梶川伸一『幻想の革命 十月革命からネップへ』あらすじと感想~飢餓で始まり、幻想で突き進んだ革命の実像
梶川伸一『幻想の革命 十月革命からネップへ』概要と感想~飢餓で始まり、幻想で突き進んだ革命の実像
梶川伸一著『幻想の革命 十月革命からネップへ』は2004年に京都大学学術出版会から出版されました。
早速この作品の内容を見ていきましょう。
共産主義の理想へ向かって着実に前進しているというボリシェヴィキ指導部の「幻想」が生んだ悲劇を,ロシア公文書館資料に基づき克明に描く。ネップが,戦時共産主義の延長上に構想されて市場経済が政策的に導入されたのではなく,飢餓民の自然発生的動向がそれを生み出したことを明らかにする.
京都大学学術出版会HPより
1921年、ソ連は大飢饉に見舞われていました。
ですが、この飢饉は天災ではなく、人災でした。
前年にレーニンは農民から徹底的に食料を収奪し、翌年に植えるための種まで持って行ってしまったのでした。
そのため農村では大混乱が起き、未曽有の飢饉に苦しむことになったのです。
このままではソ連は崩壊するということでソ連は新経済政策(ネップ)を打ち出すことになります。
それまではソヴィエトの理念である共産化のために経済活動の国営化を進めていましたが、ここにきて自由な商業をある程度承認することにしたのです。
このネップと飢餓の関係が本書の主要テーマとなります。
ソ連政府はあくまで飢餓の責任は認めません。歴史の必然性としてネップを見ます。輝かしい発展のためと宣伝し、多くの人はそれを信じました。
しかしその裏で都会とは離れた農村では地獄のような状況が続いていました。
そのひとつをここに引用します。
次に挙げる文書は、すべてから見放され、人肉食に至った、ブズルク郡アンドレエフスカヤ郷の三〇歳の男性の尋問調書である。
「文盲で既婚。家族は自分と妻、七歳の子供ミハーイルと乳飲み子からなる。おれたちの村では二一年九月から全員一人残らず飢えている。〔……〕最初は、雑草や飼犬や猫を食べたり、骨を集めてそれを砕いて雑草の粉末に混ぜたりしていた。
わたしは本で人肉食があることは知っていたが、それでもわたしは人肉を食べなければならなかった。
わたしの家に女性が訪れ、二週間おれたちと共に住んでいた。彼女は餓死した。彼女は〔村から一五ヴェルスタに住む寡婦で〕五〇歳であった。彼女は夜中に死に、そこでかかぁが、彼女の死体から肉をこそげて食べるために、それを煮込もうとわたしに持ちかけた。わたしは同意した。
わたしはナイフでふくらはぎの肉を削ぎ、煮込んで、子供に与えて自分も食べた。その後でおれたちはさらに切り刻んで食べた。頭部と脇腹を除いて、全部を食い尽くした。
わたしは、自分たちが人肉を食べたことを申し開くために、かかあをソヴェトに送り出した。おれたちの誰かを共同食堂に登録させるため、わたしはそうした。おれたち家族のうち、七歳の子供しか共同給食を受け取らず、わたし自身がドイツとの戦争での傷痍軍人で、左腕の骨が砕かれた。
おれたちの村には三箇所の共同食堂があり、そこでは一五〇人しか賄われていないが、ここの人口は二八〇〇人もいる。子供にはパン四分の一フントとスープ大匙一杯が与えられている。家での食事はつましく、子供の分から一切れでも取り上げると泣き出してしまう。
子供を施設に預けようとすると、この子には父と母がいて、そこは孤児しか受け入れないといって、預からなかった。わたしは、この村で何某が人肉を食べたことは聞いたことがなく、おそらく他の奴も食べているのだろうが、このことは秘密にされている。
わたしは自分のことを喋った。わたしを故郷に送り返さないように希うだけだ。好きなところに送ってくれ。腹が一杯になるためなら身を粉にして働くつもりだ。ミトンを縫うことができ、以前は御者を勤め、そのほかにパン焼き工場で助手として働いていた。家族は家に残り、かかあは病気で衰弱したために、あいつはわたしと離れることはできない。もうこれ以上申し上げることはない。
二一年春にはまとも経営を持ち、馬七頭、牝牛三頭、羊一〇匹を飼っていたが、馬二頭は自衛軍匪賊に持ち去られ、二頭の馬はオオカミに食われ、残り全部を食い尽くしてしまった」
京都大学学術出版会、梶川伸一『幻想の革命 十月革命からネップへ』P256
※一部改行しました
かなりショッキングな内容ですよね。この本ではネップという一見輝かしいソ連の経済政策の影で膨大な数の農民が餓死していったことを明らかにしていきます。
ネップによる市場の部分的な解放はネップマンと呼ばれる富裕な人間も生み出しました。それはモスクワなどの都市部に顕著で、農村の餓死の一方で驚くほどの繁栄を見せることになります。
こうした農村での悲惨な光景とは対照的に、二一年の間に大都市の相貌は大きく変容していた。モスクワでは現物税の導入とともに、各広場で自然発生的に市場やバザールが生まれ、夏以後にその数は急増し、商業施設が整備されるようになった。広場はアスファルトで舗装され、電気照明が付けられ、カフェ、電話機などが設置された。街路には着飾った人々が溢れ、商店には様々な品物が並ぶようになった。(中略)
モスクワの賑わいは別格であった。ネップへのドラステックな転換を強調するため、多くの文献は二一年末の都市での驚嘆すべき変容ぶりを描写してきた。しかし、これは二一年ロシアの原風景のごく一部でしかなく、その上で、これらの変貌はボリシェヴィキの政策理念の転換を決して意味しなかったことも、強調しなければならない。
二一年の飢饉が単に二〇年から続く旱魃などの自然災害をその基本的原因としない以上、そして十月革命以来綿々と続くボリシェヴィキの農民統治政策に基本的変更がない以上、割当徴発から現物税、さらには単一農業貨幣税へとその形を変えたとしても、ボリシェヴィキ権力による農民からの強制徴発が存続する限り、ネップ期においてもロシア農民の窮状はほとんど旧態依然のままであった。
京都大学学術出版会、梶川伸一『幻想の革命 十月革命からネップへ』P291-292
地獄のような農村部とは対称的にソ連政府の中心モスクワでは驚くほどの繁栄を謳歌していました。ソ連幹部はこうした繁栄の旨味を享受し、そしてそれを支持する都市住民も分け前に預かっていたのです。
こうしたモスクワのような繁栄をソ連は宣伝しました。そしてレーニンの政策を正当化する根拠としてこのネップが語られることが多かったのです。
ソ連の描く素晴らしい未来とネップが結び付けられがちですが、著者の梶川氏は当時の資料を基に、ネップがそもそも飢餓と結びついたものでありとても理想的な政策とは呼べるものではないということを述べていきます。
ソ連首脳部が描いた幻想が膨大な餓死者を招いたということをこの本では学べます。
ロシア革命の大まかな流れを知らないとわかりにくい内容であるので、入門書としては少し厳しいかもしれませんが、ロシア革命の実態を知る上では非常に興味深い本でした。
以上、「梶川伸一『幻想の革命 十月革命からネップへ』~飢餓で始まり、幻想で突き進んだ革命の実像」でした。
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