聖なるものってそもそも何だろう。サンティアゴ・デ・コンポステーラで聖地の秘密を考える。 スペイン編⑮

スペイン編

聖なるものってそもそも何だろう。サンティアゴ・デ・コンポステーラで聖地の秘密を考える。 僧侶上田隆弘の世界一周記―スペイン編⑮

先の記事ではサンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となったのは9世紀初頭に聖ヤコブの遺骨が見つかったことがきっかけであることをお話しした。

そしてここサンティアゴ・デ・コンポステーラはエルサレム、バチカンに並ぶカトリック三大巡礼地として非常に重要視されている聖地。

今回の記事ではこの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラと聖なるもののパワーという観点からお話ししていきたい。

聖なるもののパワー。

なんだかわかるようでいまいちわからない言葉だ。

パワースポットという言葉はみなさんもよく耳にすることと思う。

そこに行けば何かありがたい気持ちになったり、力が湧いてくるような、自分が浄化されたような、そんな気持ちになる場所。

今回の記事で言う「聖なるもの」というのはそのパワースポットの源になるものという意味であると考えていただきたい。

パワースポットというと日本では自然であったりそれと密接に関係する建物であったりすることが多いが、キリスト教世界では「もの」がその源になることが多い。

キリスト教世界では聖人が身に付けていたものや遺骨そのものに聖なる力が宿り、死後もその力は変わらず残され続けると考える。

それを「聖遺物」と呼ぶのだが、それに触れることで人々は聖なる力を受け取ることができると考えられてきた。

日本人が自然を通して聖なるパワーを受け取ろうとするのに対して、キリスト教世界では「聖なるもの」を通してパワーを受け取ろうとする。

これは興味深い相違点だ。

森や山という豊かな自然に生きてきた日本人の宗教観と、イスラエルの砂漠で生まれたキリスト教の違いがこういうところにも表れているのではないだろうか。

豊かな自然に生かされてきた日本と違って、イスラエルの砂漠では自然とは人間の生存を試す厳しい存在だ。

灼熱の太陽、乾ききった砂漠、見渡す限りの荒野。

そんな環境では生き抜くだけも想像を絶する苦しみを味わうことになるだろう。

自然とは人間が戦うべき存在であって、身を委ねる存在ではない。

委ねるべきは神の力。

神の力を以て自然に打ち勝ち、世界をコントロールしようとする。

もちろん、日本でも「もの」が中心となって聖なる空間が生まれることもある。

しかし大きな枠組みで見ていくとキリスト教世界と日本の感覚の違いがなんとなく想像できることと思う。

聖ヤコブ像

さて、サンティアゴ・デ・コンポステーラの話に戻ろう。

ここは聖ヤコブという聖人の遺骨が見つかったからこそ聖地となった。

聖ヤコブはイエス・キリストの直弟子であり、12使徒に数えられる聖人だ。

バチカンが聖地なのは聖ペトロのお墓があるからというのは先の記事でも述べた。

バチカン サン・ピエトロ大聖堂

聖ペトロはイエス・キリストから直接天国の鍵、すなわち聖なる力を授けられた人物だ。

だからこそ聖ペトロは最も重要な存在であり、彼が眠るバチカンは世界最高の聖地なのだ。

では、聖ヤコブはどうなのか。

彼がキリスト教世界で重要視されている理由は12使徒の中で最も早く殉教したからだと言われている。

イエスの死後、世界伝道に乗り出した弟子たちは迫害という厳しい事態に直面した。

その中でも勇猛果敢に信仰を示し、そして命を捧げた聖ヤコブ。

やがてその熱烈な姿から信仰者の鏡として愛されるようになったのだそうだ。

そこから信仰の力強さ、パワーを象徴する聖人として人々に信仰されるようになったと言われている。

そして殉教後、聖ヤコブの遺骨は長らく行方不明となっていたのだが、9世紀初頭、遠く離れたこの地で発見されたというのだ。

先の記事でも述べたが、9世紀のスペインはレコンキスタの時代。

スペインのほぼ全土をイスラム教徒が支配し、キリスト教徒はスペインの最北部でなんとか踏みとどまってるという時代状況だった。

そんな時に信仰のパワー、聖なる力を秘めた聖ヤコブの遺骨がここサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたのだ。

これははたして偶然の出来事なのか、それとも神のお導きなのだろうか。

それはひとまず神のみぞ知ることとして、ぼくらはこの聖ヤコブの発見がもたらした影響を考えてみよう。

まずサンティアゴ・デ・コンポステーラはキリスト教勢の前線基地でもあった。

つまり、ここがレコンキスタの砦だったのだ。

そこに聖ヤコブの遺体があるということは何を意味するのか・・・

先程も述べたようにキリスト教世界では「聖遺物」を重要視する。

聖なる力が宿ったものへの信仰。

これが鍵となる。

そして聖遺物の中でも最も力が強いもの。

そう。それが聖人の遺骨だ。

イエス・キリストの遺骨があればそれが世界で最も聖なるものとなるのだが残念ながらその遺骨は存在しない。

なぜならイエスは死後に復活し昇天したからだ。そのため、遺体は存在しない。

だからこそその次に重要な人物である12使徒の聖人たちの遺骨がこの世界にある最も聖なるものとなったのだ。(もちろんその中でも順位はある)

「聖なる力が宿ったものがここにはある。」

それは信仰者にとってどれほど力強いものとなっただろうか。

そして聖ヤコブは信仰の力、パワーを象徴する聖人だ。

レコンキスタを戦うキリスト教徒にとってこれほど力強いものはない。

聖ヤコブは迫害をものともせず、信仰のために命を賭して戦った。

その聖なる力がサンティアゴ・デ・コンポステーラに宿ったのだ。

戦いにおいて最も重要なことのひとつは戦士の士気だ。

聖ヤコブの存在はキリスト教徒に対しとてつもなく大きな影響を与えたことだろう。

「我らには聖ヤコブがついている!神の名の下に我らは悪しきイスラム教徒を打ち破るのだ!神の地を奪還しキリスト教徒の国を再び打ち立てよう!さあ聖ヤコブに続け!我らには聖なる力があるのだ!」

さあ、これほどまでに戦士の士気を高揚させるものは存在するだろうか。

キリスト教徒たちは涙を流して奮い立ったことだろう。

そして時は経ち、やがて劇的な伝承が生まれてくる。

834年のクラビホの戦いで「キリストの戦士」聖ヤコブが白馬に乗って天から舞い降り、約7万のイスラム軍を撃破しキリスト勢を勝利に導いたという伝承だ。

事の真偽は別として、こうして聖ヤコブは「モーロ人(イスラム教徒)殺し」の聖人と崇められ、その後スペインの守護聖人として崇拝されることとなっていく。

そう。聖ヤコブはキリスト教国スペインの守り神のような存在になったのだ。

聖ヤコブの存在はもはや信仰の勝利そのものだ。

イスラム教徒に対しての勝利、神に背く者への勝利。

信仰のパワーの象徴。信仰の勝利の象徴。

それが聖ヤコブであり、サンティアゴ・デ・コンポステーラなのだ。

これがサンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となった経緯だ。

聖なるもののパワーは現代を生きるぼくたちの想像をはるかに超える力を実際に具えていた。

聖なるものの力は確かに人を動かしてきたのだ。

現代文明を生きるぼくたちでさえ、パワースポットの存在は無視できるものではない。

「パワースポットは迷信だ。」

そう言ってしまうのは簡単だ。

でも、本当にそうなのか?とぼくは思う。

人間に何らかの影響を与えるものがあるというのは動かしがたい事実なのではないのか?

ぼくはお化けがいるとかそこに実際に神がいるとか、スピリチュアルな世界があると言っているわけではない。

ぼくが言いたいのは、「人間は聖なるものに動かされる存在だ」ということだ。

実際にそこにあるとかないとか、そういうことが問題なのではない。

そうではなくて、人間の心がそういうものとは切っても切れない関係なのだということをぼくは信じているのだ。

メディアで紹介されていたパワースポットになんとなく行ってみる。

それは決して悪いことではない。

「ありがたそうだから」

「なんかいいことがありそうだから」

そう思いながらぼくたちはそこへ出向いていく。

そして実際に「ありがたいな」と感じたり、浄化されて力がみなぎってくるような気がしてくる。

ぼくにとっては、人間のこの心の動きが不思議なのだ。

なぜそういう現象が自分の心身に起こるのだろうか。

これがパワースポットの不思議なところである。

人間の心と聖なるものの関係はぼくの中でも非常に大きな問いの一つだ。とにかく不思議でならない。これはぼくの中でずっと続くテーマになっていきそうだ。

長々と話してきたがサンティアゴ・デ・コンポステーラと聖なるものという視点からお話ししてきた。

みなさんもこれから聖地やパワースポットに行かれることが度々あることだろうと思う。

そんな時はこの記事のことを少しでも思い出して頂けたら嬉しく思う。

聖なるものとは何なのか。なぜ自分の心にありがたいという心が起こるのか、なぜ心身が浄化され、力がみなぎってくるのか、みなさん自身の中で答えを考えて頂けたらなと思う。

次の記事ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼と四国のお遍路の関係性についてお話ししていく。

続く

次の記事はこちら↓

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