「貪欲と嫌悪とは自身から生ずる」~お釈迦様のことばに聴く
「貪欲と嫌悪とは自身から生ずる」~お釈迦様のことばに聴く
二七一 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛のよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、-あたかもこどもらが烏を投げすてるように。
二七二 それらは愛執から起り、自身から現われる。あたかもバニヤンの新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の欲望に執着していることは、譬えば、蔓草が林の中にはびこっているようなものである。
中村元訳『ブッダのことば』「第二、小なる章、五.スーチローマ p60」
皆さんこんにちは。本日も早速お釈迦様のことばに聴いていきましょう。
本日は「小なる章、五、スーチローマ」の節より2つの詩句を抜粋しました。
今回の詩句では怒りや欲望の煩悩がどういったものなのかということをお釈迦様は譬えを用いてお話しされています。
「怒りや欲望は自分の内側から生じてくる」
これは一見当たり前のように思えますが、よくよく自分のことを振り返ってみると意外とそのことは意識されないのではないでしょうか。
例えばです。
街を歩いていて、ふとショーウインドを眺めると、ものすごく素敵な服があったとします。
びっくりするほどの一目惚れです。どうしても欲しい。
見れば見るほど買わずにはいられない。欲しくて欲しくてたまらない。
買うのか買わないのか、どうしようどうしよう・・・いやぁでも欲しいなぁ・・・
今月はもう服を買ってしまったし、これも買ってしまったらもう赤字・・・
う~ん・・・えぇい!もう我慢できない!うん!買っちゃおう!
そうしてお店へと飛び込み、欲しくて欲しくてたまらなくなった服を思い切って買ってしまいます。
買った直後はもちろん、鼻息荒く大満足です。「いやぁ、いい買い物をしたな~」
しかし、数日経って財布の中を見てふと我に返ります。
あ・・・もうお金がない・・・そうだ、あの時あれ買っちゃったから・・・それにしても何であの時あんなに欲しくて欲しくてたまらなかったんだろう?今さらだけど赤字になってまで買うほどの服じゃないようにも思えてきた・・・
・・・そうだ!ショーウィンドであの服を見ちゃったのがいけないんだ!
あの服があそこで飾られてなければこんなことにはならなかったんだ!
悔しい!あれさえなければよかったのに・・・!
衝動買いで一時は大満足だったはずが、結局後悔することになってしまいました。
さてさて、ここで改めて考えてみましょう。
このケースにおいて、「欲しくて欲しくてたまらない」という気持ちはどこから生じたのでしょうか。
この人が言うように、この服がショーウインドにあったからいけないのでしょうか。
言い換えるなら、原因は服の方にあるということなのでしょうか。
では、ここでもう一度お釈迦様のことばに耳を傾けてみましょう。
「二七一 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛のよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、-あたかもこどもらが烏を投げすてるように。 」
お釈迦様によれば、怒りと欲望は自分自身の中から生じます。あくまでも、怒りと欲望の根本的な原因は私たち自身の内にあるということになります。
先程のケースで言うならば、衝動買いしてしまった服には何の罪もないのです。
問題は私たちの心そのものです。
何かを欲しいという煩悩がすでに私たちの心に存在しています。言うならば火薬満載の爆弾がすでに準備万端で私たちの心にセットされていて、あとは導火線への点火を待つのみになっている状態です。
「欲しい欲しい欲しい欲しい」
私たちの知らない内に煩悩は爆発する瞬間を今か今かとすでに待ち構えているのです。
そこに例の服が私たちの前に現れます。
すると待ってました!と言わんばかりに、その服が導火線への着火剤になります。
ジリジリジリジリ・・・・ドカーン!!
「欲しい欲しい欲しい欲しい」の大爆発です。こうなったらもう心は制御できません。
そうしてその服に心を奪われ衝動買いへと突っ走っていくのです。
服そのものに原因はありません。あくまで導火線に点火したに過ぎないのです。
根本は私たちの心そのもの。そこに原因があります。
服があったから欲しくなったのではないのです。
そもそも「何か」を欲していて、そこにちょうどいい火種が現れたから爆発したに過ぎないのです。
そうです。実はもの自体は何でもいいのです。たまたま今回はそれが目に映った服だったということなだけというわけです。
もしかしたらその対象は美味しそうな食べ物だったかもしれないし、素敵な異性だったり、才能や成功だったかもしれません。
それはそれこそその時の心の状態次第と言えましょう。特に、ストレスが溜まった時にどのようにそれを発散させようとするのか、ここにその制御できない欲望のパターンが隠されていることが多いようです。
また、怒りについても欲望と全く同じパターンです。
怒りの場合には特に「相手が悪いからこっちが怒るんだ」と思ってしまいがちですが、こちらもお釈迦様流に突き詰めて考えてみればやはり怒りの根本原因は自らの内にあるということになるようです。
相手が気に食わないから怒るのであって、相手そのものに怒っているのではないのです。気に食わないのは自分の心なのです。
私たちの心の中には火薬満載の爆弾がセットされています。それが点火を今か今かと待ち構えています。
一度点火されてしまえばあとは爆発するのみ。そして一度爆発してしまえば鎮火させるのはどんなに心の強い人でも困難です。
そうなってしまえば 「あたかもこどもらが烏を投げすてるように 」、訳者中村元の注釈によりますと、村の子供たちが烏の両足を糸で縛って放り投げるように私たちの心も縛られ放り投げられることになってしまうのです。
つまり、私たちが欲望や怒りに振り回されるのは、両足を縛られ放り投げられた烏のように自由のきかない状況だということなのです。
本来自由に空を飛べるはずの存在が両足を縛られ放られる。
これは不自由以外の何物でもありません。
欲望や怒りは私たちの感情ではあるものの、私たちの自由を奪うものなのです。
自分の意思で「欲しい」と思っているのではなく、もはや自分が自分自身の煩悩に縛られ、そう仕向けられているにすぎないのです。
そして厄介なことに、
「二七二 それらは愛執から起り、自身から現われる。あたかもバニヤンの新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の欲望に執着していることは、譬えば、蔓草が林の中にはびこっているようなものである。 」
とお釈迦様が仰られていますように、それらは蔓草が林の中にはびこるように私たちの心に巣食っているのです。
熱帯のじめじめしてうっそうとした森の中を想像してください。
皆さんの目の前には巨大な木があります。
その木は私たちが腕を広げたよりも太く、上を見上げれば枝が複雑に入り組んでいます。
そしてその枝ひとつひとつに蔓が絡みつき、木全体がその蔓に覆い隠されているかのようです。
これが私たちの心の状態です。
私たちの心に絡みついた煩悩の蔓草はものすごく複雑に私たちを縛り付けています。1本や2本引っこ抜いたところで次から次へと新たな蔓草がまた絡みついてくることでしょう。
私たちは自分の意思で何かを欲し、何かに対し怒りを感じていると思っています。
しかしお釈迦様の目にはそのようには映ってはいません。
私たちは煩悩に囚われ、その支配下に置かれた不自由な状態であるとお釈迦様は見るのです。
ーじゃあ私たちはどうすればいいって言うの?
こんな声が聞こえてきそうです。
お釈迦様はそれに対してなんと仰るでしょうか。
きっと、「いい質問ですね。ではこうしてみましょう。~~・・・・・」
とお釈迦様の説法が始まっていったのではないでしょうか。
お釈迦様は相手が求めてくるまでじっと待つお方であったと言われています。闇雲に自分の考えを押し付けるようなことをしないのがお釈迦様のスタイルです。
今回の記事ではその「じゃあどうすればいいのか」ということまではお話しできませんが、今回お話しした「煩悩という爆弾をどうするのか」、これが仏教の基本理念です。
煩悩に束縛された不自由な状態からいかにして解放されるのか。
これがお釈迦様の説く仏教の大きなテーマです。
では、本日はここまでとさせて頂きます。
本日も最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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