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あの玄奘三蔵法師が学んだナーランダー大学へ~インドで私が最も感動した仏跡!

ナーランダー大学
目次

【インド・スリランカ仏跡紀行】(84)
あの玄奘三蔵が学んだナーランダー大学へ~インドで私が最も感動した仏跡!

ラージギル(王舎城)から車で30分ほどの距離にあるナーランダー大学。それが本日の目的地だ。

ナーランダー大学 Wikipediaより

ナーランダー大学・・・

皆さんはこの仏跡の名前を聞いたことがあるだろうか。

ブッダ誕生の地ルンビニーや、悟りの地ブッダガヤ、初転法輪のサールナート(鹿野園)などと比べると明らかにマイナーな遺跡である。

しかしこの遺跡こそ私がインドで最も感動した仏跡のひとつとなったのである。

ナーランダー大学は王舎城からも近い位置にあり、あのサーリプッタ(舎利弗)やモッガラーナ(目犍連)がこの周辺の村の出身だったと言われている。

また、ここは古くから学問の中心地として知られ、5世紀にはインドの学問の最先端を行く大学としての機能を果たすようになっていた。

そして私達日本人にとっても重要なのは、あの玄奘三蔵法師が天竺(インド)を目指したのもまさにここに来るためだったということだ。

玄奘(602-664)Wikipediaより

ここナーランダー大学には1500人以上の教授が常駐し、1万人ほどの学生が日夜勉学に励んでいたという。その研究水準は紛れもなく世界最高峰であり、当時の新思想である唯識なども研究されていた。まさにナーランダー大学は仏教研究のメッカであり、その名声は中国にも轟いていた。

玄奘はここで学ぶために命を賭けてインドへ旅立ったのだ。中国にいては知ることのできない仏教の奥義を知るべく国禁を犯してまで玄奘はインドへ向けて出発したのである。

そして玄奘は優れた教授陣や学友達と日々を過ごし、周囲も驚くほどの速度でその思想を吸収していった。そして満を持して帰国の途に就いたのであった。彼がインドから持ち帰った経典は650部を超え、さらに帰国後には驚異的な速度で翻訳を進めた。この大偉業は中国だけなく日本の仏教にも巨大な影響を与えることになった。

この玄奘の教えが基になっているのが法相宗という宗派で、日本では興福寺や薬師寺が有名である。

玄奘三蔵といえば『西遊記』のドラマの影響で「ガンダーラ」のイメージが浮かびがちだが、彼の目的地は学問の聖地ナーランダー大学だったのである。

玄奘三蔵

この玄奘の旅については講談社から出ている『玄奘三蔵』という本に詳しく書かれているのでぜひおすすめしたい。玄奘三蔵自身の著書としては有名な『大唐西域記』があるが、これは中国の皇帝からインドの地理書を書くよう求められて書いたのものなので驚くほど実務的な内容になっている。そのため読むのはかなり厳しい。なので玄奘の波乱万丈のインドの旅を知るには講談社の『玄奘三蔵』を強くおすすめする。

さて、前置きが長くなってしまったがいよいよこれからナーランダー大学を見ていく。

門をくぐり、かつて廊下であったであろう場所を通り抜けると広い敷地に出た。

これがナーランダー大学である。

入り口近くの僧院へ。すでにその巨大さがわかるだろう。

僧院中央の広い空間の周囲に個室が作られている。中央の広間にはお堂があり礼拝できるようになっていたと考えられている。

こちらがその個室。手前の穴は扉を設置するための穴だろうか。

建物の端には階段も残されていた。何階建ての建物だったのだろうか、この階段の遺構が妙に記憶に残っている。不思議な存在感があるのだ。存在しない上階へと続く階段にマグリット的な奇妙な雰囲気を感じたのである。

そして構内奥のひと際大きな遺構へと私は歩を進めた。

これはすごい・・・!想像をはるかに超える迫力だ。

実は私はここに来るまでナーランダー大学にそこまで期待してはいなかった。他の仏跡と比べてマイナーなこの遺跡については私もそこまでの関心はなかったのである。しかし、門をくぐってこの敷地に入った瞬間私は度肝を抜かれた。なんと見事な僧院群であろう。これは只事ではない。

このひとつひとつの仏龕(ぶつがん)に仏像が置かれていたという。往時は実に壮観な眺めであったことだろう。

排水設備もしっかり残っていた。

この巨大寺院には驚いた。こんな素晴らしい寺院が目の前にある中で学生たちは勉学に励んでいたのである。なんと羨ましい環境だろう!

この寺院の反対側にも巨大な寺院跡が残っている。ナーランダー大学の象徴とも言える建築だ。

レンガで作られた巨大な寺院

現在は立ち入り禁止だが、奥の方を見てみると今なお無事座っている仏像が見えた。

正面には頭部の欠損した仏像が。

背後に回ってみると、小さなストゥーパや装飾された巨大な塔を見ることができた。

塔の上部は破壊を免れたのか無事な仏像が多い。

横に回って木越しにみた塔も素晴らしかった。仏像がより近く大きく見える。

そしてここはナーランダー大学の図書館跡の入り口だ。

この右の壁の仏龕にも仏像があったことだろう。図書館の入り口で仏像が出迎えてくれるのである。仏教を学ぶ者にとってこれ以上ないくらいモチベージョンが上がることだろう。

図書館の廊下部分。右側は個室になっている。ここに大量の本が所蔵されていたそうだ。

図書館中央部分。かなり広い。ここで大勢が集まり講義や議論がなされていたのかもしれない。

ここにも途中で終わった階段がある。なんと、この図書館は9階建てだったそうだ。ここにありとあらゆる書物が集められ、学生達が研鑽の日々を送っていたのである。

図書館の個室の壁

だが、繁栄を極めていたナーランダー大学も12世紀末のイスラームの侵入により破壊され、貴重な書物も全て灰燼に帰してしまった。その炎は半年間燃え続けていたと言われている。この壁の黒ずみは書物の燃えた跡だとされている。

こうして世界有数の学問の聖地は歴史の闇に沈むことになった。他の仏跡と同じようにこのナーランダー大学も土に埋もれ忘れ去られてしまうことになったのだ。

つい先ほど見た巨大な寺院もこうして土に埋もれていたのだ。これはたしかに忘れ去られても仕方がない。この写真には私も度肝を抜かれた。

そこから手作業で発掘が進められ、土の中からこのような遺跡が顔を出したのだ。もはや信じられない。なぜこんな巨大な遺跡が地面に完全に埋もれてしまうのか。理解の範疇を超えている。

一番最初に見た僧院もこのように埋まっていたのだ。この写真を見ればかつてここは何もない場所だったというのがよくわかる。本当にこの巨大な仏教遺跡全てが土に埋まっていたのだ。アンビリーバブル。

こうして手作業で発掘が進められたのだ。当時の写真を展示してくれているのは非常にありがたい。私も大興奮であった。

このナーランダー大学構内を歩いていて、私はつくづく思った。「ここで学んでいた学僧達は本当に幸せだっただろう」と。

私も苦労して大学に受かって初めてそのキャンパスを歩いた時、胸が躍るような思いだった。今でも母校を訪れたらその気持ちが蘇ってくる。

だが玄奘はその何万倍も苦労してここまでやって来た。国禁を犯し、命を賭けてここまでやって来たのだ。そして卓越した教授陣や優れた学友達と共に研鑽の日々を過ごしたことだろう。玄奘にとってなんと幸せな時間だったろうか!

ナーランダー大学にはロマンがある。私も学生時代の学びの日々が宝物だ。特に京都で過ごした仏教漬けの日々は私の美しい思い出となっている。ただひたすらにがむしゃらに学ぶことができた日々。あの幸福な時間があったからこそ今の私がある。

ナーランダー大学はそんな私の熱い志を再び思い出させてくれるような、そんなエネルギーがある場所だった。

インドの仏跡でどこに一番感動したかと聞かれたら私は迷わずここナーランダー大学と答えるだろう。それほど素晴らしい場所であった。仏跡旅行を計画されている方は他の場所に行く時間を割いてでもここに来るべきだ。それだけの価値が間違いなくある。

ぜひこのロマン溢れる仏跡を訪ねてみてはいかがだろうか。

主な参考図書はこちら↓

玄奘三蔵 (講談社学術文庫 1334)

玄奘三蔵 (講談社学術文庫 1334)

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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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