ゴロソフケル『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』~カントという切り口から見るドストエフスキーとは

ゴロソフケル ドストエフスキー論

みすず書房、木下豊房訳、ゴロソフケル『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』

今回ご紹介するゴロソフケル『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』はみすず書房から木下豊房氏の翻訳によって1988年に出版されました。

まずは著者のプロフィールをご紹介します。

Я.Э.ゴロソフケル(1890-1968)

1890年キエフに生れる. 1913年キエフ大学歴史・文学部卒業. 1923年ドイツ留学。帰国後モスクワ大学分校ブリューソフ高等文芸専門学校でギリシャ文学・古代美学・哲学の歴史と理論を教える。ギリシャ哲学を神話学の観点から研究。1931年へルダーリンの『エムペドグレースの死』の翻訳、論文、注釈を出版. 1955年古代ギリシャ・ローマ抒情詩人の訳詩集を刊行。スターリン時代は不遇で、5年間の収容所生活を経験したらしい。その著作活動の全貌はまだ完全には明らかでなく、 1987年に未刊の仕事の一部である『神話の論理学』と題する論文集(モスクワ・ナウカ出版所)が出た。

みすず書房、ゴロソフケル、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』

続いて裏表紙からこの本の概要を見ていきましょう。

著者ゴロソフケルは小説における父親殺しの犯人は誰かという推理小説風のテーマに絞りながら,それをイデーのレべルで問題にしていく。真犯人はイワンの二律背反的知性に潜む〈悪魔〉ではなかろうか?

その推論のプロセスはスリルと謎解きに満ちている。著者は言う。ドストエフスキーは西欧批判哲学の理論的知性に宿命的な悲劇性とヴオードヴィル性をイワン=悪魔の形象において描き出し,カントに代表される西欧批判哲学と決闘を行なったのだ,と。

ドストエフスキー研究に新鮮なー石を投ずる野心作である。

みすず書房、ゴロソフケル、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』

この本では『カラマーゾフの兄弟』のイワンに的を絞り、そこに西欧思想の代表たるカントの思想とドストエフスキーの決闘が描かれているのだと述べていきます。

イワンがなぜ自らを責め発狂しなければならなかったのか、そこにドストエフスキーがどんな意味を持たせていたのかを著者はカントの思想を手掛かりに考察していくのです。

巻末の訳者解説では次のように述べられています。

本書は通常の研究書とは一風変ったスタイルと趣きを持っていて、小説『カラマーゾフの兄弟』の中での父親殺しの真犯人は誰かという謎解きに論究の的が絞られる。

本書は「一読者の思索」という控え目な副題を持っているが、これは表向き著者が、ロシア文学の専門家でも、ドイツ哲学の専門家でもなく、ギリシャ・ローマ古典文学の専門家であるという立場からの慎みと受けとれる反面、「ドストエフスキーとカント」という比較思想上の野心的なテーマに挑戦する著者の自信にみちた逆説的な態度表明と見られなくもない。

ゴロソフケルは『カラマーゾフの兄弟』における父親殺しの真犯人は誰かという推理小説風のテーマに絞りながら、それを通常の推理小説の筋立てのレべルではなく、イデーのレべルで問題にしていく。つまり、理念上の犯人は誰かということであり、それを丹念な読みで追究するプロセスを通して、著者はこの小説の最も奥深い神秘的な本質に迫っていくのである。
※一部改行しました

みすず書房、ゴロソフケル、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』p182

そして木下氏はこの本について次のように概説します。

著者の入り組んだ推論をあえてかいつまんでいえば、カラマーゾフ老人殺しの真犯人はイワンの二律背反的知性に潜む「悪魔」である。その悪魔はイワンのカント的アンチテーゼ(無神論)の傾きにそって、スメルジャコフに身をやつして登場し、犯行におよぶ。

スメルジャコフの自殺の後ではイワンの幻覚の中で悪魔自身が紳士の姿で現われ、イワンを嘲笑し、発狂させる。というのも、イワンはアンチテーゼの側に傾くと同じ程度にテーゼ(道徳、信仰)の側への強い渇望を持ち、テーゼとアンチテーゼの両端から成る天秤棒の上で、小止み無く揺れ動くカントのアンチノミー的主人公であるからだ。

イワンのアンチテーゼの側面に連なる形象が、彼の傲慢な知性の幻影としての悪魔=スメルジャコフであるとするならば、他方、彼のテーゼの側面に作用するのが、アリョーシャとゾシマ長老である。

この両極の間での無限の往復運動からの脱出を、カントは道徳的裁判官の役割をもった理論的知性の定言命令によって図ろうとしたが、ドストエフスキーはイワン(知性)を発狂させる一方で、ドミトリイにおいて思弁と感性の二つの深淵を同一瞬間に受容させることによって解決しようとした。いわば心情の知によって形式論理を破ろうとした。

著者は小説の理念上の核心を以上のように明らかにしながら、最後にこう結論づける。ドストエフスキーは西欧の批判哲学の理論的知性に宿命的な悲劇性とヴォードヴィル性を、イワン、悪魔=スメルジャコフ、大審問官の形象において徹底的に描き出すことにより、カントに代表される西欧批判哲学との決闘をおこなったのである、と。
※一部改行しました

みすず書房、ゴロソフケル、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』p182-183

やはり欧米文学をやる上ではカントは避けては通れぬ道なのかもしれません。

とはいえ、正直申しまして私はカントやヘーゲル、プラトンなど西欧哲学が苦手です。挑戦してはあっさりと跳ね返され、未だにしっかりとは読めていません。

ですがこの本ではその言わんとしていることが何となくわかります。カントを知った上で読むのがベストなのかもしれませんが、そうでなくとも読んでいくことができます。

ドストエフスキーをまた違った視点から見ることができる興味深い作品でした。

以上、「ゴロソフケル『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』」でした。

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