シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』あらすじと感想~意地悪で頑固な長女と伊達男の大舌戦!言葉、言葉、言葉の喜劇

名作の宝庫・シェイクスピア

シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』あらすじと感想~意地悪で頑固な長女と伊達男の大舌戦!言葉、言葉、言葉の喜劇

今回ご紹介するのは年頃にシェイクスピアによって書かれた『じゃじゃ馬ならし』です。私が読んだのは新潮社、福田恆存訳のKindle版です。

早速この本について見ていきましょう。

美人だが、手におえないじゃじゃ馬むすめカタリーナが、男らしいペトルーキオーの機知と勇気にかかって、ついに可愛い世話女房に変身──。陽気な恋のかけひきを展開する『じゃじゃ馬ならし』。青年貴族クローディオーと知事の娘ヒーローのめでたい婚礼の前夜、彼女に横恋慕するドン・ジョンの奸計(かんけい)から大騒動がまきおこる『空騒ぎ』。明るい情熱と機知の横溢する喜劇の傑作2編を収録。

Amazon商品紹介ページより

この作品はシェイクスピア初期の喜劇作品です。上のあらすじにもありますようにこの作品は「じゃじゃ馬むすめカタリーナ」が機知に富んだ伊達男ペトルーキオーによってすっかり優しい別人に様変わりするというストーリーです。

この作品について訳者解題では次のように述べられています。

『じゃじゃ馬ならし』はもちろんシェイクスピアの傑作ではない。一五九四年前と言えば習作時代である。一五九〇年前後に故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンから始めてロンドンに出て来た彼は劇場の前で客の馬を預る下足をしていたとも言われる。その彼の最初の作品は史劇『へンリー六世』三部作であり、続いて喜劇『間違いつづき』史劇『リチャード三世』悲劇『タイタス・アンドロニカス』そしてこの『じゃじゃ馬ならし』を書いたのである。他のエリザベス朝の劇作家も大抵そうであるが、当時のシェイクスピアは悲劇と喜劇とを問わず、イタリーの影響を強く受けていた。『じゃじゃ馬ならし』の種本として一部にアリオストが使われたということばかりではない。喜劇の概念、あるいは笑いの質が、全くイタリーの喜劇、というよりは笑劇、茶番劇のそれを出なかったのである。この作品は彼のそういう時代の代表作である。

それにもかかわらず、笑劇に学び笑劇を書いてもなお笑劇にとどまらなかったところに、拭うべからざるシェイクスピアの刻印がある。一口に言えば、それは彼の豊かな人間味である。それが芸術的にも倫理的にも危い橋を渡るこの作品を辛うじて救っている。

Kindle版、新潮社、『じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ』、シェイクスピア、福田恆存訳、位置No2266-2276

いきなり「『じゃじゃ馬ならし』はもちろんシェイクスピアの傑作ではない」という解説から始まるとびっくりしますよね。私も最初は驚きました。ですがそう言われてしまうのは当然でこの作品が書かれたのはシェイクスピアの習作時代。『ハムレット』『リア王』などの傑作劇が生まれるのはまだ先のことです。

ですがそれでもやはりシェイクスピア。この作品、面白いです。

上の解説にも述べられているように、すでにしてシェイクスピアは何かが違います。

この後も訳者はこの作品の魅力を語っていくのですが長くなるのでここではすべて引用はできませんが、初期作品にしてシェイクスピアここにありというその片鱗を見ることができます。

さて、この物語についてですが「じゃじゃ馬」ことカテリーナは登場人物から次のように言われる問題児でありました。

金はたんまりある。それに若くて美人だ。どこへ出しても恥ずかしくないだけの教育も受けている。ただ欠点がひとつあるのだ。いや、申し分のない欠点さ、それが。というのは—この女、手に負えない意地悪の、ねじけもの、強情のなんの、てんで度を越しているのだ。僕だったら、どんなに困っていようと、目のまえに金山をさしだされようと、あんな女と結婚する気にはとうていなれないね。

Kindle版、新潮社、『じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ』、シェイクスピア、福田恆存訳、位置No496

とんでもない言われようですよね。ですが実際に私たちはこの物語を通して彼女の意地悪ぶりや、罵詈雑言を浴びせるその姿を見せられるわけです。たしかにこれでは結婚したくないのもわかるかも・・・

ですがそんな彼女も好きでそんな人間になったわけではないこともほのめかされます。

彼女には妹がいて、その妹がとにかく完璧なのです。姉よりも美人でしかも性格もよし。教養もあって、非の打ちどころがないその娘を父親は溺愛していました。それこそ秘蔵っ子です。この妹を父親はとにかく大切にしていたのでした。そんな父に対してカタリーナはこのように言うのです。

あら、お父様はあたしの邪魔をなさるのですか?そうなのね、ええ、わかりました、あの子はお父様の御秘蔵っ子。いずれ、いいお婿さんをあてがってやらなければなりませんね。その結婚式の日には、あたしは裸足で踊らなくてはならないの。そして地獄へ猿をひいて行かなくてはならないのだ、あの子ばかりおかわいがりになるから……もう何にも言わないで。ひとり小さくなって泣いているからいいの、いつかこのお返しができるまで。(部屋をとびだして行く)

Kindle版、新潮社、『じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ』、シェイクスピア、福田恆存訳、位置No666

シェイクスピアのこういうところですよね。彼はこういうちょっとした言葉を挟むことで登場人物を単なる紋切り型の人間ではなく、複雑な背景を持った人間として描き出します。これを読んでしまっては単にカタリーナを「意地悪なじゃじゃ馬」とは見れなくなってしまいます。ですがやはり彼女の表向きの振る舞いはじゃじゃ馬なのです。彼女にはもうそういう生き方しかできないのでありました。

そこで現れるのが伊達男ペトルーキオーです。彼はそんじょそこらの男たちとは違います。まずじゃじゃ馬カタリーナの機関銃のごとく放たれる悪口や強い言葉に全く動じません。むしろ対等に、いやそれ以上の力をもってカタリーナとやり合います。

この2人の壮絶な舌戦はこの作品の見どころ中の見どころだと思います。

これを実際に生の劇で観たらどんなことになるのでしょうか。これはすさまじい戦いです。まさに言葉、言葉、言葉のオンパレード!よくぞこんなに出てくるなとものすごいスピード感で2人はやり合います。

この2人は一体どうなってしまうのか、そして『じゃじゃ馬ならし』というタイトル通り、ペトルーキオーはどうやってカタリーナの心を解きほぐしていくのでしょうか。(その方法は現代から見れば問題があるものですが・・・)

さすが人間造形の達人シェイクスピアです。これはシンプルながらも唸らせられた作品でした。

以上、「シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』あらすじと感想~意地悪で頑固な長女と伊達男の大舌戦!言葉、言葉、言葉の喜劇」でした。

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