ルカーチ『トルストイとドストイェフスキイ』あらすじと感想~「ドストエフスキーは答えではなく問いを与える作家である」
ジェルジ・ルカーチ『トルストイとドストイェフスキイ』概要と感想~「ドストエフスキーは答えではなく問いを与える作家である」
今回ご紹介するのは1943年にジェルジ・ルカーチによって発表された『トルストイとドストイェフスキイ』です。私が読んだのは1954年にダヴィッド選書によって発行された佐々木基一訳の『トルストイとドストイェフスキイ』です。
ルカーチはハンガリー出身の思想家です。巻末あとがきではルカーチと本作について次のように述べられています。
ジェルジ・ルカーチ(一八八五-)はロシア文学に関してたくさんの論文を書いている。プーシキン、チェルヌィシェフスキイ、べリンスキイ、ドブロリューボフ、ドストイェフスキイ、トルストイ、ゴーリキイ等の偉大な作家、批評家ばかりでなく、社会主義リアリズムの作品についても多面的に論じている。
これらの論文は《世界文学におけるロシア・リアリズム》と題する尨大な著作にまとめられているが、ここではそのなかからドストイェフスキイ論とトルストイに関する二つの論文を訳出した。
著者の意図はドストイェフスキイおよびトルストイに関する従来の伝説化された観方、すなわちこの二人の作品を神神的なロシアの所産として理解する反動的な観方にたいして真にリアリスチックなロシア文学の映像を与えることにある。
ダヴィッド選書、ジェルジ・ルカーチ、佐々木基一訳『トルストイとドストイェフスキイ』P201
※一部改行しました
ここで述べられるようにルカーチは《世界文学におけるロシア・リアリズム》という巨大な作品群を執筆していますが、ソ連のイデオロギーである社会主義リアリズムを絶対視するという立場から論を展開していくため、「論として問題点もある」とあとがきで指摘されているのは要注意です。
この問題点に関してはあとがきで詳しく解説されていますのでここでは言及しませんが、そうした問題がありつつも私がこの作品を紹介したのはドストエフスキーに対する見解にやはり光るものがあったからに他なりません。
ルカーチはこの作品の冒頭で次のように述べます。
イプセンは文学者の任務が設問にあることをはっきりと自覚していた。そして解答の義務を原則的に拒否したチェーホフは〈問題の解決と問題の正しい設定〉をするどく区別することによって、この複雑な全問題に最終的な説明を与えた。〈芸術家に義務づけられているのは後者のみである。《アンナ・カレーニナ》や《オネーギン》のなかでは、なにひとつ問題は解決されていない。にもかかわらず、これらの作品は申し分なく深い満足を与えるが、それはもっぱら、これらの作品のなかにすべての問題が正しく設定されているためである。〉
こうした見解はドストイェフスキイの本質を評価する場合にとくに重要である。なぜなら彼の政治的・社会的解答の多くは—いや大部分は—まやかしであり、今日の現実と最良の人々の努力にたいしてはなんら寄与するところがないからである。それらは発表せられた当時においてすでに時代遅れであり、反動的ですらあった。
しかもなおドストイェフスキイは世界的な文学者である。なぜなら、彼は自国の、いや全人類の危機の時代に文学的にみて決定的な意味をもつ問題を提起することができたからである。
ダヴィッド選書、ジェルジ・ルカーチ、佐々木基一訳『トルストイとドストイェフスキイ』P8-9
「こうした見解はドストイェフスキイの本質を評価する場合にとくに重要である。なぜなら彼の政治的・社会的解答の多くは—いや大部分は—まやかしであり、今日の現実と最良の人々の努力にたいしてはなんら寄与するところがないからである。それらは発表せられた当時においてすでに時代遅れであり、反動的ですらあった。」
この見解は「ソ連的イデオロギーから見たドストエフスキーがどのような存在なのか」ということが端的に出ていると思います。ソ連的ドストエフスキー像については以前「クドリャフツェフ『革命か神か―ドストエフスキーの世界観―』ソ連的ドストエフスキー像を知るならこの1冊」の記事でも紹介しました。
こうしてルカーチはソ連的にドストエフスキーを見ていくのですが、それでもなおルカーチはドストエフスキーを評価せざるをえません。それはなぜなのか、それが「しかもなおドストイェフスキイは世界的な文学者である。なぜなら、彼は自国の、いや全人類の危機の時代に文学的にみて決定的な意味をもつ問題を提起することができたからである。」という言葉に表れています。
「イプセンは文学者の任務が設問にあることをはっきりと自覚していた。そして解答の義務を原則的に拒否したチェーホフは〈問題の解決と問題の正しい設定〉をするどく区別することによって、この複雑な全問題に最終的な説明を与えた。〈芸術家に義務づけられているのは後者のみである。《アンナ・カレーニナ》や《オネーギン》のなかでは、なにひとつ問題は解決されていない。にもかかわらず、これらの作品は申し分なく深い満足を与えるが、それはもっぱら、これらの作品のなかにすべての問題が正しく設定されているためである。〉」
「文学者の任務は答えを与えることでなく、問いを与えるところにある」とルカーチは述べます。そしてそれに最も成功した人物の一人としてドストエフスキーを挙げるのでした。
たしかにドストエフスキーは答えを与えてくれません。読者を混沌に叩き込むがごとく複雑怪奇な世界に私たちを引きずり込みます。
ですがそれこそドストエフスキーの最大の魅力でもあるのです。
このことについてはフランスの作家アンドレ・ジイドも『ドストエフスキー』の中で述べていました。
「こう生きるべきだ」ではなく「あなたはどう生きるか」を突き付けるドストエフスキー。
このことについてジイドやルカーチが述べた言葉は非常に大きな意味があるのではないかと思います。
そしてルカーチの『トルストイとドストイェフスキイ』ではこの後フランスの作家バルザックの主著『ゴリオ爺さん』の主人公ラスティニャックとドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを対比して論を展開していきます。
『ゴリオ爺さん』と『罪と罰』は兄弟と言ってもいいほど深い関係にあります。ドストエフスキーはバルザックに心酔していました。そのバルザックの主著に強烈な影響を受けながら書かれたのが『罪と罰』です。
こうした関係からドストエフスキーは何を書こうとしていたのかを見ていくのがこの後の本書の流れになります。これもまた非常に刺激的でした。
訳者あとがきにもありましたようにたしかに問題がある作品であるかもしれませんが、この作品で説かれていることはドストエフスキーをまた違った視点から見られるいい機会になったのではないかと思います。
以上、「G・ルカーチ『トルストイとドストイェフスキイ』~「ドストエフスキーは答えではなく問いを与える作家である」」でした。
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