高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』~西洋と日本の美術を比べることで見えてくる日本の美の特徴とは

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高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』概要と感想~西洋と日本の美術を比べることで見えてくる日本の美の特徴とは

今回ご紹介するのは2015年に筑摩書房より発行された高階秀爾著『日本人にとって美しさとは何か』です。

早速この本について見ていきましょう。

大胆なデザイン性、多様な要素を一つ画面に納める構成力、日本独自の美意識を明らかにし、この感性がいかに中国や西洋の文化を受け入れたかを詳らかにする。

大胆に切り捨てる一方、多様な要素を隔てなく取りこむ…それは、私たちの感性にも通じるから。センス・オブ・ニッポンの本質を日本美術に検証する。

Amazon商品紹介ページより

この本は西洋美術と日本美術を比較することで、普段私たちがなかなか意識することのない「日本人にとっての美しさとは何か」を考えていく作品です。

著者はこの本について「まえがき」で次のように語っています。この文章からしてすでに名著の予感が香ってきます。

フランスからやって来た友人と、新幹線で京都に向かっていた時のことである。その日は一応晴れていた富士山のあたりは厚く靄が立ちこめていて、山の姿はまったく見えなかった。日本がはじめての友人は、半ば冗談めかして、富士山なんてほんとうはどこにも存在していないのではないか、と言った。それに対し私はとっさに、「いや、彼女はとても気紛れなんだよ」と応じたが、その時の友人の反応が面白い。彼は驚いたように、「富士山は女性なのか」と反問して来たのである。言われてはじめて気がついたのだが、フランス語の「モン・フジ(富士山)」は、モン・ブランやモン・サン・ミシェルと同じく、男性名詞である。私もフランス語で話している時は、当然男性形の「モン・フジ」と言っていたのだが、富士山のイメージとしては、何となく優美な女性像を思い浮かべていたらしい。

そのイメージは、富士信仰に基づいて建てられた浅間神社が、当初は富士山(山の神=女神)を、やがて木花開耶姫コノハナサクヤヒメを祭神として祀り、現在でもその祭礼が行なわれていることや、かぐや姫の物語、羽衣伝説などからの連想によって、いつの間にか形成されたものであろう。現に、数多く描かれた富士山絵画のなかに、優艶な天女の舞い姿を描き出した例は、少なくない。

だが、ヨーロッパでは話が違う。西欧世界では、古代ギリシャ以来、「山の神」は、雷神、風神、河の神などと同じく男性像としてイメージされ、絵画においてももっぱらたくましい男性の姿で表現されてきた。私が富士山を「彼女」と呼んだことに友人が驚いたのは、おそらくそのような文化的背景があったからである。

人は自分の顔を直接見ることはできない。鏡に映してはじめて、その特徴を捉えることができる。鏡のなかの姿は、自分であると同時に、外からの、他者の視点からの姿である。美術(建築、絵画、工芸)や文学(物語、詩歌、演劇)などの芸術表現も、異文化(例えば西欧文化)の視点を受け入れ、それと対比することによって、いっそうよくその特質を明らかにすることができるであろう。

ここに集められたさまざまの文章は、そのようないわば複眼の視点による日本文化論である。

筑摩書房、高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』P3-4

富士山を無意識のうちに女性と捉えていた著者。そしてそのことに気づいたのは山を男性と捉えるフランス人との出会いがきっかけでした。

これは非常に興味深いエピソードですよね。

「人は自分の顔を直接見ることはできない。鏡に映してはじめて、その特徴を捉えることができる。鏡のなかの姿は、自分であると同時に、外からの、他者の視点からの姿である。美術(建築、絵画、工芸)や文学(物語、詩歌、演劇)などの芸術表現も、異文化(例えば西欧文化)の視点を受け入れ、それと対比することによって、いっそうよくその特質を明らかにすることができるであろう」

まさに、異質なものと比べてみることではじめて見えてくるものがある。この本ではたくさんの写真や絵画などを用いて西洋と日本を比べていきます。

読んでいると思わず「おぉ~!」と唸ってしまうような発見がどんどん出てきます。

この記事でもそれらを全て紹介したいくらいなのですが分量的にも限界があります。ですのでその中でも特に印象に残った箇所を一つだけ紹介します。

自然に寄りそう日本人の美意識

ですから、自然の扱い方もまるで違っています。図18は有名なヴェルサイユ宮殿のお庭の写真です。ヴェルサイユ宮殿のお庭というのは典型的なフランス式庭園で、西洋式庭園の典型です。花壇をつくり、左右相称で、人間が手をかけて、真ん中のイチイの木なんかも三角錐にきちんとそろえる。それから花壇も左右シンメトリーで相称。真ん中の行く先に、今は水が出てないけれど、噴水があるというかたちで、非常に見事なものですが、すべて人工的な秩序を自然に与えます。

しかし日本のお庭は、基本的には人の手は加えない。実際は人間がいろいろつくっているんですが、人工的には見えない。図19は京都の大徳寺大仙院のお庭です。大仙院の方丈の間のすぐ前。非常に狭いところです。方丈の間のすぐ前の狭い空間に、大変見事な深山幽谷の趣を出している。ヴェルサイユ宮殿の庭園の場合には実際に広い。実際歩くと、くたびれてしまうくらい大変な広い空間です。

日本の場合には、狭い空間のなかに山あり谷ありという感じを出す。これは枯山水で、真ん中にずっと白砂、砂とか礫を敷いて滝の感じを出しています。つまりわずかに狭い空間に大自然の姿を再現しようとする。実際にはもちろん、人間がこういう岩を見つけてきて配置するんですが、いかにも自然に深山ができたようにつくり出すというのが日本人の美意識です。

そして噴水。西洋のお庭には噴水が欠かせません。図20は先ほどのヴェルサイユ宮殿の噴水が出ているところ。今では、日本の公園にもやたらに噴水ができました。西洋では、ジュネーヴ湖の噴水が百何メートルまっすぐに上がるというので大変ご自慢なんですが、もっと高い噴水ができたとか、どこかで話を聞きました。つまりこれは西洋では不可欠のものです。

ヴェルサイユの場合には、一七世紀から大変見事にこのように高い低い、それから斜めの噴水を配置して、まるで水のバレエみたいなものを演出しています。西洋庭園に欠かせないこの噴水。これはじつは反自然です。水というのは高きから低きに流れる。それを逆に下から上に上げる。自然に逆らって人間の力で上に上げているんです。日本の庭園では、水というのは昔から使われましたが、しかしつねに、滝であり、流れであり、曲水であり、池であり、必ず自然に従っている。

図21は宇治の平等院で、今度新しくなったようですが、昔のように復元したと言っております。しかし、この鳳凰堂は、本来前の池を通して見る。極楽浄土を見るがごとしというように。この池の水をここで貯めるのに、池の周囲なんか、大変古くから苦労していたようです。これが日本人の水の使い方なんですね。噴水というのは、今では西洋のものが入ってきていますが、本来日本にはなかった。
※一部改行しました

筑摩書房、高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』P32-34

「西洋庭園に欠かせないこの噴水。これはじつは反自然です。水というのは高きから低きに流れる。それを逆に下から上に上げる。自然に逆らって人間の力で上に上げているんです。日本の庭園では、水というのは昔から使われましたが、しかしつねに、滝であり、流れであり、曲水であり、池であり、必ず自然に従っている。」

これは西洋と日本の自然観の核心を突いた箇所であるように私には思えました。「たしかに!」と思わず膝をポンと打ってしまいました。

他にも西洋画が絵の背景をびっしり埋め尽くすのに対して日本画が余白を重んじるという点や、江戸時代の旅事情とゲーテ時代の西洋の旅を比べた記事など、興味深い内容が山ほどあるのがこの作品です。

日本にいるとなかなか意識しにくい「日本文化」。

その特徴や独自性はどこにあるのかがこの本では非常にわかりやすく説かれます。

とにかく刺激的で魅力的な作品でした。ぜひぜひおすすめしたい名著です!

以上、「高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』西洋と日本の美術を比べることで見えてくる日本の美の特徴とは」でした。

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