トルストイ『神の王国は汝らのうちにあり』あらすじと感想~非暴力主義に基づいた徹底的な体制批判。当局から「最も有害」と断罪された告発の書
トルストイ『神の王国は汝らのうちにあり』概要と感想~非暴力主義に基づいた徹底的な体制批判。当局から「最も有害」と断罪された告発の書。
今回ご紹介するのは1890年から1893年にかけてトルストイによって書かれた『わが信仰はいずれにありや』です。私が読んだのは河出書房新社より発行された中村白葉、中村融訳『トルストイ全集15 宗教論(下)』1974年初版の『神の王国は汝らのうちにあり』です。
この作品は非暴力主義を掲げるトルストイがロシア帝国や教会のあり方について徹底的に批判を述べたものになります。
ですので、当然検閲を通るはずもなく当局から発禁処分とされ、国内で出版されることもありませんでした。
では、そのことも絡めて早速この本について見ていきましょう。
当時の外国書籍検閲部は仏訳された『神の王国』を審査した結果「本書はこれまで禁止せざるを得なかった書籍の中で最も有害なものである」と公布したといわれるし(一八九三年十月、ストラーホフよりトルストイ宛書簡)、また一八九四年九月にトルストイ家を訪問したマコヴィツキイに対して令嬢のタチヤナ・トルスタヤが語ったところによると、時の皇帝アレクサンドル三世は『神の王国』の件でトルストイに激昂し、「トルストイは恐ろしいことを書いている。彼を処罰しなければならぬ」と息まいたが、周囲から彼への弾圧を進言されるより先に、《Je ne veux aj oiter à sa gluire la couronne de martin(だが、余は彼の名声を受難者の王冠によって増そうとは望まぬ)》と答えたという。そしてさらにトルスタヤ嬢はこう言った―「わたしたちは早晩、どこかに追放されるものと覚悟していますが、政府も父を国外へ追放すればかえって彼の影響を大きくするだけだということを承知しているのです」
以上のようなエピソードは、この『神の王国』がいかに当時、ロシヤ国内を震駭せしめるにたる恐るべき書であったかをなによりもよく物語っている。国内での出版を許されなかったのも当然と言わなければならない。
本書の中で著者の力説しているところは改めてくり返す要もあるまいが、概括的に言えば、彼はここで自らの教えと在来の教えとの歴史的関係を立証して、同時に、この教えをわれらの公私の生活(教会、信仰、科学、戦争などを含む)にいかに適用させるべきかについて述べているので、おそらくこれが数多いその宗教的著作の中で最も彼が力を注いだものであったらしいことは当時の日記からもうかがえるところである。
河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集15 宗教論(下)』1874年初版P456-457
「時の皇帝アレクサンドル三世は『神の王国』の件でトルストイに激昂し、「トルストイは恐ろしいことを書いている。彼を処罰しなければならぬ」と息まいた」
絶対的な権力を持つ皇帝がここまで激昂するようなものをトルストイはこの作品で並べ立てたのでありました。
たしかにこの作品を読めば皇帝が激怒するのもわかります。当時のロシア帝国は強力な軍事国家であり、国外に対して戦争を仕掛け領土拡大を狙い、国内においては秘密警察や治安部隊によって強い統制をかけていた国でした。
当然、体制批判はタブー中のタブーです。
ですがトルストイはそれを正面からやってのけたのでありました。
ここまで当ブログでもトルストイの宗教的著作をご紹介してきましたが、彼の宗教信仰の中心は非暴力主義にあります。そんなトルストイにとって当時の暴力的な国家体制のあり方は到底容認できるようなものではありませんでした。
そしてそんな国家に手を貸しているのがロシア正教教団であるとトルストイは述べ、彼らに対する激烈な批判もこの書ではなされていきます。その一部をここで紹介しましょう。
ロシヤの、いわゆる正教教会の活動は万人の眼の前にある。これは大きな事実であり、これを隠すこともできず、論争の余地もない。
ではこのロシヤの教会という、五十万の人員を擁し、国民に数千万の負担となっているこの巨大な、盛んに活動をつづけている施設の事業とはなんであろうか?
この教会の事業とは、ありとあらゆる手段を講じて、今ではもはや信仰するにたるなんらの理由ももたぬ時代おくれの、枯死した信仰を一億のロシヤ国民に吹きこむことにある。このような信仰は、かつてはわが国民とは無縁の人々が信じていたが、今ではもはやほとんどだれも信じる者はなく、このあやまれる信仰の普及を義務としている人々でさえ、信じていないことも珍しくはないのである。
国民にこれらの縁のない、時代遅れの、しかも現代のわれらにとってはもはや何の意味ももっていない三位一体、聖母、秘礼、恵みなどについてのビザンチン僧侶階級の公式を吹き込むことがロシヤ教会の事業の一部をなしているのである。
この事業の他の一部をなすものは、そのままの意味での偶像崇拝の支持である。つまり、聖骨、聖像の崇拝、供物、それによる願望成就の期待などである。僧侶たちが科学や自由主義のニュアンスをつけて宗教雑誌の中で語ったり、書いたりしていることはしばらく措いて、ここでは彼らによって広大なロシヤの全土にわたり、一億の国民の間に実際に行なわれていることについて語ることにしよう。
いったい、彼らは到る所で一様にこの国民大衆に向かってなにを、懸命に、倦まずたゆまず熱心に教えているのだろう?いわゆるキリスト教の信仰のためになにを彼らは国民から求めているのだろう?
河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集15 宗教論(下)』1874年初版P203
※一部改行しました
教会に対しての痛烈な批判がすでにここで述べられていますが、この後もひたすら批判は続いていきます。
そしてその批判は国家体制そのものに向かい、戦争や暴力に対するトルストイの思いが語られることになります。
これらは体制側にとっては都合悪いことこの上なしです。
この作品が皇帝の激怒を買うことになるのは必然です。これがロシア国内で公になってしまったらとんでもないことになってしまったでしょう。
そしてこの作品を通してトルストイは自らの信仰も語っていきます。藤沼貴著『トルストイ』ではそのことについて次のように解説されています。
トルストイの言うところによれば、キリストの教えはキリスト自身によって体現された内的完成、真理、愛の模範であるからこそ、実行がせまられる。人々はこの教えを実行しようとし、たとえ実行できなくても、それに近づこうとし、神の国を自分のなかに建てようとする。しかし、教会は自分たちの行う祈禱、精進、儀式のほうを重要視し、「山上の説教」は教会の福音書朗読から除外されているほどである。(中略)
「殺すな」「裁くな」「敵を愛せ」「悪に逆らうな」「姦淫するな」というキリストの教えは単純で非現実的なのではなく、簡潔明快で、断定的であり、だからこそ真理なのである。「殺すな」という一言こそが真理であり、それを行うのが生活である。それ以外に何をすればいいのか?この真理を行わなければ、実際の生活と正しい人生理解の分離はますます大きくなっていく。実際、われわれの目の前でその分離が拡大し、人間は堕落している。そして、国家や教会はその分離を助長している。われわれが従うべき権力は神の権力だけであり、それ以外のものではない。
宗教は古いもので、現代に対応できないと言う人がいる。しかし、正しい宗教は変化する人類の新しい状況に応じて、新しい人生理解を展開できるはずであり、できなければならない。
以上が『神の国はあなたのなかにある』でトルストイが主張したことの要点である。
ちなみに、読者は見落としがちだが、この著作の副題が「神秘的な教えではなく、新しい人生理解としてのキリスト教」となっていることを言い添えておこう。トルストイは『神の国はあなたのなかにある』を新しい言葉として語ったのである。
第三文明社、藤沼貴『トルストイ』P473-475
「われわれが従うべき権力は神の権力だけであり、それ以外のものではない。」
ここにタイトルの『神の王国は汝らのうちにあり』の意味するところがあります。国家や教会に神があるのではなく、ひとりひとりが神と共に生きよとトルストイは述べるのです。
「国家や教会に服従するのではなく、自分でキリストの教えを実行せよ」
これがトルストイがこの作品で述べんとしていたことでした。
何度も繰り返しになりますが、この作品は国家や教会から激烈な攻撃を浴びることになりました。「本書はこれまで禁止せざるを得なかった書籍の中で最も有害なものである」と弾劾されてしまうのもわかる気がします。それほど国家や教会にとって痛いところを突いた恐るべき作品なのでした。
トルストイは1880年頃からこうした宗教的著作を次々に発表し、教会側との対立を深めていくことになります。
そしてついに1901年にはロシア正教会から破門されることになりました。
トルストイは1910年に亡くなりましたが、そのお墓が上の写真になります。
墓石もなければ、十字架もありません。
そうです。
トルストイはロシア正教から破門されているがために、正教の儀式に則って葬られることもなかったのです。そしてそのお墓は今もそのままとなっています。
このことを私たちはどう捉えればいいのでしょう。私たちひとりひとりがトルストイに問われているのではないかと思います。
この作品も晩年のトルストイ思想を知る上で非常に重要な作品となっています。
以上、「トルストイ『神の王国は汝らのうちにあり』概要と感想~非暴力主義に基づいた徹底的な体制批判。当局から「最も有害」と断罪された告発の書」でした。
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