目次
『貧しき人びと』の概要とあらすじ
『貧しき人びと』は1845年に完成し、翌1846年に発表されたドストエフスキーのデビュー作です。
私が読んだのは新潮社版の木村浩訳の『貧しき人びと』です。
早速裏表紙のあらすじと概略を見ていきましょう。
世界の文豪の、大傑作の処女作!
愛は貧しさに勝てるのか。往復書簡を交わす乙女と中年男の愛の行方。
世間から侮蔑の目で見られている小心で善良な小役人マカール・ジェーヴシキンと、薄幸の乙女ワーレンカの不幸な恋の物語。往復書簡という体裁をとったこの小説は、ドストエフスキーの処女作であり、都会の吹きだまりに住む人々の孤独と屈辱を訴え、彼らの人間的自負と社会的卑屈さの心理的葛藤を描いている。
「写実的ヒューマニズム」の傑作と絶賛されて、文豪の名を一時に高めた作品である。
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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)Wikipediaより
ドストエフスキーはサンクトペテルブルグに住むうだつの上がらない貧しい役人を主人公に、薄幸の乙女ワーリンカとの悲しい恋の物語を描きました。
この小説はあまりによくできていたため、文壇にものすごいセンセーションを起こすことになりました。完成作を友人のグリゴローヴィチに見せると彼は感動し、すぐに詩人ネクラーソフに紹介し、その彼もこの作品に驚き、文壇の大御所ベリンスキーのところに駆けつけます。その時の顛末はロシア文学界の有名なエピソードとして今も語り継がれています。巻末の解説にはその時の様子を次のように書いています。
『貧しき人びと』に感動したネクラーソフが当時の大批評家べリンスキーの許を訪れ、「新しいゴーゴリがあらわれました」と叫んだとき、相手は「君たちのところではゴーゴリがキノコのように生えてくるんだから」とはじめは取りあってくれなかったが、いざその作品を読みだすや、べリンスキー自身すっかり興奮してしまい「さあ、連れてきてくれ、早くその人を連れてきてくれたまえ」とネクラーソフに頼んだという。翌日、ドストエフスキーはべリンスキーの前にあらわれ、「君はきっと偉大な作家になれるでしょう」と太鼓判をおされた。これはロシア文学史上有名なエピソードであるが、ドストエフスキー自身もこの時の感動を生涯忘れなかったようである。
新潮社、木村浩訳『貧しき人びと』P256
ゴーゴリとは当時ロシアで最も人気のあった作家の一人です。そのゴーゴリに匹敵する作家が現れたぞ!とベリンスキーのもとで大騒ぎになったのです。
それほど『貧しき人びと』はセンセーショナルな作品だったのです。
感想
ドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』。
この作品を初めて読んだ時、私は正直その面白さがまったくわかりませんでした。
うだつの上がらない小役人が、自分が何をしてもうまくいかない理由をくどくど自己弁護し続け、恋する女の子が苦しんでいるのに酒に溺れてまた失敗したり・・・
私はまったくこの主人公に同情できませんでした。この男のダメさ加減にうんざりしてしまったのです。
ですが、他のドストエフスキー作品や参考書を読み、さらにはこの小説にとてつもなく影響を与えたゴーゴリの『外套』という作品を読んだ後にこの作品を読み直すと、驚くべき変化がありました。
『貧しき人びと』がものすごく面白く感じられるようになったのです。
これは特にゴーゴリの『外套』を読んだことが大きかったです。
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『外套』はドストエフスキーを理解する上でも非常に重要な作品と言えます。
また当時のロシア社会を知る上でも興味深い作品です。ロシアの小役人たちの生態をゴーゴリはユーモアを交えて語っています。
ドストエフスキーは『外套』を下敷きに彼独自の物語を書き始めます。それが彼のデビュー作『貧しき人びと』だったのです。
『外套』は『貧しき人びと』と同じくペテルブルグのうだつの上がらない小役人の苦悩の物語です。
ゴーゴリはその小役人の生態をカメラで撮影したかのごとく、外側から精密に描いていきます。そこにはどこかゴーゴリ流のユーモアが込められています。
しかし同じうだつの上がらない小役人を主役にした『貧しき人びと』でドストエフスキーはある革命を起こします。
ゴーゴリが外側から主人公を描写したのに対し、ドストエフスキーは書簡体という形式を利用し、主人公にその苦しい内面、追い詰められた人間の心の叫びを語らせたのです。言い換えれば、ドストエフスキーは主人公の小役人の内面に乗り移ったのです。解説ではこのことについて次のように述べています。
作者はマカール・ジェーヴシキンの口をかりて、ゴーゴリの『外套』に反撥し、プーシキンの『駅長』には好感を表明している。ゴーゴリの描いた哀れなアカーキー・アカーキェヴィチの悲劇はドストエフスキーの目ざした「ちっぽけな人間」の深刻な痛みが感じられないように思われたからであろう。この作品がゴーゴリの『外套』のパロディーといわれる理由もそこにある。
新潮社出版、木村浩訳『貧しき人びと』P259
貧しく、虐げられた小役人の心の叫びがドストエフスキーの筆によってついに明らかにされたのです。
『外套』を読んだことでなぜドストエフスキーがうだつの上がらない小役人を主人公に据えたのか。そしてなぜこんなだめだめな男なのかということがストンと入ってきたのです。
そうすると不思議と彼のダメさ加減にも自然と同情できるようになってきます。そして彼の幸せを祈らずにはいられなくなります。
この小説は『外套』とセットでこそ、その真価が現れるのではないかと思います。
中編小説ということでドストエフスキーの五大長編と比べると手頃で手に取りやすい作品であるのですが、ドストエフスキーの入門としていきなりこれを読むと理解するのはなかなか難しいかもしれません。
ある程度の前知識が必要とされますが、逆に言えばそれさえあればドストエフスキーの貧しい人や虐げられた人への優しさ、愛情がこの作品では感じられます。
ドストエフスキーの原点とも言える作品です。有名な『罪と罰』や『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などとはまた少し違うドストエフスキーを知ることができます。そういった意味でもおすすめの作品です。
以上、「ドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』あらすじと感想~貧しくも美しい心を持つ2人の恋の物語 」でした。
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