(40)善鸞は本当に悪人だったのか~親鸞父子の悲劇を別の視点から

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(40)善鸞は本当に悪人だったのか~親鸞父子の悲劇を別の視点から
前回の記事「息子善鸞の義絶事件と親鸞の絶望~親鸞最晩年の悲劇とは」では、信頼していた息子に裏切られるという親鸞最晩年の悲劇についてお話ししました。
従来の真宗ではこの善鸞が悪人として語られることが多く、その結果、親を裏切ったどうしようもない息子というイメージが定着していました。倉田百三の『出家とその弟子』もそうした善鸞をモチーフに物語が描かれています。
ただ、はたして彼は本当に悪人だったのでしょうか。
実は近年そうした善鸞像が見直されつつあります。
今回の記事ではそんな「善鸞は本当に悪人だったのか問題」を今井雅晴氏の『親鸞の家族と門弟』という本を参考に検証していきたいと思います。
さて、親鸞は自分の弟子としても信頼していた善鸞を関東に送り込むことで混乱を収めようとしました。
親鸞のひ孫覚如による伝記『最須敬重絵詞』によれば京都時代の親鸞と善鸞は顔を突き合わせて深い信仰談義をしていたほど良好な関係だったとされています。こうして日頃から父の教えを聞いていた善鸞です。親鸞の念仏信仰は一通り理解していたことでしょう。
そしてその父から、関東で広がる造悪無碍や多くの間違った信仰を正してきなさいと送り出されて来たわけです。父の教えを守るため、善鸞は大きな使命感を持って関東にやって来たのではないでしょうか。
ただ、そんな善鸞を待っていたのは想像もしていなかった状況だったのです。
さあ、ここから善鸞が目にした状況を皆さんにお伝えするのですが、その前に関東の弟子たちの実態について見ていくことにしましょう。
以前もお話ししましたように、関東における親鸞の弟子はそのほとんどが武士でした。そして親鸞は北関東の各地で布教し、その地の有力な弟子を中心とした道場コミュニティーが出来ていきます。その中でも特に有力だったのが高田門徒、鹿島門徒、横曽根門徒という集団でした。
こうした関東の有力集団が最も重んじていたのが「面授の弟子」であるということです。親鸞聖人から直接頂いた教えを忠実に守っていくことに彼らは誇りを抱いていたのです。
以前紹介した山伏弁円を思い出して下さい。弁円も親鸞の人柄に感服し、その教えに深く帰依することになりました。尊敬する師の教えを大切にすることがどれほど大きな人生の支えになるか、私たちにもそれは想像することができると思います。
こういうわけで、それぞれの弟子が親鸞から直接受け取った教えを大切にするというのが関東の信仰スタイルでした。有名な『歎異抄』もまさにここから生まれています。
しかしです。ここにある問題が生じます。
教えの授け手は親鸞ひとりですが、その受け手は様々です。さらに言えば、その受け手ひとりひとりは全く異なる背景を持った人々ということになります。つまり、受け手によって親鸞の教えの解釈が異なってしまう危険があったのです。
例えば先ほど紹介した高田門徒ですが、この門徒集団のトップたる真仏、顕智の2人は長野の善光寺如来を元々信仰していました。そして親鸞に帰依した後も善光寺聖として善光寺との関係を保っています。

つまり、高田門徒は元々善光寺如来の信仰を持っており、その土壌の上で親鸞と出会い、教えを聞いていたということになります。
次の鹿島門徒も鹿島神宮との関係が根強い地域の門徒集団でした。そのため鹿島神宮信仰という背景を持ちながら親鸞の教えを聞いていくわけです。
最後の横曽根門徒も元々は真言宗のお寺から始まっているとされています。以前の記事で紹介した真宗木辺派の本山錦織寺も天台宗のお堂から出発したお寺でしたが、同じように、他宗からの宗旨替えによって門徒集団が成立しています。
こう見ていくと、親鸞が布教したのはまっさらな何もない真空地帯ではないのです。それぞれの地域で信仰されていた宗教にさらに上書きされていく形で親鸞の教えが受け入れられていったのです。
そう考えると、それぞれの門徒集団間で教えの受け取り方が違うのは当然ですよね。
しかも思い出してみてください。前にもお話ししましたが、親鸞の教えはただでさえ難しいのです。法然教団の高弟たちですら理解不能な独特な信仰を持っているのが親鸞という人間です。
『教行信証』の記事でもお話ししましたように親鸞は「阿弥陀仏から頂いた誠の心」こそ最も重要だと説くのですが、よくよく考えてみてください。「阿弥陀仏から頂いた誠の心」とはそもそも何なのでしょう。私たちの心と何が違うのでしょうか。どうしたらその心があるとわかるのでしょう。
しかも難儀なことに、親鸞自身もその心に迷っている節があるのです。親鸞自身は六角堂での夢告や法然との出会いで確固たる体験を経ています。そのため自身の信仰の核たるものを体験的に知っているわけです。しかしその親鸞ですら、後に「私は果たして阿弥陀仏のお心に適っているのか」と悩んでいるのです。
確固たる体験がある親鸞ですらこうなのですから、弟子達にはもっとわからないものだったことでしょう。
ですが、親鸞という圧倒的な存在とその教えは十分説得力があったはずです。弟子達は必死で学んでいたことでしょう。ただ、その親鸞の信仰の難しさ、空白の多さは自分たちで解決するしかありません。となると自分たちの経験からそれを埋めていくしかないのです。結果、各門徒間で様々な解釈が生まれてくることになります。
これが関東の実態でした。
ただ、親鸞が関東にいる間はまだよかったのです。わからないことやずれが生じた際にすぐに直接親鸞に問い合わせることができたからです。
しかし善鸞が派遣されたのは親鸞が関東を去ってから20年も後のことです。20年も経てばその小さなずれも大きなものとなっていたことでしょう。しかも親鸞という圧倒的な存在がいない以上、それぞれの門徒集団は自力でその求心力を保ち続けなければなりません。そうなると、かつて慣れ親しんでいた宗教と融和する形に変化していくのもやむをえないと言えましょう。やはりその地その地の風土、文化があるものです。それに合った形で親鸞の教えも変化していったと考えるのが自然です。
もちろん、弟子達が意図的に親鸞の教えを歪めたということではありません。それぞれが「面授の弟子」として真剣にその教えを受け継いでいるという認識だったことでしょう。これは後世の私たちが良い悪い、正しい正しくないで判断できる問題ではありません。文化とはそういうものです。生き物と同じように常に変化していきます。『利己的な遺伝子』で有名な生物学者リチャード・ドーキンスはこれを文化的遺伝子(ミーム)と呼びました。生物的な遺伝子と同じように文化も変化し続けるとドーキンスは指摘するのです。まさに親鸞とその弟子たちによって生み出された教え(ミーム)はそれぞれ独自の変化を遂げていったのです。
善鸞が関東で目にしたのはまさにこういう世界だったのです。
善鸞はさぞかし驚いたことでしょう。
「話に聞いていたのとは全く違うではないか!なぜお堂に善光寺如来が?鹿島神宮がなぜここに?なぜ真言の教えが?」
これに対し親鸞の教えを正当に受け継いだと自認する善鸞は何と言うでしょうか。
「あなたたちの教えは父親鸞の教えと違うではないか」と言ってもおかしくありませんよね。
これに対して各地の門徒集団はむっとくるわけです。それはそうですよね。いくら尊敬する親鸞聖人の息子だからといって、いきなりそれはないだろうと。我々は親鸞聖人から直接教えを受けている。あなたにとやかく言われる筋合いはないと突っぱねられても仕方ありません。
そして売り言葉に買い言葉。
「私は父親鸞から正しい教えを伝えられた。だから私の教えこそ正しいのである。父はあなた達には本当の教えを説いていないのだ」と。
いかがでしょうか。これまでの騒動が途端にリアルに感じられてきませんでしょうか。
こうして善鸞は関東で有力門徒たちと対立を深めていったのです。
そう考えると一概に善鸞を悪人と責めるわけにはいかないように思えてきます。
そもそも、誰がここに送られてこようが、いや、親鸞が来たところでどうにもできなかったのではないかとすら思えてなりません。関東にはすでに別の生態系が生まれつつあったのです。
こうして焦りを感じ始めた善鸞は暴走を始めます。関東の門徒が地域に根差した独自の教えを説いているならば、それに打ち勝つ教えがなければならない。父の難しい念仏信仰では伝わらないのだ。あれは父だからこそできたことなのだ。私にはそんな力はない・・・。であるならば・・・!
私は「偉大過ぎる父親」を持った善鸞の苦悩に同情せずにはいられません。圧倒的カリスマたる父親の存在。これに苦しむ息子がなんと世に多いことか・・・!
善鸞は父を守ろうとしたのではないでしょうか。しかし、すでに事態は彼の手に負えないところまで来ていたのです。善鸞は父を裏切ったのではなく、ただただ必死に守ろうとし、それに失敗したのです。
善鸞はたしかに関東の有力門弟からは受け入れられず、親鸞からも義絶されてしまいました。しかしその後も北関東で既存門徒から距離を置いた独自の門徒集団を形成しています。そして善鸞に同行していた如信(善鸞の子、親鸞の孫に当たる)は相変わらず親鸞一族と良好な関係でありました。なので一概に親鸞から隔絶した大悪人とはやはり言えないものがあると言えましょう。少なくとも、彼を慕う門徒集団がいくつも形成されたのは事実なのです。
そしてここからは私の私見をお話ししていきます。
私自身、この親鸞伝の執筆のため仏教書だけでなく、数多くの日本史の参考書を読んできました。特に親鸞の生きた時代における武士や貴族の歴史については入念に調べたつもりです。当ブログの「日本仏教とその歴史」のカテゴリーに投稿した本はその中でもおすすめの本を紹介しています。
そしてその上で私が思うのは、関東の弟子達が武士であったことの大きな意味です。
武士は命のやりとりを生業とする身分です。そして命令とあらば身内ですら斬らねばなりません。平治の乱・保元の乱はまさにそうした武士の論理が表出した出来事であります。そして源平争乱後の鎌倉幕府の内紛はまさに血で血を洗う惨劇の連続でした。裏切り者は身内ですら斬らねばならないのです。そうしなければ生きていけない過酷な世界だったわけです。だからこそ親子の情よりもはるかに強い信頼関係が必要だったのでした。
親鸞はそうした武士たちと関係を結んだのです。
そして彼ら弟子たちは「面授の弟子」として親鸞に命を預けたわけです。これは単なる師弟関係をはるかに超えたつながりだったのではないでしょうか。来世の極楽往生は当時の人々の根本的な願いであり、究極の関心事でした。これを託したというのはやはり並々ならぬ覚悟がいるのです。先にもお話ししましたように、それぞれの弟子はかつて別の信仰を持っていたわけですから。
それほどの覚悟を持ってそれぞれが門徒集団を形成していたわけです。そこに善鸞が急にやってきて「あなたたちは間違っている」と言ってきた。最初は尊敬する師の息子ということで丁重に扱ったでしょうが、それにも限界がありましょう。
彼ら武士にとっては、親子の血よりも深いつながりという論理があるわけです。ここに善鸞とのずれがあります。「あなたが親鸞聖人の子だからと言って何なのだ。我々は直接親鸞聖人から間違いなく教えを受けている。それにそもそもあなたは何だ?父親と違って大したことないではないか。」
これには善鸞も堪えたことでしょう。普段から命のやりとりをしている武士たちです。自分が認めた人間でなければ屈することはないはずです。親鸞が武士たちに信用されたのは、圧倒的なカリスマがあったからこそです。弁円が崩れ落ちるほどの存在だった親鸞。その威容が善鸞にはたしてあったのか。それは自ずから明らかでしょう。
しかも善鸞はその後もそれぞれの教えを非難し、ある門徒集団の弟子を90人も引き連れて出て行ってしまいました。弟子がいなくなるということは単に信者が減るだけでなく、その道場の収入基盤が失われるということにもなります。こうなると武士の論理がさらに強く出てくることでしょう。つまり、自分の領地が荒らされたというわけです。
さらに善鸞は訴訟を繰り返し、弟子達との訴訟合戦へと進んでいきました。こうなると単に信仰面だけでなく、物理的な生活レベルの争いにまで発展してしまいます。つまり生存権の戦いです。こうなればもう謝って済むものではなくなります。
こうしてエスカレートした善鸞事件が終結を迎えたのが親子の縁を切る義絶でありますが、私はここに武士の論理を見てしまうのです。
私はかつてこの善鸞事件についてこう思っていました。
「どうして親鸞は善鸞を呼び戻さなかったのか。本当に悪意を持ってやっていたのかを本人に確かめることなく縁を切るのはやりすぎではないか。一旦善鸞を預かってその上で関東の弟子達と協議すればよかったのではないか」と。
皆さんいかがでしょう。「たしかに!」と思えませんか?
しかし親鸞はそうしなかった・・・。
ですが、様々な参考書を読み、この時代の武士の論理に思いを馳せている内に私はこう思うようになったのです。
親鸞は関東の武士たちに対し、けじめを付けたのではないかと・・・。
つまり、武士であるならば身内であろうが秩序を乱した裏切り者は斬らねばなりません。親子の血よりも大事なものがあるのです。親鸞は武士たちとの深い繋がりを通してそれを痛いほど知っていたのではないかと私は思うのです。
「さて親鸞殿。あなたはどちらを取るのです。あなたが説いた教えも所詮親子の血には勝てぬのですか?」。
親鸞の無情なまでの善鸞への仕打ちはこうした無言の圧力の下行われたのではないかと私は想像してしまうのです。
だからこそ善鸞は問答無用で切り捨てられた。そのけじめがあったからこそ関東の弟子達はこれまでと変わらず親鸞への忠誠を誓った・・・。
いかがでしょうか。これはあくまで私の私見です。記録として残っていない以上、史実としては確かめようがありませんが、私は善鸞事件にこうした背景を見てしまうのです。私にはどうしても善鸞が悪人のようには思えません。
もちろん、関東の弟子たちの方が親鸞の教えに忠実だったからこそ親鸞が弟子達を信用して善鸞を義絶したという側面もありましょう。これが基本線です。関東の弟子と親鸞の信頼関係はやはり強固なものがあります。しかしこうして関東にひとり送られた善鸞にどうしろと言うのでしょう。気の毒としか言いようがありません。これは弟子と善鸞、どちらが悪いという問題ではなかったのではないでしょうか。
そして善鸞を義絶することになってしまった親鸞も気の毒でなりません。親鸞も目算を誤ったのです。関東の問題は造悪無碍の困った者たちのせいだと思っていたら問題はもっと本質的なところにあったのです。善鸞を手元に置いておいたままだったらこの悲劇はなかったことでしょう・・・。
これが私の思う善鸞事件の内実です。
まさにシェイクスピア的としか言いようのない「父子の悲劇」だったと言えましょう。これは親鸞が人生の最後の最後で耐え忍ばねばならない運命の一撃だったのです。
こうして親鸞は苦しい最晩年を送ることになります。
しかしやはり親鸞は偉大なお方だった・・・!
普通ならば立ち直ることのできないこの絶望的な苦しみの中、親鸞は書き続けるのです。
次の記事ではそんな親鸞の最晩年の驚異的な執筆活動について見ていくことにしましょう。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『日本中世の社会と仏教』
野口実『北条時政』
元木泰雄『河内源氏』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
高橋修『熊谷直実 中世武士の生き方』
細川重男『鎌倉幕府抗争史』
主要参考文献一覧はこちら

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