「生れによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、バラモンともなる」~お釈迦様のことばに聴く
「生れによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、バラモンともなる」~お釈迦様のことばに聴く
一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる。
中村元訳『ブッダのことば』第一、蛇の章、七.賤しい人 p35
さあ、本日もお釈迦様のことばに聴いて参りましょう。
今回の詩句も有名なことばです。
人は生れによって身分が決まるのではなく、その人の行う行為によって賤しい人ともなりバラモン(聖職者)ともなるのだというのがこの詩句の意味であります。
現代を生きる私たちにとっては割とすんなりと飲み込めてしまうことばのように感じてしまいますが、お釈迦様が生きていた当時のインドでは事情はまったく違いました。
インドにはカースト制度という厳格な身分制度があります。
その起源は古く、紀元前1200年代頃にはすでにその枠組みが作られ始めていたと言われています。
図にありますように、その身分制度の基本はピラミッド型の構造です。
上からバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの4つです。
カタカナの言葉だとピンと来にくいですが、言い換えてみますと聖職者、王侯貴族、市民、奴隷となります。
こう考えてみますと江戸時代の士農工商となんとなく近い気もしてきませんでしょうか。
そしてこのピラミッドの身分構造の下にアウトカーストというさらに下の被差別階級が存在しています。
これらカースト制度で重要なことは、これら全てのカーストが生れによって決定されているということでした。
その人がどんな人格であるか、どんな行為を為してきたかということはそこには関係がないのです。
自分で人生を選ぶことなどまったく不可能な社会だったのが当時のインド社会だったのです。
現代のインドでは公式にはカースト制度は存在しないことになっていますが未だにその影響がかなり根強く残っています。
さて、お釈迦様のことばに戻りますが、お釈迦様はこのカースト制度に対しこのように述べています。
「人は生れによって賤しい人やバラモンになるのではない。行為によって賤しい人ともバラモンともなる。」
たとえバラモンという高い身分であったとしても、その人の為す行いが醜いものだったり人を虐げるようなものばかりであったらそれは本当にバラモンと言えるのか。
身分が低いからと言ってその人は本当に賤しむべき人なのだろうか。アウトカーストであろうと人間が人間らしく生きることは可能なのではないか。
どうして生れだけでこんなにも人は区別されなければならないのか。
お釈迦様はこう語るのでございます。
つまりお釈迦様はカーストという、人間をはなからカテゴリー化して見ようとするあり方ではなく、ひとりの人間であるその人自身を観ようとしています。
また同時に、それぞれの人間がカーストに呪われることなく自分の生き方に尊厳を持つことを述べています。
「どうせ自分なんてこのカーストなのだから何をしたってどうしようもない・・・私は生れつき価値のない人間なのだ・・・」
そのような思いに苦しんでいた人達がインドには無数に存在していました。
だからこそお釈迦様は「それは違う。人は生れではなく行為によって人間になっていくのだ」と説法していくのであります。
もちろん、お釈迦様といえど社会の制度を変えることは出来ません。
お釈迦様がいくらそう言ったところで現実社会はカースト制度を手放すことはありませんでした。
しかし、お釈迦様が「それは違う。人の価値は生れだけで決められるものではない」と声を上げたことそのものが重要なことでした。
世の中に住む誰もが当然だと思い込んでいたものに異を唱える。
これは並大抵のことではございません。
多くの人々が薄々おかしいと感じていても、もしそれを口に出したら処罰されたり村八分に遭いその後の生活がままならなくなってしまう恐怖があったことでしょう。
そんな中お釈迦様は「人は生れによって価値が決まるものではない」と声を上げた。
だからこそ苦しんでいた人々はお釈迦様のことばに耳を傾けたのでしょう。
このお話は日本に生きる私たちにも無関係な問題ではありません。
例えばですが、肩書き。カースト制度とはだいぶ毛色の違った問題のように見えますが根っこのところではこれも繋がっています。
皆さんも肩書きで人を判断して決め付けてしまったことはありませんでしょうか。
気さくに話していたおじさんが実は偉い社長さんだったと知った時に思わず態度を変えてしまったり、逆に肩書きを知ってしまっているが故に最初から必要以上に卑屈に構えてしまったり・・・
私もそのような体験が何度もあります。
どうしても肩書きに左右されてしまう自分がいます。
もちろん、肩書きがまったく無意味なものであるというわけではありません。相手に対する敬意を失ってしまったら元も子もありません。
そうではなく、肩書きですべて判断しようとしてしまうというところに罠があります。
であるからこそ「それではいけないよ。もっとその人を観なさい。」とお釈迦様は言うのです。
そしてまた「自分自身も肩書きに甘んじてはいけませんよ。あなた自身の行いがあなたを作るのですよ」とお釈迦様は戒めているのです。
言うは易しですがこれを日々実行するとなると実に難しい・・・ですがそれが出来るような人間になりたいなとつくづく思います。
さて、ここまでカースト制度と絡めてお話ししてきましたが、カースト制度について言及しますとそのあまりの複雑さに短くお話しすることがとても難しくなってしまいます。まして現代にも続くデリケートな問題でもあります。単純化すると逆に本質的なものが伝わらずに失われてしまう危険性があります。
ですのでカースト制度そのものについてはこれ以上お話しすることはできませんが、仏教を知る上で非常に重要な背景のひとつです。興味のある方は様々な本が出ているのでぜひ読んでみてください。
では本日はここまでとさせて頂きます。
本日も最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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