近藤俊太郎『親鸞とマルクス主義 闘争・イデオロギー・普遍性 』あらすじと感想~ 真宗教団とマルクス主義の関わりを知るのにおすすめの参考書
近藤俊太郎『親鸞とマルクス主義 闘争・イデオロギー・普遍性 』 概要と感想~真宗教団とマルクス主義の関わりを知るのにおすすめの参考書
今回ご紹介するのは2021年に法蔵館より出版された近藤俊太郎著『親鸞とマルクス主義 闘争・イデオロギー・普遍性 』です。
早速この本について見ていきましょう。
近代日本の親鸞には何が託されていたのか
初期水平運動・反宗教運動・転向・戦時教学・戦後仏教史学・反靖国運動――、近現代日本の諸局面で構築された数多くの親鸞論。なかでもマルクス主義と交差することで、親鸞論は実に多様な展開を見せていく。
その変遷を手がかりに、「親鸞を語る」という営為が語り手にもたらした思想経験を問い、その語りをもたらした近代という時代の歴史的経験に迫る。
近現代を代表する二大思想、その結節点に初めて本格的に挑んだスリリングな思想史叙述の試み。
【主な内容】
序 章 親鸞とマルクス主義への入射角第I部 仏教とマルクス主義―解放と阿片の間―
第一章 高木顕明と初期水平運動の親鸞―非戦と平等をめぐって―
第二章 反宗教運動と仏教
第三章 佐野学の宗教論―宗教批判と親鸞理解―第II部 戦時日本の親鸞―危機の時代との向き合い方―
第四章 戦時下本願寺の聖典削除と皇国宗教化
第五章 戦後親鸞論への道程―マルクス主義という経験を中心に―第III部 戦後日本の親鸞―起動する社会的実践―
第六章 二葉憲香の親鸞論―仏教の立場に立つ歴史学―
第七章 戦後日本における反靖国運動と親鸞
補 論 近代真宗史への入射角―宗教的立場と社会的立場の二元論とその超克―結 章 まとめと展望―親鸞・マルクス主義・近代―
Amazon商品紹介ページより
この本は真宗教団における近現代の親鸞理解の歴史とマルクス思想の関わりについて述べられた作品です。
最近マルクス関連の本が売れている中で、この本を実際に読むまでは正直「きっとこの本もマルクス礼賛本なのかな・・・」と思っていたのですが全く違いました。
この本はイデオロギー的なものではなく、真宗教団における思想の歴史や、マルクス主義による宗教批判に教団側がいかに答えようとしていたのか、また、マルクス主義的な社会活動に触発された真宗僧侶がどのような活動を行っていたのかということを詳しく見ていくという、かなり硬派な作品となっています。
読んですぐに「ごめんなさい!誤解していました!」と謝りたくなりました。
真宗の教義が近代においてどのように成立していったのか、そしてそれがどのように受容されていったのかも非常にわかりやすいです。
著者は「序章」で次のように語っています。
親鸞について語ることとは何か―。
近現代日本において、数多の知識人が親鸞について語った。彼らは宗教学者であり、歴史学者であり、哲学者であり、文学者であり、社会運動家であった。その多くは仏教者、真宗僧侶や真宗門徒(信者)であったが、必ずしも真宗教団の関係者でない人々も親鸞について積極的に語ったのである。彼らはどのように親鸞について語ったのだろうか。そして、なぜ親鸞について語ったのだろうか。
本書の課題は、近代日本における親鸞理解の歴史をあきらかにすることにある。念のためにいっておけば、本書の対象は親鸞理解であり、親鸞その人ではない。親鸞はどのように理解され、どのように語られたのか。そしてそれは語り手自身にとって、あるいは語り手が直面していた歴史状況のなかで、どのような意味をもったのか。本書はこうした問題を考えてみようとするものである。
本書は、親鸞理解のなかでも、特にマルクス主義との関連に焦点を当てようと思う。なぜなら、親鸞とマルクス主義が交差する地点には、近代という時代の歴史的経験を読み解くうえで、極めて重要な問題領域を立ち上げることができるからである。つまり本書が目指すのは、近代日本においてマルクス主義との関係から構築された親鸞理解を主たる対象として、その内容や変遷を辿りつつ、それを語った人々の思想経験と、そのような親鸞理解が登場した近代という時代の歴史的経験について考えることである。
法蔵館、近藤俊太郎著『親鸞とマルクス主義 闘争・イデオロギー・普遍性 』P3-4
マルクス主義は20世紀の日本にも絶大な影響を与えました。ある意味、マルクスを避けずしてこの時代の思想は語れないとすら言えるかもしれません。
直接的に語られることはなくとも、マルクス主義という存在があるだけで何かしらの影響を多かれ少なかれ受けることになります。
しかもマルクス主義は「宗教はアヘンである」と、宗教に批判的な立場を取ります。この本でもかなりの分量を割いてこの批判に対し教団側がどのような対応をしたのかが語られます。
そして個人的に目に留まったのは次の箇所です。
マルクス主義が宗教批判を原則としながらも、宗教のような役割を担っているというのは、一九三〇(昭和五)年一月一六日に大鳳閣法界雜爼社と中外日報東京支局が共催した「マルキシズムと宗教」と題する座談会で、宇野円空が指摘したことでもあった。三枝博音がマルクス主義者の葬式について、「同志が無ざんに斃れたとき他の同志が坊さんがお経やバイブルを読むように、マルクスの文章の一節を読むといふこともあり得やう」と述べたのに対して、宇野は、「けれども私共の現在の宗教を離れた立場からからいふと、マルクスの綱領でも読んで見たいといふ所が、やはり、宗教ではないかと思ふ」と疑義を呈していた。このやり取りには、真宗寺院の出身でマルクス主義に没頭した三枝ならではの発言と、宗教学者の宇野らしい指摘がある。つまり宇野は、マルクス主義に向き合った人々の心性に、宗教性を読み取っていたのである。
法蔵館、近藤俊太郎著『親鸞とマルクス主義 闘争・イデオロギー・普遍性 』P486
ここは「マルクス主義にも宗教的なところがあるのではないか」という指摘がなされている箇所なのですが、まさにこのことこそ当ブログでもずっと考え続けてきたことであります。
私は昨年の夏(2021年)頃からマルクス関連の本を読み始めたのですが、正直この本を読んだ3月、「あ、先を越された・・・」と思ってしまいました(笑)。もちろん著者の近藤俊太郎氏は私がマルクスを学び始めるずっとずっと以前からこの問題について研究されておられるので、私が「先を越された」なんて言う資格はまったくございません(笑)
ただ、マルクス主義にも宗教的側面があるのではないかと私が考えていたことと、この本で語られていることがリンクしていくようで非常に興味深く読ませて頂きました。
私はどちらかというと真宗教団の研究からマルクスへ向かうのではなく、マルクスそのものやその思想背景、時代背景から宗教へと向かって行ったのでこの本のアプローチとはちょうど反対向きということになると思います。
自分とは違ったアプローチからマルクスと宗教について考えていけるこの本は私にとっても非常に刺激的でした。
ぜひぜひおすすめしたい作品となっています。
以上、「近藤俊太郎『親鸞とマルクス主義 闘争・イデオロギー・普遍性 』 真宗教団とマルクス主義の関わりを知るのにおすすめの参考書」でした。
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