シェイクスピア『シンベリン』あらすじと感想~愛は試すべからず。シェイクスピア後期の波乱万丈のロマンス劇
シェイクスピア『シンベリン』あらすじと感想~愛は試すべからず。シェイクスピア後期の波乱万丈のロマンス劇
今回ご紹介するのは1608年から10年頃にシェイクスピアによって書かれたとされる『シンベリン』です。私が読んだのは筑摩書房、松岡和子訳です。
早速この本について見ていきましょう。
ブリテン王シンベリンの娘イノジェンは、イタリア人ヤーキモーの罠にはまり、不貞を疑われる。嫉妬に狂う夫ポステュマスの殺意を知らぬまま、イノジェンは男装してウェールズへ行くが、薬で仮死状態になった彼女の傍らにはいつしか夫の首のない死体が―。悲劇と喜劇が入り混じり、波瀾万丈のなか、最後は赦しと幸福な結末を迎える「ロマンス劇」の傑作。
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この作品は『リア王』や『マクベス』など重厚な悲劇作品を経てシェイクスピアが辿り着いた「ロマンス劇時代」の作品です。
このロマンス劇とはいかなるものか、シェイクスピアの最初のロマンス劇『ペリクリーズ』の巻末解説では次のように述べられています。
シェイクスピアのロマンス劇という言い方をするが、ロマンスといっても、恋愛ものではない。神様のお告げがあったり、死んだはずの人が生きかえったりする伝奇的雰囲気に満ちた作品という意味だ。『ぺリクリーズ』を皮切りにして、『冬物語』、『シンぺリン』、『テンぺスト』の四つの作品が、普通、このジャンルに入る。シェイクスピアは、喜劇、最後の最後には、お伽噺のようなロマンス劇によって、そのキャリアを締めくくったのである。
筑摩書房、シェイクスピア、松岡和子訳『ペリクリーズ』P198
「シェイクスピアのロマンス劇という言い方をするが、ロマンスといっても、恋愛ものではない。神様のお告げがあったり、死んだはずの人が生きかえったりする伝奇的雰囲気に満ちた作品という意味だ」
なるほど、私たちが普通想像してしまう「ロマンス」とは違った雰囲気があるのがシェイクスピアの「ロマンス劇」なのですね。
このことについて訳者解説では次のようにも語られていました。
『ペリクリーズ』に始まるシェイクスピアのロマンス劇は、悪く言えば筋の運びが荒唐無稽で現実離れしている。良く言えば素朴な御伽噺ふうで、鄙びたなつかしさをそなえている。神託や魔法など超自然の要素が入るのも特徴のひとつ。
『ぺリクリーズ』は勧善懲悪の芝居でもある。今の世の中、悪いヤツほどいい目を見る傾きがある。だからこそ、私たちに必要なのはこういう素朴で真っ直ぐな物語のはず。劇冒頭のガワーの口上にもあるとおり、まさに「良きもの、古きこそ良し」である。私たちの最も強い願いは、死んだ愛する者の蘇りだろう。『ぺリクリーズ』ではその願いが叶えられる。シェイクスピアの手にかかると、荒唐無稽やご都合主義が奇跡に転じるのだ。『ぺリクリーズ』がもっと読まれ、もっとたびたび舞台にかかることを願う所以である。
筑摩書房、シェイクスピア、松岡和子訳『ペリクリーズ』P194
たしかに『ペリクリーズ』を読んでみると、この松岡さんの言葉通り、綺麗な勧善懲悪です。そして主人公たちが苦難の道を歩み、もうだめかというところで見事な大団円。これは爽快です。
今作『シンベリン』もこのような勧善懲悪、一発逆転の大団円が物語の基本線になります。
ただ『ペリクリーズ』と違うのは主人公の苦難の始まりがほとんど自業自得だということにあります。これは『冬物語』もそうなのですが、主人公のポステュマスが妻の不貞を疑い、嫉妬に狂うところから破滅が始まっていきます。
しかもその疑いのきっかけが「妻の貞節を賭けたこと」にあるのです。
ポステュマスは妻イノジェンを残し、ブリテンからイタリアに来ていました。そして当地で話の流れから「自分の妻ほど美しく、徳高く、聡明で、貞淑で忠実で、誘惑に負けない素晴らしい女性はいない」と豪語します。それに噛みついたヤーキモーという男が「そんなに素晴らしい女だというのか、なら試してやろうではないか」と持ち掛けます。
売り言葉に買い言葉。ポステュマスはヤーキモーの挑発に乗り、「では試してみるがいい」と賭けに応じてしまいます。そしてヤーキモーは早速イノジェンのもとに向かうのでありました。
自信満々だったヤーキモーでしたが想像よりはるかにイノジェンは聡明で貞淑、隙がありません。しかし彼女は夫ポステュマスの親書を携えてきたヤーキモーを信用してしまいます。それを利用しヤーキモーは策略を弄し、深夜こっそり部屋に侵入し、密通せぬまま密通の証拠を入手します。
それを持ち帰りポステュマスに突きつけるヤーキモー。
まさかの事態にポステュマスは激昂します。嫉妬、そして裏切りへの怒りで彼は完全に盲目状態です。ここから波乱万丈の物語が展開していくことになります。
まぁ、上でロマンス劇とは何かということをお話しした通り、最後はハッピーエンドでめでたしめでたしです。ですのである意味安心して読むことができるのですが何でしょう、このもやもやは・・・
正直、私はポステュマスの賭けがどうしても気になってしまうのでした。
同じロマンス劇『冬物語』も突然の嫉妬の狂気から始まる物語なのですが、『シンベリン』は自分で妻を「賭けの場に差し出した」というのがその違いです。
ポステュマスが自分の妻を信じるのはわかります。それほどいい妻なのはわかります。
ですがそれを誇り、試してしまったところに彼の悲劇があるのでした。
純粋な勝負だったらヤーキモーはすぐにイノジェンに撃退されてしまったのですからポステュマスの勝ちです。
ですが相手がそれで引き下がらない男だったら?悪意あるずる賢い男だったら?
案の定、悪意ある策略でヤーキモーは密通せずしてその証拠を持って帰ってきました。
「愛を試す」「信を試す」
こうした物語は世界中様々なところで語られます。さらに言えば私たちの日常でもこうしたことは行われていることでしょう。恋人が本当に自分を愛していてくれているのかを大なり小なりの方法で試すというのはよくあることではないでしょうか。
ですが、このヤーキモーのように本気で悪意を持って攻めてきた場合、抗えない場合もあります。嘘や謀略で攻略しようとしてきた場合、それに勝つのは非常に難しい。イノジェンに関しては全く無実なのに有罪にされてしまいました。ポステュマスも激昂してしまいイノジェンの言葉に耳を傾けようともしません。これは「妻を試したが故の悲劇」です。そもそも愛を試し、賭けてしまったところに悲劇の種があったのです。
まあ、物語としては波乱万丈、ハラハラの連続でここから面白い展開生まれてくるのでシェイクスピア的にはホクホク顔だったことでしょう。
ですがそこから私たちが教訓を学ぶとしたら「愛は試すべからず」ということでしょうか。「私のことを好きなら〇〇してくれるに違いない。もしそうじゃないなら・・・」。いかがでしょうか、こう言い換えてみるとかなり身近な問題に感じられてくるのではないでしょうか。
ポステュマスの「賭け」が私にとってあまりにインパクトがあったもので、読後もそのことばかり考えてしまいました。『シンベリン』は「運命の打撃による悲劇」というより「性格、行為による悲劇」のように私には思えました。だからこそポステュマスの「悪手」に私はいつまでも引っ張られてしまったのかもしれません。
冒頭の本紹介で、
「ブリテン王シンベリンの娘イノジェンは、イタリア人ヤーキモーの罠にはまり、不貞を疑われる。嫉妬に狂う夫ポステュマスの殺意を知らぬまま、イノジェンは男装してウェールズへ行くが、薬で仮死状態になった彼女の傍らにはいつしか夫の首のない死体が―。悲劇と喜劇が入り混じり、波瀾万丈のなか、最後は赦しと幸福な結末を迎える「ロマンス劇」の傑作。」
とありましたように、この作品はかなり動きのある作品です。「薬で仮死状態になったイノジェンの傍らには夫の首のない死体が」という言葉の情報過多!(笑)「ロマンス劇の傑作」と評されるだけのジェットコースター作品です。
『ハムレット』や『リア王』などのメジャーどころとはまた違った魅力がある作品です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「シェイクスピア『シンベリン』あらすじと感想~愛は試すべからず。シェイクスピア後期の波乱万丈のロマンス劇」でした。
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