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(60)三島由紀夫はディズニーランドが大好きだった!?三島はディズニーの何に魅了されたのだろうか

三島ディズニー
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【インド・スリランカ仏跡紀行】(60)
三島由紀夫はディズニーランドが大好きだった!?三島はディズニーの何に魅了されたのだろうか

三島由紀夫の初の長編小説『仮面の告白』

前回の記事では私が初めて読んだ三島作品『金閣寺』についてお話しした。

そしてそこから私は『憂国』をはじめ様々な三島作品を読んでいったのだが、私にとって重大な意味を持ったのが三島由紀夫初の長編『仮面の告白』だった。

仮面の告白

この長編小説は三島の「始まりの作品」でありながらかなりどぎつい。後の三島を予感させる内面の苦悩、葛藤、嵐がすでにここに描かれている。

本作の主人公は同性愛的傾向を持ち、さらには若い男の流す血に性的興奮を持ってしまうという、特異な少年だった。だが、彼はそのことに煩悶し、世間一般の幸福も望んでもいた。

しかし、やはり彼にはそのような平穏は許されていなかった・・・

この作品は三島由紀夫の自伝的な小説と呼ばれている。三島自身は妻を持ち子もいますので完全には小説そのままではないが、彼の抱えていた悩みやその生育過程が今作に大きな影響を与えたとされている。

本作について『文豪ナビ 三島由紀夫』では次のように解説されている。

『仮面の告白』は、三島由紀夫の屈折した変身願望を告白した野心的な小説と言える。それも、毒がたっぷりと塗られている。

この世にてっとり早く変身できるものがあるとしたら、それは「結婚」である。姓が変わり、家族が変わり、自分を取り巻く世間との関係も変わる。役割と責任が加わり、社会的な地位も与えられる。未熟な青年から、成熟した大人へ。つまり「結婚」は「変貌のべルトコンベアー」であり「脱皮のシステム」なのだ。

ところが、運命というものがあり、異性を愛せない人間だっているのだ。彼ら(彼女ら)は、「結婚すれば変われる」という第一歩を踏み出すことができない。だから、いつまでも「未熟」な状態のままで、生きねばならない。年をとり、偉くなったり、金持ちになったりしても、その心は未熟なのだ。かといって、「ピーターパンのように、自分は未熟なままでいいんだもん」と居直ることは、「健全な」社会がなかなか許してくれない。

『仮面の告白』の主人公は、生まれ変わりたくて、必死に女性を愛そうとする。異性愛の壁を越えねば、「結婚」から先のコンべアーに乗ることができないからだ。でも、そのたびに、女性を愛せない自分の心に気づく。

作家・三島由紀夫と、生身の人間・平岡公威きみたけ(三島の本名)は、別人である。平岡公威は結婚もし、二人の子どもにも恵まれ、白亜の大豪邸も築き、天才としての名声も獲得した。「ノーベル賞作家になる」という目的だけは、達成できなかったけれど。

けれども、三島の心には、自分は「人並み以下なのだ」という、暗くて正直なコンプレックスがあった。『仮面の告白』ではそれを「結婚」という大人への階段を踏み出せない若者の悲劇として描いた。底に流れるのは「男性失格者」の哀しみではないか。

新潮社、『文豪ナビ 三島由紀夫』P27-29

まさにここで解説されるように、主人公は「社会普通の幸福である結婚」を求める。彼は自分が女性に性的関心がないことを痛いほどわかっている。しかし性的欲情がなくとも心が通じ合えさえすればそれも変わるかもしれない、女性を愛することができるかもしれないと彼は必死に努力する。・・・しかし、彼の一縷の望みはあっけなく潰えることとなる。その決定的瞬間を三島はあまりに強烈な文章で私達に突きつける。

私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じである。三秒経った。―私にはすべてがわかった。

新潮社、三島由紀夫『仮面の告白』P182

期待と不安、あまりに悲痛な願いと絶望。この三秒は文学史上に残る名文なのではないか。

このすべてがわかった」という一言の悲しみたるや・・・

『仮面の告白』は少年の悲痛な内面を吐露した作品だ。「世間一般の求める幸福」が自分には得られないという絶望。どうあがこうと自分は決定的に社会とはずれている・・・求める幸福は決して得られることはない。

私はこの小説を飛行機の中で読んだ。

どこへ向かう飛行機で?ー東京だ。

何をしに?ー妻とディズニーランドに・・・

私はあろうことか妻と初めて行くディズニーランドの旅路でこの小説を読んでいたのである。

そしてディズニーランドを歩きながら私は幸福感を味わっていたのであるが、そこで三島のこの小説が頭をよぎるわけである。「私は今幸福を感じている・・・・・が、もし感じることができなかったら・・・・・・・・・・・・・・どうなるのだろうか」と。

『仮面の告白』の主人公は頭では「二人での時間は幸せであるべき、いやあってほしい」と考える。だが、唇を重ねた三秒でわかってしまう感じることができないことを・・・。

頭で思い、考えることと、実際に感じることでは大きな溝がある。

ディズニーを歩きながら何度も何度も三島由紀夫が頭をよぎった。「なんてとんでもない毒を盛ってくれたんだ」と私は思わずにはいられなかった。

市ヶ谷駐屯地、自決直前の三島由紀夫 Wikipediaより

それにしても、三島由紀夫は早く死にすぎてしまった・・・彼が自刃した1970年の13年後に東京ディズニーランドはオープンすることになる。この夢の国に対して三島由紀夫は何を思うのだろうか。ぜひそれを書き残してほしかった。死なずに、その後の世界を見届け、私達に声を届けてほしかった。そんなことをディズニーを歩きながら強く思ったのであった。

しかし、私はその数日後驚愕することになる。

なんと、三島とディズニーには強い関係性があったのだ。

三島由紀夫とディズニーランド

三島由紀夫

三島由紀夫

川島勝著『三島由紀夫』によると次のように説かれている。

自決の年の正月、三島は家族でディズニーランド行きをたびたび提案したが、夫人は『豊饒の海』が完結したあとにしたいと断っている。

文藝春秋、川島勝『三島由紀夫』p234

なんと、三島由紀夫は自殺決行の年、「家族でディズニーランドに行こう」と夫人に打診していたのだ!しかも何度となくである!三島はディズニーランドに行きたかったのだ!

もちろん、1970年当時東京ディズニーランドはない。三島が言うディズニーランドはアメリカのディズニーランドのことである。

実はこの10年前の1960年に三島はカリフォルニアのディズニーランドを訪ねている。そして川端康成宛ての手紙の中で「ディズニー・ランドはとても面白く、世の中にこんな面白いところがあるかと思ひました」と語るほど楽しんでいたのである。

あの三島由紀夫がすっかりディズニーに夢中になっていた・・・。準武装組織である楯の会を自ら率い、最後には自刃した三島がディズニーランドでニコニコ顔で歩いていた。これはかなり強烈である。

だが、それも無理はない。ディズニーランドは単なる娯楽施設で収まるものではないのである。

三島をも魅了したディズニーランドの秘密とは

このことを考える上で鍵となるのは能登路雅子著『ディズニーランドという聖地』という本である。この本は「聖地」「信仰」「文化」という側面からディズニーを見ていく点にその特色がある。そしてその中でこんな記述があるのである。

「ファンタジーランド」のアトラクションの大半は、こうした勧善懲悪の昔話や童話を題材にとっており、善が悪の追跡から逃れて安全な世界に戻るという基本的な筋立てになっている。

ここで悪を代表するのは、魔女、トランプの女王、海賊船の片足の船長、サーカスの団長といった魔法や権力、邪心をもった醜い大人であり、一方の善は美しく純真な子供である。

これらのアトラクションを体験する老若男女の客たちは、入念に仕掛けられたディズニーの魔術によって「あらゆる年齢の子供」に変身し、全員が一緒になって邪悪な大人に追われる子供の役割を演じる。

どの物語においても、子供の味方となるのは、妖精やこびと、森の小動物、昆虫といった空想上の小さな生き物で、それらの助けを借りて子供たちは最終的な勝利をおさめる。

同工異曲ともいえるこのようなアトラクションの反復体験は、知らず知らずのうちに、訪問者たちにいくつかの魅力的なメッセージを伝えている。

「どんなに恐ろしいものでも、我々を滅ぼすことはない。」
「我々の肉体は老いも衰弱も死も超えて、永遠に若く美しい。」

すでにみたように、ディズニーランドは人間の意のままにならない自然の力を敷地から放逐した理想的な人口世界である。人間についても、これとまったく同じことが行われている。つまり、ここは現実の人間が成長とともに知る汚れ、老醜、そして死という生物学的法則を頭から否定した超自然世界なのである。

生者必衰の運命を背負った人間が太古の昔から追い求めてきた不老長寿、起死回生の奇跡といったすこぶる重大な主題が、陽気なこびとや妖精の助けによって、このように無邪気に、このように単純明快に語られる世界が、人々の心をとらえるのは当然である。

映画もテーマパークも含めてディズニーの作品を観客大衆が「理屈ぬきに楽しい」と喝采し、批評家たちの多くがディズニーに脱帽してきたのは、ディズニーが通常の批評能力の到底およばないお伽話の世界という大鉱脈を掘りあて、自らの錬金術にひたすら磨きをかけつづけたからにほかならない。(中略)

ディズニーの錬金術はこうして大衆の心も知識人の分析能力をも、まさにメロメロに溶かしてきた。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

岩波書店、能登路雅子『ディズニーランドという聖地』P115-118

「ここは現実の人間が成長とともに知る汚れ、老醜、そして死という生物学的法則を頭から否定した超自然世界なのである」

これぞまさにディズニーランドの本質を言い表しているのではないかと私も思う。

そしてこのことがなぜ重要かというと、まさにこの「老いと死の否定、永遠の生」こそ人類が求め続けてきた究極の願望であり、さらには宗教の説く教義の根本に据えられるものだからだ。

これぞディズニーランドの究極の魅力であり、だからこそ「大衆の心も知識人の分析能力をも、まさにメロメロに溶かしてきた」のだった。その究極の例として挙げられるのがここまで語って来た三島由紀夫その人なのである。

三島は「若さ」を理想視し、老いを厭うた。そしてディズニーランドの「物語世界に引き込むその力」に圧倒されたのではないか。相手を自分の物語に強制的に引き込むパワー。これは芸術家や作家にとって喉から手が欲しいものであり、目指すところでもある。

そしてそれが見事に体現されたのがディズニーランドなのだ。ここには有無を言わさず相手を取り込む強さがある。ディズニーという世界観に人々を取り込んでしまうのだ。ディズニーランドは究極の総合芸術なのである。

三島自身、小説や映画など様々な媒体で自身の思想を語って来た。そして自らの思想や物語を世に広め、自身の文脈に接続させようとした。しかしその結果はどうだったろうか・・・。

私はディズニーランドを思うと、三島の敗北を思わずにはいられない。人々を理想の物語世界に引き込むという点において、三島は完全敗北だったのではないか。メロメロに溶かされた三島自身、それに気づいていなかったとは思えない。三島がディズニーランドを

ここの色彩も意匠も、いささかの見世物的侘しさを持たず、いい趣味の商業美術の気品に充ち、どんな感受性にも素直に受け入れられるようにできている

岩波書店、三島由紀夫『三島由紀夫紀行文集』所収『美に逆らうもの』P221

と高く評価していたのもまさにここに由来するのではなかろうか。

ディズニー映画に親しむ三島由紀夫

ちなみに三島はこのディズニーランドを訪れる前からディズニー映画には親しんでいたようで、1951年からの世界一周旅行の船旅中、その上映会で『シンデレラ』や『バンビ』を見ていた。船上の三島にとって夕方の上映会は何よりの楽しみだったそうで、その中でも特に印象に残ったものとして『シンデレラ』を挙げている。(1953年「私の洋画遍歴」)

さらに1954年発表の『荒唐無稽』というエッセイでは次のようにも語っている。

恥かしい話だが、今でも私はときどき本屋の店頭で、少年冒険雑誌を立ち読みする。いつかは私も大人のために、「前にワニ後に虎、サッと身をかはすと、大口あけたワニの咽喉の奥まで虎がとびこんだ」と云つた冒険小説を書いてみたいと思ふ。芸術の母胎といふものは、インファンティリズムにちがひない、と私は信じてゐるのである。

地底の怪奇な王国、そこに祭られてゐる魔神の儀式、不死の女王、宝石を秘めた洞窟、さういふものがいつまでたつても私は好きである。(中略)

映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用をも持つてゐる。それが無害であるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、大人の中にもあり子供の中にもある冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な環境がなければならない。(中略)

ディズニィの漫画で、「不思議の国のアリス」の気違ひ兎と気違ひ帽子屋のパーティの場面は、私を大よろこびさせた。「ダンボ」の酩酊のファンタジーもよかつた。

『決定版三島由紀夫全集28』P294-295

なるほど、三島がディズニーを好きな理由はこういう少年冒険雑誌的なものへの愛好もあったのだ。

そして『不思議の国のアリス』と『ダンボ』が名指しして言及されているのも興味深い。私も『不思議の国のアリス』のパーティのシーンは大好きだったのでこれは嬉しかった。三島はもう完全にディズニーが好きなのである。あの三島を魅了するほどのものがディズニーにはあるのである。

こういうわけで私はディズニーにも強い関心を抱くようになった。当ブログでも「夢の国ディズニーランド研究」というカテゴリーで記事を更新してきたが、それにはこうした理由があったのである。

私のディズニー体験

余談になるが、私も昨年のディズニーランドで『美女と野獣』のアトラクションに乗った。『美女と野獣』は私にとってディズニーの中で最も好きな映画でもある。

正直、私はこのアトラクションに乗った後、涙をこらえるので必死だった。そのあまりに素晴らしさに、このアトラクションを制作した人を抱きしめて称えたいと思ってしまうほど感動してしまったのである。

ウォルト・ディズニーはディズニーランドを作る際、映画の二次元空間を現実の三次元空間に再現し、そこにゲストを入り込ませ、一緒に物語世界を体感することをその哲学にしていた。

まさにその哲学通り、このアトラクションの没入感は並外れたものがあった。

特に私は挿入曲《愛の芽生え》が流れるポイントの音の響きがあまりに心地よかったのが記憶に残っている。あれはあの空間だからこその音の響きだ。部屋のテレビやイヤホンでは感じられない感覚である。

また、最後の舞踏会のシーンでは私たちもまさにそこに参加しているという演出だった。そしてその前後左右の動きはまさに映画カメラのカメラワークのようにも感じさせられた。もちろん、ここでの音響効果も言うまでもない。本当に、油断したら泣きますよ。

そしてその舞踏会が行われている部屋から私たちは後ろ向きに進んでいく。その部屋から遠ざかるにつれベルと野獣がだんだん小さくなっていき、私達がこの『美女と野獣』の世界から離れ、現実世界に戻っていくことを感じさせられる。これは逆に言えば、私達がこれまで『美女と野獣』の世界にどれだけ没入していたかをゲストに感じさせる仕組みになっているのではないだろうか。

こうしたひとつひとつの作り込みに私はもう完全にノックアウトであった。感動でもう放心状態だった。私も三島由紀夫と同じくすっかりこの世界観にメロメロになってしまったのである。

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おわりに

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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