訳『インド神話物語百科』P21
古代インドの根本聖典には世界の成り立ちや複雑緻密な哲学体系は説かれません。人間には限界があるということを明確にします。ですがだからこそ神々と共存する世界が開かれてくるわけでもあります。一神教的な全知全能の神とは全く異なる世界観、人間観がここにあります。
さて、ここまで『リグ・ヴェーダ』について見てきましたが、この聖典はひたすらに神々を称えます。ですが時代を経るにしたがってそれだけでは宗教として成立しなくなり、ウパニシャッドなどの深遠な哲学が生まれてくることになりました。現代でも信仰されているヒンドゥー教もそうした流れの中で生まれてきています。『リグ・ヴェーダ』の神々への讃嘆は現代のインド宗教にも明らかにつながっています。
インド思想の源流を知る上でも『リグ・ヴェーダ』は非常に重要であることを感じました。
以上、「辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』~インド宗教の源流!神々への讃嘆と祭式の雰囲気を掴むために」でした。
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