⒆仏教教団の急拡大~三迦葉、舎利弗、目犍連など優れた弟子たちが次々にブッダのもとへ
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仏教教団の急拡大~三迦葉、舎利弗、目犍連など優れた弟子たちが次々にブッダのもとへ
前回の記事「⒅ブッダの教えの何が革新的だったのか~当時のインドの宗教事情と照らし合わせてざっくり解説」では、ブッダの教えが当時のインド宗教界においていかに革新的なことだったかをお話ししました。
そして上の記事でお話ししましたようにサールナートでの「初転法輪」によって仏教教団が生まれることになりましたが、ここからブッダの快進撃が始まります。
今回の記事ではそんなブッダ教団の急拡大についてざっくりとお話ししていきます。
大商人(長者)の息子ヤサとその仲間たちの出家
サールナートでの初転法輪を終えたブッダでありましたが、ブッダはしばらくその地に滞在し五人の仲間たちと修行の日々を過ごしていました。
そんなある日、彼の近くを偶然通りかかった若者がいました。彼は「煩わしい、煩わしい・・・」と独り言を呟き、暗い顔をしていました。そんな姿を見たブッダはその青年に「絶対の安らぎの中に災いはない。来たれ。至福を得よ」と語りかけ、教えを説きました。人生に悩んでいたこの青年はブッダの教えに感動し、すぐさま出家の意思を固めました。
しかし事はそう簡単には進みません。実はこの青年、バラナシの大商人(長者)の息子であり、家出をしてとぼとぼ歩いていたところでブッダと出会ったのでした。彼の名はヤサ。彼も若き日のブッダと同じように何不自由ない生活を送っていたのですが、その虚しさに鬱々としていました。そんな彼がもうどうにも耐えられずに飛び出してここへたどり着いたのです。
そんな息子の出奔に両親は大激怒です。それは当然ですよね。カンカンになってブッダの下にやって来ますがあら不思議。ブッダの素晴らしさに心打たれてかえって彼の在家信者になってしまったのでした。
そしてこのヤサの出家に刺激され、彼の友人たちも出家の運びとなりました。ヤサを入れればその数総勢55名!こうして資産家の若者たちが一挙にブッダ教団に加入したのでありました。
さて、このヤサの出家には注目すべき点がいくつかあります。まず、彼らが沙門のような修行者ではなく一般の生活を送っていた人だったという点です。つまり、ブッダの教えはすでにして一般の人々への希求力を持っていたということになります。
また、これも大事なのですがこのヤサの出家がバラナシで行われたという点です。「⑾なぜ仏教がインドで急速に広まったのか~バラモン教から距離を置く大国の誕生と新興商人の勃興」の記事でもお話ししましたが、ガンジス川沿いの街バラナシは商業の中心地で、ここには多数の新興商人が生まれていました。そして彼らは旧来のバラモン教ではなく、自分たち商人の存在を肯定してくれる新たな思想を求めていました。
そうです。だからこそヤサの両親はブッダの教えを受け入れ、在家信者となることを選ぶことができたのです。仏教といえば「欲を離れることを目指すからお金を忌避する」というイメージがあるかもしれませんが実は違います。煩悩に執着することを咎めるのであってお金自体は否定しません。むしろ健全な経済を奨励し、実直に励むことで大いに富むとすら勧めています。このことは中村元選集第18巻『原始仏教の社会思想』で詳しく説かれていますので興味のある方はぜひご参照ください。
「いや、でも商売の跡取り息子を取られて親としては困るのではないか?」
そう、たしかにそうなのです。これは私も思ったのです。ですが、もし彼らに弟がいたらどうでしょうか。これならその弟が家業を継げばよいので問題なしです。むしろ、長男がブッダ教団に出家したということはその家のステータスにもなります。後にブッダ教団はマガダ国やコーサラ国などの大国の支援も受けることになります。それほどの教団の主要メンバーとなれるならこれは両親としても誇らしいことです。そして先程もお話ししましたが、新興商人たちにとっても新たな思想をもたらしたブッダは好感の持てる存在です。これはビジネスをする上でも決して悪い話ではないのです。
というわけで、ヤサの出家はブッダ教団の拡大に非常に大きな意味を持つことになったと言うことができるでしょう。
三カッサパ(迦葉)の帰依~当時の強力なバラモン三兄弟がそろってブッダの教団に
バラナシ近郊で過ごしていたブッダでしたがいよいよ布教の旅へと出かけます。
彼が最初に向かったのはブッダがかつて修行をしていたウルヴェーラーです。
ブッダがなぜこの地にやって来たのかはわかっていませんが、かつてブッダもここで長きにわたる修行を行っていました。
そしてこのウルヴェーラーはガヤという街からも近く、この街はバラモン教の聖地でもありました。よってこの地域には多くのバラモンや修行者、思想家が集まっていたとされています。
そして重要なのはこの地域にウルヴェーラー・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパという3人の行者がいたという点です。彼らはバラモン教の火の儀礼のスペシャリストで多くの信者を持つ一大勢力でした。
この3人は実の兄弟で、ウルヴェーラー・カッサパはウルヴェーラーにいるカッサパ、ナディー・カッサパはネーランジャラー川にいるカッサパ、ガヤー・カッサパはガヤにいるカッサパという意味になります。
ブッダはその彼らと勝負をすることになりました。
もちろん、挑戦者はブッダです。彼はまだ名も知れていない小さな教団の開祖に過ぎません。勝負はカッサパの土俵で行われることになりました。
その勝負の内容はというと、超能力(神通力)の戦いだったと多くの仏典で説かれています。カッサパは火の行者です。そのため様々な現象を引き起こすことができたのでしょう。この辺りは神話的になるので具体的には言えませんが、ブッダはその超能力の勝負に勝利し、カッサパ達はブッダに帰依することになります。
彼らはブッダの力を認め、その教えに深く感銘を受けることになりました。そしてカッサパ三兄弟は彼らの弟子を引き連れブッダ教団への加入を決めます。こうして一気に千人の弟子がブッダ教団に合流することになりました。
この段階でブッダ教団は千人以上の大所帯となり、一躍東インドにおける主要教団の一つへと躍り出たのでありました。
六師外道サンジャヤの弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)の改宗
こうして一躍巨大教団へと成長した仏教教団ですが、ここでさらに大きな追い風が吹くことになります。
それがサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)の参入でした。
彼らはマガダ国を中心に活動していたサンジャヤの教団の高弟でした。サンジャヤといえば「⒄ブッダの強力なライバル「六師外道」とは~バラモン教を否定し新たな思想を提唱したインドの自由思想家たちの存在」の記事でお話しした六師外道の一人です。
サンジャヤは懐疑論を説いた思想家として有名で多くの弟子を抱えていました。その高弟としてサーリプッタとモッガラーナは日々修行していたのでした。
しかしある日、サーリプッタはマガダ国の首都王舎城で一人の托鉢行者を見ることになります。その行者のたたずまいは美しく、精神的な香りをまとっていました。「これは只者ではない。この男の師匠は何者なのだろうか、どんな教えを説いているのだろうか」。興味津々のサーリプッタはこの修行者に問いかけます。そしてそこで出てきた答えがブッダの存在だったのでした。
仏典によるとこの修行者はブッダの最初の仲間である五比丘の一人アッサジだったと伝えられています。それなら納得。彼はブッダと教団開始時から時を過ごした優秀な弟子です。その立ち振る舞い、オーラは圧倒的なものがあったことでしょう。そしてそれを瞬時に見抜いたサーリプッタもさすがの一言。圧倒的人物同士だからこそ通ずるものがあったのではないでしょうか。
こうしてブッダの存在を知ったサーリプッタは相棒のモッガラーナへこの驚くべき托鉢行者の話を伝えます。そしてモッガラーナも同じくアッサジから教えを受け、ブッダ教団への加入を決めます。
この決断は師匠のサンジャヤを激怒させました。それもそのはず、サーリプッタとモッガラーナは後に仏教教団の中核となるほどの逸材です。彼らはサンジャヤ教団の中でも指導的な立場にいたため、彼らの離脱はサンジャヤにとって致命的でした。そして結局サーリプッタとモッガラーナの二人だけでなく、彼らを慕う250人の弟子たちも一緒にブッダ教団に加入します。この仕打ちにサンジャヤは「熱血を吐いた」と伝えられています。
まとめ
ブッダの初転法輪から間もなく、ブッダ教団は恐るべきスピードで拡大していくことになりました。
この急拡大はここまで見てきたように、教団のトップや高弟がブッダ教団に加入することでそのまま大多数の弟子を吸収するという形が取られたことによるものでした。
ただ、一見快進撃にも見えるこの急拡大ではありますが実はいくつか問題もはらんでいました。
まず、修行者が増えたことでその質に差が出てくることになります。ブッダの最初の仲間たる五比丘やカッサパ三兄弟、サーリプッタやモッガラーナはたしかにずば抜けて優秀です。しかし他の1250人の弟子たちはどうでしょうか。もちろん、ブッダ教団の中で良き日々を送っていたことは間違いないでしょうが、やはりその志や能力の面で劣ったものが出てくることでしょう。
そうなってくるとブッダ教団にとって好ましくない行動に走る者も出てきます。そこでそうした行動を戒めるために戒律というものが出来てきます。つまり、戒律はブッダの教えに最初からあったのではなく、必要に駆られて次々と定められていったものになります。
また、これに付随して教団の拡大に伴ってそれ相応の組織化も必要になってきます。ブッダと五人の仲間でこじんまり修行していた時代とはもう決定的には違うのです。大きくなったら大きくなったなりの事務的な組織化が必要です。さらに教団内の人数が増えたことでブッダがひとりひとり直接指導することが難しくなります。ではどのように教えていくのかという修行体系も策定されていきます。ここにブッダ教団の拡大と後の世界的な広がりの布石があります。
さて、何はともあれこうしてブッダ教団は急拡大を果たすことになりました。
次の記事ではブッダとマガダ国王ビンビサーラとの再会とこの国におけるブッダについてお話ししていきます。このビンビサーラ王との再会によってブッダ教団はさらなる展開を迎えます。
次の記事はこちら
※この連載で直接参考にしたのは主に、
中村元『ゴータマ・ブッダ』
梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』
平川彰『ブッダの生涯 『仏所行讃』を読む』
という参考書になります。
※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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