(39)マルクス・エンゲルスのイギリス亡命生活の始まり~二人はどのようにロンドンで生きていたのか
マルクス・エンゲルスのイギリス亡命生活の始まり「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(39)
上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。
これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。
この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。
当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。
そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。
この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。
一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。
その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。
では、早速始めていきましょう。
マルクス・エンゲルスのイギリス亡命生活の始まり
前回の記事ではフランス二月革命の勃発とエンゲルスの動きについてお話ししました。
今回はその続きの箇所となります。
マルクスがパリにきて一カ月もすると、反動勢力が彼に追いついてきた。当局から「ブルターニュのポンティノ湿地」に流刑にすると脅され、彼はロンドンへ亡命することを選んだ。
「だから、君はすぐにロンドンに発たなければいけない」と、彼はローザンヌで腐っているエンゲルスに書いた。「いずれにせよ、君の身の安全上、必要だ。プロイセン軍なら君を二度でも撃つだろう。⑴バーデンの件で、⑵エルバーフェルトの件で。そもそも、何一つできないスイスになぜ滞在するのだ……。ロンドンで仕事に取りかかろう」。
しかし、反革命的な時代にお尋ね者が、まだ戦火のくすぶるヨーロッパ大陸を通って脱出をはかるのはそれほど容易ではなかった。
フランスとドイツには入国できなかったため、彼はピエモンテ経由でジェノヴァに向かい、ロンドン行きのコーニッシュ・ダイヤモンド号に乗り込んだ。
バーデンの軍事行動で血を浴びた戦闘経験者エンゲルスは、マルクスのもとに急ぎ、四八年の革命には見事に蜂起しなかった一つの国の首都で、肩を寄せ合う亡命者や国外追放者、革命家、共産主義者からなる離散集団に加わった。大陸の動乱からは隔絶されたヴィクトリア朝時代の保守的なイングランドが、その後四〇年にわたって彼の住む場所となった。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P233
※一部改行しました
フランス二月革命を経てマルクス・エンゲルスは共に政治犯として追われる身になっていました。
そこでマルクスは政治犯でも受け入れてくれるイギリスを亡命先として選ぶことになりました。
エンゲルスもそうしたマルクスを追い、イギリスへと向かうことになったのでした。
マルクス家の貧困ロンドン生活
さらにありがたくなかったのは、ロンドンの滞在に伴う貧困だった。イェニー・マルクスは一八四九年九月に三人の幼い子供と、もうじき生まれる四番目とともに夫の後を追って海峡を渡った。
ハインリヒ・グイド(「フォークシー」というあだ名がついた)と名づけられたお腹の子は、一八四九年十一月五日に生まれたために、そんな煽動的な愛称がつけられた。〔一五七〇年の火薬陰謀事件を記念するガイ・フォークス・デイで、大反逆の罪で処刑されたグイド・フォークスに因む〕。
しかし、フリーランスのジャーナリス卜としての不定期の収入と、わずかばかりの出版契約があるばかりで、『新ライン新聞』を再刊しようとする試みは失敗に終わり、マルクスは家族を養える立場にはなかった。
イェニー・マルクスはのちにこの時代を、「たいへん困難で、厳しい欠乏状態がつづき、本当に悲惨な」一時期だったと書いている。栄養不足の兄や姉たちと一緒にぼろぼろのアパートに押し込められ、グイドは貧困と疲労のなかで乳児期を過ごすことになった。
「生まれて以来、この子は一晩中ぐっすり眠ることはなく、せいぜいニ、三時間でした。最近、激しいけいれんも起こしていて、つねに死と惨めな生のあいだを行き来しています。苦しみのあまり激しく乳を吸うので、私の胸はヒリヒリと痛みました。傷口が塞がらないのです。彼の小さな震えるロのなかに、よく血がほとばしりでました」と、イェニーは共産主義の友人であるヨーゼフ・ヴァイデマイヤーに宛てた、資金集めのための絶望的な手紙のなかに書いた。
イェニー・フォン・ヴェストファーレンのような由緒正しい貴婦人にとっては、マルクスが請求書から逃れ、巧みな話術で新しい住まいを手に入れたがために、ロンドン中をパン屋や肉屋、牛乳屋や管財人から追い回されるはめに陥ったことは屈辱的だった。
それは心身を衰弱させ、侮辱的な時代であり、幼いグイドはその影響をこうむった。「お知らせまでに、うちのチビの火薬陰謀家フォークシーは、今朝の十時に死亡した」と、マルクスは一八五〇年十一月にエンゲルスに書いた。
ここがどんな状態かは想像がつくだろう……。もし気が向いたら、妻に一言書いてやってくれ。彼女はかなり参っている」。
イェニーとカール・マルクスはほかにも二人の子供、フランツィスカとエドガー(「マッシュ大佐」)を、貧困と湿気、および疾病という、まさしく同じ有害なカクテルのために失うことになった。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P239-240
※一部改行しました
マルクスのロンドンでの貧困は有名ですが、私は少し違和感を感じてしまいます。後にその理由がこの本でも語られるのですが、ここでも言えることは、マルクスの貧困は自分で招いているという点です。
社会の構造上、労働者に貧困が多いのはわかります。
ですが、マルクスは反体制活動をし、革命を煽動した犯罪者としてロンドンにやってきました。
マルクス礼賛側からすると、この貧困はマルクスの苦難の生活、権力からの不当な仕打ちに耐えるマルクスという美談として語られがちですが、他の困窮者とは事情が違うのではないかと私は思ってしまいます。
マルクスが貧困に苦しんだのは事実として、それを無条件に美談とするのは慎重にならねばならないのではないかと私は考えています。
エンゲルス、生活のために父の会社で働くことを決める
エンゲルスの財政状況も、ソーホーのディーン通りにあるマルクスのアパートから通りを少し行った先にあるマックルスフィールド通りに寝泊まりしていたころは少しも芳しくなく、難民社会への支援を呼びかけながら、さまざまな出版契約にこぎつけようとしていた。
マルクスのような扶養家族はいなかったが、彼も同様の無収入状態に直面していた。通常は息子に甘い両親も、あまりにも多くの逮捕令状がだされたあと、ついに仕送りをやめてしまったからだ。
「あなたが生活できるようにお金を送るのは都合がよいのかもしれません」と、エリーゼ(エンゲルスの母 ※ブログ筆者注)は再度の催促にたいし書いた。「でも、私が罪深いと考える思想や原理を広めようとしている息子に、金銭的な援助をすべきだとあなたに要求されるのはとうてい尋常ではないと思います」。
ソーホーでの革命の機会が失われていく一方で、マルクスの苦境をますます懸念するようになったエンゲルスは、避けられない事態に備えることにした。
自分の食い扶持を稼ぎ、マルクスと彼らの理念を支えられる唯一の方法は、家族に頭を下げて和解し、家業に戻ることだった。
妹のマリーが家族のあいだの外交を巧みにこなしてくれた。「お兄さんは当面、自分の収入を確保するために、真剣に事業を始めたいと願っているのかもしれないと、私たちはふと思いいたりました。お兄さんたちの党に成功するそれ相応の見込みがでてきて、党のためにまた活動を始めてしまえば、事業からはすぐに手を引くのかもしれませんが」と、彼女は上手に言葉を選んで手紙を書き、両親からの祝福とともにエンゲルスに送った。
会社に復帰するのは楽しくはないかもしれないが、家業にとっては有益だろう、と彼の父親は付け加えた。これといった選択肢もほかになく、エンゲルスは臨時で働くことにし、労働者の革命が必要となれば、バリケードに戻れるようにした。
エンゲルスによれば、彼の父は「少なくとも三年間は僕にここで働いてもらいたがるだろうが、僕はたとえ三年でも、長期の義務を負いはしなかった。それに執筆活動についても、革命が起きた場合に僕がこの会社に居つづけることについても、何も求められなかった。そんなことは親父の頭には浮かびもしないのだろう。いまでは家の連中はすっかり安心している!」彼らがそう思ったのも無理はない。エンゲルスは家業のために一九年間働くことになったからだ。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P240-241
※一部改行しました
「通常は息子に甘い両親も、あまりにも多くの逮捕令状がだされたあと、ついに仕送りをやめてしまったからだ。」
ある意味これは驚きでもありますよね。この期に及んで「まだ仕送りに頼っていたのか!」と。
以前の記事でもお話ししましたが、エンゲルスはパリで革命活動をしながらも親の仕送りで豪快に飲み歩き、女遊びをし、愛人を囲っていました。
さすがのエンゲルスの両親も逮捕状がこれだけ出ている息子にはもう仕送りはできませんでした。
エンゲルスは困りました。彼には生活を維持する方法がもはや残されていません。
そこで彼は頭を下げ、ブルジョワの代表でもある会社経営者の父に頭を下げ、そこで働くことになります。
普通なら感謝してもいい場面ではありますが、エンゲルスは陰でそんな仕事を罵るというのですから、もはや清々しいほどです。やはりエンゲルスは振り切っています。矛盾をものともしない図太さが彼にはあったのでした。
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