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(37)サン・ピエトロ大聖堂の『カテドラ・ペトリ』~ベルニーニ芸術の総決算!空間そのものも作品に取り込む驚異の傑作!

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【ローマ旅行記】(37)サン・ピエトロ大聖堂の『カテドラ・ペトリ』~ベルニーニ芸術の総決算!空間そのものも作品に取り込む驚異の傑作!

前回、前々回の記事でサン・ピエトロ広場『スカラ・レジア』をご紹介した。

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今回の記事ではいよいよサン・ピエトロ大聖堂内部の『カテドラ・ペトリ』をご紹介していく。

『カテドラ・ペトリ』Wikipediaより

『カテドラ・ペトリ』とは

ところで話は少しさかのぼるが、広場の工事が進む一方で、サン・ピエトロ内では後陣アプスの装飾という重要な仕事が行われていた。それは聖ペテロの司教座カテドラを中心とした装飾で、一般に「カテドラ・ぺトリ」(ぺテロの司教座)と呼ばれている。司教座とは文字通り司教が座る椅子のことだが、サン・ピエトロにはローマの最初の司教である聖ぺテロの司教座が保存されていた。この象牙の装飾を付された樫材の司教座は、一九六八・六九年の調査によって、実際は九世紀のもので、シャルル禿頭王(八七七年没)から教皇に贈られたものであることが判明している。しかし長い間、少なくとも一部は聖ぺテロの司教座に由来するものと信じられ、尊崇を集めてきた。とりわけ、反宗教改革による新たな「教会の勝利」を唱えるカトリック教会にとって、このペテロの司教座はキリストの代理人たる教皇の権威を示す貴重な遺品に映ったのである。

アレクサンデル七世が即位した当時、この司教座はウルバヌス八世によって一六三九年に設けられた祭壇に安置されていた。だが同時代の版画で見ると、この祭壇はいかにも凡庸である。これに満足しなかったアレクサンデル七世は、一六五六年に司教座をアプスに飾る決心をする。このアプスに司教座を飾るという発想は、重要な象徴的意味をもつこの遺品を賞揚するというだけでなく、アプスの奥に司教座を置くという初期キリスト教会以来の伝統の復活をも意味するものであった。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P162-163

サン・ピエトロ大聖堂の司教座は1968、9年の調査で実際には9世紀のものであることが判明したが、それでもなお司教座の持つ意味は全く失われない。信仰における象徴として生き続けている。このあまりに巨大な意味を持つ司教座をいかにしてさらなる高みへと輝かせるのか、それがベルニーニの任務だったのである。

では引き続きこの『カテドラ・ペトリ』について見ていこう。

ベルニーニによる『カテドラ・ペトリ』の制作

一六五七年に聖省コングレガツイオーネの依頼を受けてべルニーニが立てた最初のプランは、今日見るカテドラ・ぺトリと比べると、非常に小規模でおとなしいものであった。これは、アプスの両側にあるパウルス三世とウルバヌス八世の墓との調和を考えて、全体が壁龕ニッキアにおさまるようにしたためである。この最初のプランにみられる、古い聖ペテロの司教座カテドラをブロンズの司教座カテドラに納め、それを四人の教会博士が支えもつという基本モティーフは、最後まで変わることがない。

だがべルニーニは二度にわたって計画を変更し、その都度その規模を拡大していった。このプランの変更は、べルニーニの発想とその制作過程をよく伝えていて、まことに示唆的だ。すなわち全体のバランスとまとまりとに重きをおいた最初のプランは、厳格さや壮重ささえ感じさせるものだったが、二度の変更を経て、それはダイナミックで劇的精神性に満ちた、壮大な見世物スペクタクルに変貌したのである。

こうした変貌の過程は、サンタ・マリア・デル・ポポロの《ダニエル》を思い起こさせる。すなわち、ダニエルが《ラオコーン》群像中の《父》という古代の造形から出発して、次第に神秘的な宗教性を秘めたバロックの作品に変貌していった過程と重なるのだ。このような過程の根底にはどちらの場合も、べルニーニの宗教性と演劇テアトロ的な造形美学とが働いているわけである。

カテドラ・ペトリの場合も、最終案を決定したべルニーニが最も重んじたのは、実際に置かれる場所における作品の舞台芸術的シェノグラフィックな効果であった。つまり、彼の脳裏に浮かんだイメージを描きとめた、バチカン図書館にあるすばらしいデッサンが示すとおり、彼は教会の入り口の方から見た時に、バルダッキーノがカテドラの、いわば額枠になるように工夫したのである。そしてそのために、計画は漸次拡大されて、バルダッキーノとのより適切なバランスが探求されたのだ。

こうして最初のプランを捨て、第二のプランに挑んたべルニーニは、一六五八年に実物大の木のモデルを作らせて、実地にその効果を検討しているが、伝記作者パスコリが伝える画家アンドレア・サッキの批評は、この時だと思われる。一七世紀前半の古典主義的傾向の絵画を代表するサッキは、べルニーニとはあまり付き合いがなかったが、この作品に対する意見を求められてサン・ピエトロを訪れた。べルニーニに案内されて身廊の半ばまで来ると、彼はここが作品を見るべき地点だと言って、「この彫刻はもう一パルモほど大きくなければならない」とだけ意見を述べて立ち去った、というのである。このサッキの寸評を受け入れたためかどうかは分からないが、べルニーニは一六六〇年から六一年にかけて計画の規模をさらに拡大し、これをもって最終案としたのであった。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P164-165

左が『ラオコーン』、右が『ダニエル』だ。ベルニーニはサンタ・マリア・デルポポロ教会内のキジ礼拝堂の『ダニエル』の制作において古代美術を参考にしていた。(詳しくは「(31)サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のダニエルとハバククの像~ベルニーニの神秘性と古代ローマのインスピレーション」の記事参照)

今回の『カテドラ・ペトリ』においてもスタートはシンプルなものを構想し、そこから次第に宗教的神秘性が高まっていくという過程を通っていったのである。さすがのベルニーニといえど、いきなり最終案のような創造性に富んだものを造れるのではないというのがポイントだ。

サン・ピエトロ大聖堂身廊の中心部辺りから撮った写真。バルダッキーノの向こう側に『カテドラ・ペトリ』があるのがここからでもわかる。

バルダッキーノ付近から撮影。まさにバルダッキーノの黒い柱が額縁の役割を果たしているのがよくわかる。

四人の教会博士が支えるペテロの司教座

このカテドラ・ペトリは、色大理石の台座とブロンズによる四人の教会博士、その四人が支える聖ペテロの司教座カテドラ、そして聖霊のガラス絵を中心とするストゥッコとブロンズによる「栄光グローリア」とから構成されている。この装飾の中心となるブロンズの司教座は、古い聖ぺテロの司教座を中に納めている。したがって、この装飾全体が一つの聖遺物器レリクイアーリオであると考えてよいわけである。とすると、この聖遺物の意味を伝えるべく、司教座の背には「わたしの子羊を飼いなさいバスケ・オウエス・メアス」が表わされ、上部ではプットーが司教冠を捧げ持っているのは当然といえよう。この貴重な聖遺物である司教座を支える四人の教会博士は、前方左が聖アンブロジウス、同右が聖アウグスティヌス、後方左が聖アタナシウス、同右が聖クリソストムスてある。この四人のうち二人が西方教会の博士だが、司教冠を被った彼らはより重要な場所である前面に配されている。

ここで注目すべきは、この四人の博士たちは司教座を物理的な意味で支え持っているのではないということである。彼らは神秘のカで浮遊する司教座のリボンに指をかけているに過ぎないのだ。つまり彼らの支えは精神的なものであり、かつ二義的なものなのである。この司教座の上には聖霊が下り、それをとり囲んで天使やプットーたちが神の栄光をたたえて舞い飛んでいる。光と雲は建物におおいかぶさり、司教座は雲につつまれるようにして空中に浮遊しているのである。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P165-166

「ここで注目すべきは、この四人の博士たちは司教座を物理的な意味で支え持っているのではないということである。彼らは神秘のカで浮遊する司教座のリボンに指をかけているに過ぎないのだ。つまり彼らの支えは精神的なものであり、かつ二義的なものなのである。この司教座の上には聖霊が下り、それをとり囲んで天使やプットーたちが神の栄光をたたえて舞い飛んでいる。光と雲は建物におおいかぶさり、司教座は雲につつまれるようにして空中に浮遊しているのである。」

たしかによく見てみると彼ら教会博士は物理的にこの司教座を支えているのではない。本当にリボンをちょんとつまんでいるだけなのだ。これは言われてみないと気づかないかもしれないが、石鍋真澄が述べるようにこれは重要な意味を持つと思う。

熱狂的なまでの宗教的高揚と魔術的造形力が現れた晩年のベルニーニ

カテドラ・ぺトリはべルニーニの長い制作活動の総決算ともいえる大作であった。そこでは、彼の美術に対する考え方が途方もないスケールで展開しているのである。それはそれ自身がさまざまな素材と技法の融合体であるというだけでなく、その環境となる建築との一体化がはかられ、全体としての絵画的効果が制作の主眼となっていることを意味する。

実際、この装飾を身廊部からバルダッキーノを通して見ると、いわば天上の絵画の如くに見えるのだ。現場における舞台芸術的シェノグラフィックな効果を探求したべルニーニが、ついにサン・ピエトロ全体をカテドラ・ペトリの展覧場にしてしまったかと思うほどである。少なくともこの作品によって、べルニーニがサン・ピエトロの長大で巨大な空間を視覚的にも、また宗教的にも意味づけたことは確かであろう。そこでは、形態だけでなく光と色彩と質感とがもつ感覚的喚起力があらゆる角度から生かされ、我々を現実から飛び立たせて宗教的ファンタジーの世界へと誘い込む。つまりべルニーニの魔術師的造形力によって、バロックの神秘的幻視ヴィジョンが見事に視覚化されているのだ。そしてこの幻視の場面は、たとえばべルニーニがパオリーナ礼拝堂で演出したクワラントーレのような、祝祭フェスタの場面を連想させる。まったくもって、それはバロックの壮麗な祝祭の結晶だとも言えよう。

だが、この作品の喚起力の源はもっと深いところにある。四人の教会博士にとりわけよく表われているように、この作品には熱狂的ファナティックなまでの宗教的高揚が表現されており、晩年のべルニーニが達した境地をよく伝えている。この内面的緊張がなかったならば、この巨大で驕奢な装飾はこれほどの造形的な力と喚起力をうることはなかったにちがいない。べルニーニ自身も、畢生の大作としてこのカテドラ・ぺトリとサン・ピエトロ広場の柱廊コロンナートに愛着を抱いていた。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P166-167

「実際、この装飾を身廊部からバルダッキーノを通して見ると、いわば天上の絵画の如くに見えるのだ。現場における舞台芸術的シェノグラフィックな効果を探求したべルニーニが、ついにサン・ピエトロ全体をカテドラ・ペトリの展覧場にしてしまったかと思うほどである。」

ベルニーニは彫刻作品だけでなく、その空間そのものも作品に取り込んでしまう。その極みがこのバルダッキーノと『カテドラ・ペトリ』なのだ!

大事業を完遂できるベルニーニの特異な才能とは

このカテドラ・ぺトリは完成までに一〇年近い年月を要している。多くの助手を用いるのを常としたべルニーニの作品でも、この仕事は最も規模の大きい企画だったからである。べルニーニの指揮下で仕事に協力した美術家は三五人を数え、その中には当時ローマで名をなしていた美術家が多数ふくまれていた。だが「多くの手」によって制作されたにもかかわらず、この作品にはあらゆる細部にいたるまでべルニーニの神経が行きわたっている。

彼はデッサンによって助手たちに概念を会得させ、そのうえで細部を明らかにし、要所はモデルを作って仕事を進めた。このように助手を意のままに用いて自分自身の作品を作り出す能力において、べルニーニに比較しうる者はない。カテドラ・ぺトリはその最大の証拠といえよう。

たとえばプットーと天使が舞い飛ぶ「栄光グローリア」の装飾は、その全体も細部も美しさと緊張にあふれ、各地に無数に残るこの種のストゥッコ装飾をはるかに凌駕しているのである。またこのカテドラ・ペトリの制作には、バルダッキーノほどではなかったが多量のブロンズか必要であった。このため当局は、初めアムステルダムとヴェネツィアに、後にはトリエステとハンガリーにその材料を求めている。このブロンズの費用だけでなく、あらゆる費用が二度にわたる計画の拡大によって増大した。そのためこの作品の完成には、都合一〇万六〇〇〇スクーディ以上の巨額の費用がかかったのだが、こうした計画の変更によってべルニー二が思うとおりの作品を制作できたのは、彼に対する教皇の絶大な信頼のお陰だったといえる。

つまり柱廊とカテドラ・ペトリというニつの大事業は、べルニーニに対する教皇の全幅の信頼と、そして協力者たちを意のままに用いる彼の美術家としての、そして人間としての能力とが相まって可能だったと言えるのである。こうした大事業の遂行は、孤高の人ミケランジェロや常にパトロンと問題を起こしたボㇽロミーニには、決して真似のできないことであった。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P167-168
『カテドラ・ペトリ』上部の「栄光グローリア

「こうした大事業の遂行は、孤高の人ミケランジェロや常にパトロンと問題を起こしたボㇽロミーニには、決して真似のできないことであった」

これに尽きる。ベルニーニの人となりを考える上でこれは極めて重要な指摘だ。ベルニーニはチームを率いるリーダーとしての資質を具えていた。しかもパトロンや多くの部署ともうまく付き合う術まで持っていたのである。これは単なる阿諛追従だったりおべっか使いだったとかそういう次元をはるかに超えている。彼は機知に富み、コミュニケーション能力にも長けていたのであった。教皇や枢機卿たちは当時の最高レベルの教養人だ。そうした人物達とも対等に語り合う知性の持ち主でもあったのである。

つまり、レオナルド・ダ・ヴィンチとはまたタイプのことなる「万能の人」がこのベルニーニだったのだ。これには感嘆せずにはいられない。これほどの大天才がいたからこその「美の殿堂ローマ」なのだ。私達が見惚れてしまう美しいローマは彼あってこそなのである。

では、最後にサン・ピエトロ大聖堂内にあるアレクサンデル七世の墓とヨハネ・パウロ二世のお墓を紹介してこの記事を終えたいと思う。

アレクサンドル七世の墓~ベルニーニ第二の黄金期を支えた教皇の墓

「墓なのに宙に浮いている!」と初めて観た時は度肝を抜かれた作品。こちらはベルニーニ晩年の作品。1655年に即位し、1667年に亡くなったアレクサンデル七世。彼は『カテドラ・ペトリ』やサン・ピエトロ広場の制作を支えた最強のパトロンだ。そんな教皇の墓ということでベルニーニも力が入ったことだろう。制作は1671年から1678年ということで教皇が亡くなった後の作品。

色大理石を巧みに用いて布の質感を引き出すという、ベルニーニらしさを感じる作品だ。

ヨハネ・パウロ二世の墓

ヨハネ・パウロ二世は私が尊敬する宗教家の一人だ。

私がこの人物に心の底から敬意を持つようになったのはイェジ・ブアジンスキ著『クラクフからローマへ』という伝記がきっかけだった。

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私はこの本を読み、涙した。ヨハネ・パウロ二世のあまりに大きなスケールに心を打たれてしまったのである。

そのヨハネ・パウロ二世のお墓がこのサン・ピエトロ大聖堂にあるのである。実は今回のローマ滞在において私が最も心待ちにしていたのがヨハネ・パウロ二世のお墓参りだった。

ここで私が何を感じ、何を思ったかはあえて記さない。一生忘れることのできない一時を私はここで過ごした。

サン・ピエトロ大聖堂はやはり特別な場所だ。

何度来ても私は感動してしまう。そしてこの素晴らしい空間を生み出したのはやはりベルニーニなのだ。ベルニーニ詣でのハイライトとしてこの大聖堂はやはり欠かせない。ベルニーニの生み出した劇場的空間をぜひ多くの方にも感じて頂けたらと思う。

続く

主要参考図書はこちら↓

サン・ピエトロが立つかぎり: 私のローマ案内

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ベルニーニ: バロック美術の巨星 (歴史文化セレクション)

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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