阿武野勝彦『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』あらすじと感想~著者の「ものづくり」への思いにぐっと来た名著
阿武野勝彦『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』概要と感想~著者の「ものづくり」への思いにぐっと来た名著
今回ご紹介するのは2021年に平凡社より発行された阿武野勝彦著『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』です。
早速この本について見ていきましょう。
世の中には理解不能な現実だってある。得体の知れないはるか外へ──。
『さよならテレビ』をはじめ、『人生フルーツ』『ヤクザと憲法』『ホームレス理事長』『神宮希林』など話題作を世に送り出してきたテレビ界の異才が「未来の表現者」へおくる体験的ドキュメンタリー論。
視聴率、収入と支出、競合他社とのシェア争いといった数字に揺さぶられながら、多メディア化によってさらに進むテレビの地盤沈下、砂漠化。そんな悪戦苦闘のなかで辿り着いたテレビ発のドキュメンタリー全国上映への道。
かつて、お茶の間の人気者だったテレビはなぜつまらなくなったのか。表現におけるタブーとは、カメラを向ける対象との距離をいかにとるか、ドキュメンタリーにおける演出とは……。全メディア人必読の書。〈魅力ある番組が作れなければ、地上波テレビは終焉する。必要なのは、作れる人材を、作る部署に最大動員して、「やっぱりテレビだ」と思い知らせることだ。どこのチャンネルでもやっている井戸端会議のようなワイドショーやバラエティで各局が消耗戦をしていては、テレビの未来はない。
子どものような気持ちで挑戦し、迷い、苦しみ、もがき、そして腹が捩じ切れるほど必死になって番組制作に熱量を込め続けるしかない。「テレビの神様」は、そういう作り手たちの前に現れるのではないか。「テレビの神様」は、組織の前に現れるのではなく、作り手それぞれの前に現れる。テレビマンの多くが、「テレビの神様」を信じるようになった時、「やっぱり、テレビは面白い」、人々はそう思うのかもしれない〉(エピローグより)阿武野勝彦:1959年静岡県伊東市生まれ。81年同志社大学文学部卒業後、東海テレビに入社。アナウンサー、ディレクター、岐阜駐在記者、報道局専門局長などを経て、現在はゼネラル・プロデューサー。2011年の『平成ジレンマ』以降、テレビドキュメンタリーの劇場上映を始め、『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』『さよならテレビ』などをヒットさせる。2018年、一連の「東海テレビドキュメンタリー劇場」が菊池寛賞を受賞。ほかに放送人グランプリ、日本記者クラブ賞、芸術選奨文部科学大臣賞、放送文化基金賞個人賞など受賞多数。
Amazon商品紹介ページより
私が本書を手に取ったのは、メディア業界に勤める友人からこの本を薦められたのがきっかけでした。現場の最前線にいる彼が面白いと薦める本ならこれは間違いない。そう思うと居ても立ってもいられず私は書店へ向かったのでした。
そして読み始めてみるとすぐに納得。ものすごい本でした。
上の本紹介にもありますように、著者の阿武野勝彦氏は東海テレビのアナウンサー、ディレクター、プロデューサーを務めたまさにテレビマン。
本書はそんなテレビ業界を最前線で見続けてきた著者がその問題点やドキュメンタリー制作への思いを語った作品になります。
さて、東海テレビといえば数年前に「セシウムさん事件」があったことが皆さんの記憶にもあるのではないでしょうか。本書では第一章からこの事件に絡めて語られることになります。あの事件はなぜ起こったのか、その背景で何が起きていたのかということをここで私たちは知ることになります。著者によればあのような事件は起こるべくして起こったと、それほどテレビ業界の内情が悲惨なことになっていたのでした。
そんな中で著者はテレビマンとしてドキュメンタリー制作にとことん真摯に向き合います。テレビとは何なのか、何のためにあるのか、報道とはどうあるべきなのか、それをドキュメンタリー制作を通して表現し続けます。
上の本紹介にありますように阿武野勝彦さんは『さよならテレビ』、『人生フルーツ』、『ヤクザと憲法』、『神宮希林』など多くのドキュメンタリーを制作し、高い評価を受けています。この本ではそんなドキュメンタリー制作の裏側やこれらの作品に対する思いを聞くことができます。
昨今、SNSの台頭によって視聴率が低下し、さらには「マスゴミ」とまで揶揄されるようになったテレビ。その信頼性はかつてと比べると目も当てられないのが現状ではないでしょうか。そんな「目を背けたくなるような現実」を直視し、なぜこうなってしまったのか、この先どうしたらいいのだろうかを著者は真っすぐに語ります。
この本を読んでいてこれは「テレビ業界」だけではなく、日本のどの業界に言えることなのではないかと思ってしまいました。もちろん、私のいる「お寺業界」も・・・
日本の構造的な病がここにある。この本を読んでそれを強く感じました。テレビやマスコミという場を通して著者は問題点を語りますが、それに収まらない大きな問いかけがこの本には溢れています。
そして著者がお寺の生まれだったということにも私は驚きました。お兄さんが跡を継いでいるとのことで阿武野さんはこうしてお寺以外の仕事をしているわけですが、お寺生まれならではの苦労もこの本では語られます。また、お寺だったからこそ学べたことが今も生きているということもお話ししていました。私もお寺に生まれ育った人間として阿武野さんの仰られることにはとても共感しました。大変なこともありますがやはりお寺ならではの感性というものがあるのです。それがメディアの最前線でも生きるんだということに私は大きな刺激を受けたのでありました。
紹介したい言葉が山ほどあるのですがその中でも特に印象に残った箇所をここで紹介したいと思います。
自分の体験が、ドキュメンタリーのアクセルにも、ブレーキにもなる。すべては卑近な出来事かもしれないが、製作者を支えるものは、その日常にある。
平凡社、阿武野勝彦『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』P85
これは『ヤクザと憲法』というドキュメンタリーについて書かれた章の言葉です。幼い頃、お寺でヤクザの親分の葬式があったというエピソードから、30代初めの駐在記者時代の露天商親分一家の話へと進んでいくまとめとして上の言葉が語られました。
この「製作者を支えるものは、その日常にある」という言葉。これを目にして私は「あっ」と思いました。
と言いますのも私は最近シェイクスピアの流れから蜷川幸雄さんや山﨑努さんの本を読んでいて、まさにこの「日常を重んじるという姿勢」、これを山﨑さんが著書『俳優のノート』の中で述べていたのです。
当初から目指していた演技のダイナミズムが実現しつつあるように思う。感情のアクロバット。日常ではあり得ない感情や意識の飛躍を楽しむのだ。しかし、基本にあるのはあくまでも日常の感情だ。日常の感情を煮つめ、圧縮し拡大したものが舞台上の感情なのである。
従来の所謂新劇の演技といわれる代物は、実に空疎でリアリティがなかった。タモリがよくテレビのコントで新劇俳優の真似をしていたが、あの嘘っぱちのパターン演技は今やもうパロディになってしまうのだ。
何故あんな空疎な演技になってしまったのか。それは、演技を作り上げる材料はあくで日常にある、ということを忘れてしまったからだと思う。演技の修練は舞台上では出来ないのだ。優れた演技や演出を見て、技術を学ぼうとしても駄目なのだ。その演技は演出はその人独自のものなのである。大切なものは自分の日常にある。
俳優たちは熱心に稽古をし、舞台に立つ。そしてせっせと劇場に通い他人の芝居を見て勉強する。戯曲を持ち歩く。芝居芝居。芝居のことしか頭にない。いつも演劇に接していないと俳優でなくなってしまうという不安があるのだろう。芝居に係わっている時間以外の日常の時間は全て不本意な時間、というわけだ。
映画やテレビの撮影現場で芝居の話ばかりしている新劇俳優たちがよくいる。あなた『桜の園』みた?うんみたみた、あれは演出が一寸甘かったね、俺、今度べケットやろうと思ってるんだよ。あら楽しみ。うんざりしてしまう。こういう連中に限って、テレビの脚本を読み解くことも出来ず、とんちんかんな演技をする。いや、演技ではない。演技もどきだ。映画やテレビの仕事は生活費を稼ぐためで、不本意な時間、ということなのだろう。
撮影現場で芝居の話などやめるがいい。目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。彼らはカメラの前で精彩がない。疲れきっている。不本意な時間が苦痛なのだ。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P332-333
先程述べましたように、私は最近シェイクスピア演劇を学ぶ流れで蜷川幸雄さんの本を読むことになりました。その蜷川さんが語ることとここで山﨑さんが語ることが重なるように私には思えました。
蜷川さんも俳優に自分をさらけ出し、単なる口先だけの演技だけでなくもっと先のことを厳しく要求した演出家でした。頭でっかちで言葉、言葉、言葉になった演劇人に厳しい言葉を投げかけています。山﨑さんが蜷川さんをどう思うかはこの本で書かれていませんので私には実際のところはわかりませんが、演劇をとことん追求した2人の言葉に私はやはり「超一流の職人の共通点」と言えるようなものを感じたのでありました。
また、最後の「撮影現場で芝居の話などやめるがいい。目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。彼らはカメラの前で精彩がない。疲れきっている。不本意な時間が苦痛なのだ。」という言葉は私も肝に銘じたいと思います。別の箇所ではこのことをさらに言い換えて、「やはり、人は皆、己れの身の丈にあった感動を持つべきなのだ。読みかじったり聞きかじったりした知識ではなく、自分の日常の中に劇のエキスはある。我々はそのことをもっと信じなければならない。日常を見据えること。(336頁)」と述べています。あぁ、なんと重い言葉か・・・
この山﨑さんの言葉を通して感じたことと、阿武野さんがここで「製作者を支えるものは、その日常にある」と仰られたことが私の中でビタッと重なったのでした。
もちろん、山﨑さんは演者で、阿武野さんはディレクター、プロデューサー側と、その立場は違います。ですが「良い舞台」、「良い作品」を作り上げるという「ものづくり」の精神は共通しているのではないでしょうか。
『さよならテレビ』ではどんどん悪化していく「ものづくりの環境」についてこれでもかと見ていくことになります。ですがそんな中でも著者は戦い続けていたのでした。
私も今、浄土真宗の開祖親鸞聖人の歴史小説の執筆を続けています。構想開始からすでに4年、完成までには少なくともあと2年はかかります。私が「親鸞とドストエフスキー」をテーマに学び続けているのもまさにここに理由があります。
私も今「ものづくり」をしています。そんな私にとってメディアという「表現の世界」で真摯に、そしてストイックに「ものづくり」に打ち込んでいる方の声を聴けたのは本当にありがたい体験となりました。
今このタイミングでこの本と出会えたのも何かの縁のように感じます。紹介してくれた友人には大感謝です。
メディアに関心のある方、そして「ものづくり」に携わる方には特におすすめしたい名著です。そして人を大切にしない会社システム、組織の在り方についてもその根源を学べる作品です。また阿武野さんと多くの仕事を共にした樹木希林さんについてもたくさんのことが書かれていて、その巨大な人間的魅力も知ることができます。
私も「ものづくり」に生きる人間として進んでいきたい。いや、必ずやるんだという強い気持ちを改めて胸に焼き付けた作品となりました。ぜひ皆さんも手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「阿武野勝彦『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』~著者の「ものづくり」への思いにぐっと来た名著」でした。
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さよならテレビ: ドキュメンタリーを撮るということ (976;976) (平凡社新書 976)
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