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ボスニア紛争とトンネル博物館~サラエボの奇蹟!市民の命をつないだトンネルを見学 ボスニア編③

目次

サラエボの奇蹟~命をつないだトンネル!ボスニア紛争とトンネル博物館 僧侶上田隆弘の世界一周記―ボスニア編③

4月27日。

今日から本格的にボスニアの観光が始まる。

今回ボスニア滞在のサポートをお願いしたのがBEMI TOURさんという現地ツアー会社。

ボスニアは他の国に比べると日本国内で事前に得られる情報が圧倒的に少ない。

さらに治安の不安もあった。

そして何より、ぼくは紛争のことを現地の方から直接お話を聞いてみたかった。

ただ紛争の跡地を見て回るだけでは決してわからないことを、ぼくは知りたかったのだ。

そこで何が起こり、極限の状況下で現地の人は一体何を感じていたのだろうか。

そのことを知るためにはやはりただ現地に赴くだけでは不十分で、現地の方のお話を聞くことがどうしても必要だったのだ。

左が松井さん、右がミルザさん

お二人はご夫婦でツアー会社を運営されていて、今回のぼくの旅には現地ガイドとしてミルザさん、通訳として松井さんが同行して下さった。

と言っても、ミルザさんも日本語はかなり上手。ただ紛争の微妙なニュアンスなどをより正確に伝えるために松井さんが一つ一つ丁寧に翻訳して伝えてくれた。

おかげでより深い学びをすることができ、なおかつ聞きたいことがあればすぐに質問することができた。

英語で自分の言いたいことを表現するのはとても難しい。しかも紛争という難しい内容ではなおさらだ。

そんなときに日本語で話ができるというのは何よりありがたいことだった。

天気はあいにくの雨。

今日はもともと旧市街ウォーキングツアーの予定だったのであるが、雨のため急遽翌日に予定していたトンネル博物館ツアーに変更。

臨機応変な対応をしてくださるのもとてもありがたかった。

トンネル博物館ツアーは車での移動になる。

今日のメインの目的地、トンネル博物館はサラエボ空港のすぐそば。

ぼくが宿泊している旧市街のエリアからは少し距離がある。

スナイパー通り

サラエボ空港やトンネル博物館へ続く幹線道路は、紛争当時スナイパー通りと呼ばれていた最も危険な道の一つだった。

その名の通り、紛争中はここを通る人間は女子供問わずスナイパーによって狙撃されたのだ。

以前述べたようにサラエボの街は山に囲まれている。

遮蔽物のないこの通りは山に陣取るセルビア側のスナイパーからは絶好のポイントとして狙われてしまうのだった。

ホリデイ・イン

そのスナイパー通り沿いに建つ有名なホテル、ホリデイ・イン。

ここは紛争中、ジャーナリストの拠点として用いられ、ここから世界中にボスニア紛争の惨事が発信されていた。

現在もホテルは営業している。

さて、トンネル博物館に到着。

家の壁には銃弾の痕が残っている。

ふと目線を下げると、何やら赤いマークが。

―ミルザさん、これは何ですか?

「砲弾が落ちた場所にこうして印をつけています。

 この印がある場所に砲弾が落ち、人が亡くなりました。」

・・・銃弾だけじゃない。

ここは砲弾も飛んできていたのだ。

そして、ここで人が亡くなったのだ・・・

博物館に入ると、サラエボ包囲の状況を示したパネルが展示されていた。

見ての通り、赤いエリアがセルビア人側の包囲網。

サラエボの街はほぼ全エリアを囲まれてしまっている。

しかも街の周りは全て山。

見晴らしの良い高台からサラエボの街は丸見え。

セルビア人側の圧倒的優位な状況。

この赤いラインから絶え間なく砲弾や銃弾が撃ち込まれていたのだ。

しかも豊富に武器弾薬を有するセルビア人側と、完全に包囲され物流もストップしたサラエボ市民。

そのような絶望的な状況を打破するために、ある計画が立案される。

その舞台がここ、トンネル博物館のある場所だったのだ。

トンネル博物館からサラエボ空港は目と鼻の先。

紛争当時サラエボは完全に包囲されていたが、空港は国連の管理下に置かれていた。

そのためセルビア人側もうかつには手を出せないでいた。

そこに目を付けたサラエボ市民は空港の滑走路を横切る形でトンネルを掘り、外から空輸される物資をサラエボの街に届けようとしたのだ。

滑走路とトンネルのルート

なぜトンネルにしなければならなかったのか。

それは国連が管理している滑走路ですら安全とは言えなかったからだ。

さらに言えば一歩空港から出ればもうスナイパーの標的となってしまう。

物資を運んでいるところなど、それこそ格好の的だ。

そこでセルビア人側に悟られることなく物資と人を移動させるためにトンネルを掘ることになったのだ。

トンネルの入り口も敵にばれないように民家を利用した。

当時ここに住んでいた人が家を提供したのだ。

現在は博物館として利用されているが、紛争中は実際にここがトンネルの出入り口として使われていた。

このトンネルはサラエボの生命線だったのだ。

地下に少し下りたところからトンネルは始まる。

当時はこのトンネルが800mほどもあったそう。

現在はほとんどが埋め立てられているがこうして紛争当時のことを伝えるために一部が保存されている。

この狭いトンネルの中をトロッコで何度も何度も往復し、空輸されてきた物資を運んでいったのだ。

物資だけではなく人の移動もこのトンネルが支えていた。

トンネルを掘っている様子を記録した映像をこの後で見たのだが、物資も技術者も不足している中でこんな長いトンネルを作り上げたサラエボの人たちの技術や精神力には驚くしかない。

ぼくが同じ目に遭ったら、そんなことできるのだろうか・・・

人が生き抜こうとする力の強さに、ぼくはただただ圧倒されるのみだった。

トンネル博物館には紛争当時の写真や資料も数多く展示されていた。

凄まじい破壊の痕。

サラエボの街に発射された砲弾の威力をまざまざと感じさせる。

一方的な破壊。

サラエボの人たちはただ耐え忍ぶしかなかったのだ。

これはサラエボ市民が持つことのできた武器。

セルビア人側は高性能なマシンガンやライフルを豊富に持っていたのに対してサラエボ側はたったこれだけの装備。

物資のないサラエボ市民にとってはそれでも貴重な武器だったのだ。

それらの装備の中でもぼくが最も衝撃を受けたのがこれだ。

手製の防弾ベスト。

明らかに生地はただの薄い布。

そして裏地にも防弾用のプレートが備え付けられているのだろうが、どう見ても強度があるようには見えない。

―これで本当に弾を防げるんですか!?

「はい。ピストル程度なら。

 ライフルの弾は無理です。

 ですが、ないよりはましです。これで戦うしかなかったのです。」

ピストル対高性能ライフル。

手製ベスト対最新鋭の防弾チョッキ。

こんなのもはや勝負にならないではないか。

あまりにも一方的。

だが、それでもサラエボ市民は粘り強く耐え続けたのだ。

トンネル博物館での見学を終え、次の目的地であるヴレロボスネ自然公園へと向かう。

車中ぼくは思った。

やはりサラエボに来てよかったと。

現地に来て、そして直接お話を聞くこと。

このことがいかに大切であるかを痛感した。

本や映像でしか知らなかったボスニア紛争が急にリアルなものとしてぼくの目の前に現れ出した。

今日はまだ初日。これからもっと多くのことを知り、学ぶことになるだろう。

次の目的地はヴレロボスネ自然公園。

とても緑鮮やかで水がきれいな場所とのこと。

サラエボ市民の愛する憩いの場だそうだ。

続く

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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