M・スチュアート『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』~正反対の2人の生涯と思想を知れるおすすめ伝記!

光の画家フェルメールと科学革命

M・スチュアート『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』概要と感想~正反対の2人の生涯と思想を知れるおすすめ伝記!

今回ご紹介するのは2011年に書肆心水より発行されたマシュー・スチュアート著、桜井直文、朝倉友海訳『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』です。

早速この本について見ていきましょう。

哲学的対決のドラマ。――ライプニッツだけが深く理解しえた、そしてライプニッツこそが深く憎悪した、スピノザ哲学という「世界革命」。未邦訳のライプニッツ文書を渉猟し、初めて明かされる哲学者ライプニッツの生身の姿。そして逆照射されるスピノザ革命の真価。廷臣ライプニッツは何に仕え、破門の異端者スピノザは何から自由であったのか。生きた哲学史の新しい風。

出版社からのコメント
かたや「宮廷人」ライプニッツ。豪勢に着飾って諸国の王権に接近し、手練手管を尽して高給を引き出しては、その富をもって全ヨーロッパを股にかけた様々な新事業に万能の天才ぶりを発揮せんと活躍する、究極のインサイダー。かたや「異端者」スピノザ。ユダヤ人コミュニティーから無神論の危険思想として破門され、間借り暮らしでのレンズ磨きを生業としつつ、近代を切り拓く前代未聞の革命的哲学を鍛え上げる、不気味に自足した賢者。誰よりもスピノザ哲学という新思想の意義を認めながら、既存のヨーロッパ的秩序に対するその危険性ゆえに、スピノザの哲学を深く憎悪したライプニッツ。二つの哲学の対決を、従来ない大胆なスタイルで描く、リアリティある哲学史。原書、The Courtier and the Heretic: Leibniz, Spinoza, and the Fate of God in the Modern World.(W. W. Norton, 2006)

Amazon商品紹介ページより

前回の記事「國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』~オランダの哲学者スピノザのおすすめ入門書」ではオランダの哲学者スピノザについて見てきました。

今回はいよいよスピノザとはいかなる人物だったのかをより詳しく知れる本を紹介します。

M・スチュアートの『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』はスピノザの生涯や思想を知るのにまさにうってつけな作品です。

この本の特徴は何と言ってもスピノザとライプニッツという、同時代の二大巨頭の生涯を1冊で知ることができる点にあります。

この本について巻末の「訳者あとがき」では次のように述べられています。

本書の主題は、近代がヨーロッパ社会につきつけた問題を、近代哲学を代表する二人の哲学者ライプニッツとスピノザがどのように受け止めたかということ、とくに、ライプニッツがかれより十四歳年上のスピノザという大きな影とどのように格闘したかということである。

著者にしたがえば、二人の哲学者はともに、近代、とりわけ、近代自然科学とそれにもとづく物質文化が、キリスト教会中心に組み立てられていたヨーロッパ社会をどのように変貌させるかということについてのきわめて明瞭な認識を共有していた。

しかし、そうした時代と社会の危機にどう対処するかという問題に対して両者が与えた解答は正反対だったのである。

スピノザは、そうした時代の変貌をすなおに肯定し、新秩序、すなわち、教会なき社会のなかで生きるということはどういうことなのかということについてのいわばロール・モデルを提示した。それに対してライプニッツは、そうした時代の変化にもかかわらず旧秩序、すなわち、教会を中心とした秩序がなんとか保たれうる手段を理論・実践の両面において模索したのである。
※一部改行しました

書肆心水、マシュー・スチュアート、桜井直文、朝倉友海訳『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』P413

「スピノザは、そうした時代の変貌をすなおに肯定し、新秩序、すなわち、教会なき社会のなかで生きるということはどういうことなのかということについてのいわばロール・モデルを提示した。それに対してライプニッツは、そうした時代の変化にもかかわらず旧秩序、すなわち、教会を中心とした秩序がなんとか保たれうる手段を理論・実践の両面において模索したのである。」

スピノザは異端者として迫害され、ライプニッツは宮廷人として体制側に立っていました。こうした真逆の生き方もそうですが、思想そのものも真逆でした。これは非常に重要なポイントです。

実はこのドイツ・ライプツィヒ生まれの思想家ライプニッツは私も以前から興味のある存在でした。

ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)Wikipediaより

というのも、以前私は当ブログでフランスの哲学者ヴォルテールの『カンディード』を紹介しました。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも強い影響を与えたこの作品ですが、ヴォルテールはこの作品の中でライプニッツの「最善説」という思想を批判します。いや、この思想の批判のために『カンディード』を書いたと言っても過言ではありません。

せっかくですのでこの「最善説」と『カンディード』についての解説を見ていきましょう。

『カンディード、あるいは最善説』というときの「最善説」は、元のフランス語では「オプティミスム」(Optimisme)です。この名詞は、「最良」「最善」という意味のラテン語Optimusと、ドクトリンを指す名詞を作る働きのある接尾辞ismから成っています。実は、本篇の第一章にも言及されている論壇誌『トレヴー評論』に集うイエズス会士たちが一七三七年に使い始めた造語なのです。ですから、ヴォルテールの生きていた時代における「オプティミスム」の第一義は、今日われわれが了解している「楽天主義」ではありませんでした。そうではなく、神が創造したはずの世界になぜ天災のような物理的な悪、病苦のような身体的な悪、人間を暴力や罪に導く倫理的な悪が存在するのかという問題を解決する―あるいはむしろ解消する―ひとつのドクトリンの謂だったのです。

実際、十八世紀には、宗教的にはカトリックやプロテスタントであった合理主義の哲学者たちが、世界を神の摂理の下にあるものと見る立場からまるごと合理的に説明しようとしていました。なかでも代表的なのが、一七一〇年に『弁神論』(もしくは『真義論』)をフランス語で発表したドイツの哲学者ライプニッツ(一六四六~一七一六年)が主張し、その弟子クリスティアン・ヴォルフ(一六七九~一七五四年)やイギリスの詩人アレキサンダー・ポープ(一六八八~一七四四年)が継承した理論で、それがすなわち「最善説」でした。

この「最善説」によれば、神は完全無欠ですが、神の創造は神のようには完全無欠であり得ず、それゆえ地上世界には悪も散在しています。しかしながら、そんな悪を圧倒的に凌駕する善が優勢であるとされ、そもそもある現象には必ず原因があるという充足理由律が世界を支配している以上、世界は人智の判断を超えて合理的なのであり、全体として予定調和していると断じられます。問題とされる悪も、実は善の成就のために必要な役割を果たしており、いわば「善によってでまる影」(l’ombre portee du bien)のようなものだということになります。このドクトリンの中では、人間の目の高さから見て明白に悪であるものも、もはやスキャンダルではなくなってしまうわけです。

晶文社、ヴォルテール、堀茂樹訳『カンディード』P242-243

この理論から言うと、1755年に多くの方が亡くなったリスボン大地震も人間が救われるために必要なものと考えられます。たしかに多くの人が亡くなり、生活が破壊されたが、それは最後に人間が救われるために必要な善だったのだとライプニッツの「最善説」は述べるのです。

ですがヴォルテールは言います。地震で亡くなった人は何かそれに価するような大きな罪を犯したというのだろうか。それに、たとえ最後の最後で人類が救われるとして、なぜ彼らが地震で死ななければならなかったのか。なぜ彼らはそんな目に遭わなければならないのか。全知全能の神ならばそんなことをしなくてもよかったのではないか。何が起ころうが「それは最終的な結果のためには善である」で片づけてしまってもいいのだろうかと。

たしかに、全知全能の絶対的なる神がこの世界を創ったとして、なぜ悪が存在しているのかというのはとてつもなく大きな問題です。

ここは多神教的な日本人のメンタリティーではなかなかぴんと来にくい問題ではありますが、キリスト教信仰においては非常に重要な問題です。

ヴォルテールはこうしたライプニッツの最善説に反論すべく『カンディード』を書いたのでした。

さて、こういうわけで私はライプニッツの「最善説」を知ったのでありますが、いざ実際にライプニッツがどのような人物だったのかというのはほとんど知らないままでした。いつか学んでみたいなとは思っていたものの、17世紀西洋哲学の大家ともなるといかんせん手が出にくい・・・そんなわけでここまで距離を置いていたのであります。

ですがフェルメールを学んだことでスピノザにつながり、そこからさらにこの本と出会うことになりました。

この本はそんなライプニッツとスピノザの生涯を知れる貴重な伝記です。まるで正反対の二人の生き方、思想、時代背景をこの本ではわかりやすく、しかもドラマチックに語ってくれます。ものすごく面白いです!

また、この本ではライプニッツとスピノザの思想の背景となった人生そのものにフォーカスしていきます。このことは彼らの思想を知る上で非常に重要です。

このことについて訳者は次のように述べています。これはあらゆる哲学や思想を考える上でも非常に重要な指摘ですので、少し長くなりますがじっくり読んでいきます。

本書は、スピノザとライプニッツという二人の哲学者について論じる。事実、二人の会見を主題とする第一章と第十二章にはさまれた十の章は交互にスピノザとライプニッツについての叙述にあてられている(偶数章がスピノザ、奇数章がライプニッツについての章である)。

しかし十三章以降最終章の一つ前の章まで、主題となるのは、ライプニッツのなかでのスピノザ的なものと反スピノザ的なものとの葛藤である。したがって、本書はたしかにスピノザとライプニッツという二人の哲学者を論じてはいても、その力点はあきらかにライプニッツのほうにある。

スピノザについては、かれの同時代人の多くにとってと同様、読者であるわれわれにとってもいわばえたいの知れない自足した怪物といった印象が残る。それに対しライプニッツについては、いくぶん戯画化されているとしても、われわれにとっては十分共感できる生身の人間として描かれている。

ある書評子が言うように、ライプニッツの歩く動作の不格好さをことさら強調する本書のやりかた(一〇頁、二五〇頁)はいくらなんでもあんまりだとも言えるし、ライプニッツの金銭に対する意地汚さをことさらにあげつらう(一八九頁ほか)著者の筆致は、万能の天才ライプニッツを英雄視している読者には偶像破壊的に感じられるだろう。

しかし、それでもなお、多くのひとは本書によってはじめてライプニッツという「人間」を理解したと感じるのではないだろうか。

その点に関して本書が成功しているすれば、それは、ライプニッツがなにをしたか(あるいはなにを書いたか)ではなくて、かれがいったいなにをしようとしていたのか、あるいはむしろ、なにと格闘していたのかということに本書が焦点をあてているからであると思う。かれが格闘していた問題、それをひとことで言えば、「スピノザ」だ、と著者は言うのである。
※一部改行しました

書肆心水、マシュー・スチュアート、桜井直文、朝倉友海訳『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』P415

「ライプニッツがなにをしたか(あるいはなにを書いたか)ではなくて、かれがいったいなにをしようとしていたのか、あるいはむしろ、なにと格闘していたのかということに本書が焦点をあてている」

これは思想や哲学を考える上で非常に重要な指摘だと私は思います。思想や哲学はそれだけで成り立つのではなく思想家が置かれた状況無しにはありえません。ですが私たちはややもすればそれを忘れ、思想や哲学のみに目を向けてしまいます。そうなってしまうと「なぜその思想が説かれなければならなかったのか」という問題が抜け落ちてしまうのです。

訳者は続けます。

著者は言う。十八世紀の読者にライプニッツが理解されなかったのは、まさにかれがなにと格闘していたのかということが忘れられていたからである。

かれの『モナドロジー』はいわば仮想の相手との一問一答なのに、そのことを知らずにそれを読むことは、いわば相手の発言部分を全部削除したうえで対話の一方の発言だけを読むようなものだ、と。

しかしこのことは、じつは十八世紀の読者だけにかぎられることではなく、今日のわれわれにもあてはまることではないだろうか。

日本における哲学や哲学史のおおかたのアプローチは依然としてしてテクスト主義である。テクストに対する「読書百遍意自ら通ず」的な信念が、依然として日本の哲学的読者の大部分をつき動かしているように思われる。

しかし、哲学的テクストとはじつは哲学者がみずからの、あるいはむしろ、かれがかれの同時代人と共有していたであろう問題に対してその哲学者が与えた解答なのである。そこで問われている「問題」を考えることなく、あるいは、あえて無視して解答だけを読むことは、どんなに「読書百遍」したとしても、結局のところ、自分勝手な思いや意味をそのテクストのなかに読み込むことになるか、たんに、テクストのことばをお題目のように繰り返すことになるにすぎない。

そもそも著者をしてそのテクストを書かせた問題がなにか、を知るということ、つまり、テクストの「コンテクスト」を知るということが、テクストを理解し、テクストをうみだした著者を理解する鍵となる。哲学ならぬ哲学「史」を研究するということの積極的な意味もまたそこにある。

この「コンテクスト」の感覚の欠如が、今日書かれている哲学史の多くをまことにつまらないものにし、哲学史とは面妖な考えがつぎからつぎへと出てくるいわば「阿呆の画廊」といった印象をもたせる元凶なのである。

ひるがえって、本書をそうした「阿呆の画廊」になることから救っているのは、まさにスピノザとライプニッツをコンテクストのなかで結びつけたからである。もちろん、スピノザがライプニッツにとっての「問題」であったという視点に対しては、いくつもの異論がありうるだろう。しかし、そうした異論をたてるには、それとは違うライプニッツの思想のコンテクストを示して見せてくれなければならない。

そういう仕方で議論を戦わすことによってのみ哲学史は真偽を問える学問となるのであり、豊かな展開をはらむ領域となるのである。本書のすべてが完璧であると言うつもりはないが、そうした哲学史のあるべきすがたの一端を見せてくれたということはできるだろう。

歴史とは、出来事を人間の行う行為として理解するということであり、人間の行為として理解するということは、その行為のなかに働いている思考を歴史家自身が自分の力で考えてみることだ(コリングウッド『歴史の観念』)だとするなら、本書は、テクストという出来事の背後に働いている思考、とりわけライプニッツという人間の思考をわれわれにあるしかたで理解させてくれたというかぎりにおいて、一つの歴史の書物となっていると言っていいだろう。
※一部改行しました

書肆心水、マシュー・スチュアート、桜井直文、朝倉友海訳『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』P415-417

「哲学的テクストとはじつは哲学者がみずからの、あるいはむしろ、かれがかれの同時代人と共有していたであろう問題に対してその哲学者が与えた解答なのである。そこで問われている「問題」を考えることなく、あるいは、あえて無視して解答だけを読むことは、どんなに「読書百遍」したとしても、結局のところ、自分勝手な思いや意味をそのテクストのなかに読み込むことになるか、たんに、テクストのことばをお題目のように繰り返すことになるにすぎない。」

これは哲学に限らずあらゆるテーマにおいてもそうなのではないでしょうか。非常に鋭い指摘だと思います。

私もこれまで「宗教は宗教だけにあらず」という姿勢で宗教を学んできました。聖典に書かれている言葉だけを見ていくのではなく、その時代背景や問題意識も大切にすることがさらなる学びにつながると信じているからです。

これは世界的な歴史家E・H・カーがその名著『歴史とは何か』で語っていたこととも繋がってきます。

スピノザにせよライプニッツにせよ、伝記的に語られる生涯を知ることによってその思想が何を問題に考えていたのかというのがとてもわかりやすくなりました。

スピノザもライプニッツも、正直私には手もつけられない難解な哲学者というイメージが強かったのですが、その生涯や時代背景を知ったことで以前とは違う目線で見られるようになったと感じています。

この記事では、この本で具体的に両者がどのように語られているかは長くなってしまうのでお話しできませんが、「ものすごく面白かった」ということはぜひともお伝えしたいと思います。

彼らが生きた17世紀ヨーロッパは伝統的なキリスト教的世界観が衰退し、科学的な思考が生まれてくるまさに過度期です。

いわば「世界の秩序をめぐる思想上の戦い」がそこで繰り広げられていたわけです。

全知全能の神が創造した世界。全ては聖書に書かれているという世界観。

実証的な経験、つまり科学的にものごとを見ていこうという世界観。

これらは両立できるのか、いや、そんなことは不可能か。

絶対的な神の存在によって成立していたキリスト教世界においてこれはとてつもない大問題です。

そのことを考えていく上でこの本は最高の手引きになります。非常に興味深い事実がたくさん出てきます。以前紹介したローラ・J・スナイダー著『フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命』と合わせてぜひぜひおすすめしたい作品となっています。

以上、「M・スチュアート『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』正反対の2人の生涯と思想を知れるおすすめ伝記!」でした。

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