(25)ブッダ死去後の仏教の歴史を極簡単に解説~仏教教団の歩みと伝播。日本伝来についても一言
【現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】(25)
ブッダ死去後の仏教の歴史を極簡単に解説~仏教教団の歩みと伝播。日本伝来についても一言
前回の記事「(24)ブッダのクシナガラでの入滅~従者阿難と共に最後の旅へ出かけるブッダ。80年の生涯に幕を閉じる」までの全24回でブッダの生涯を大まかに見て参りました。
今回の記事ではそのまとめも兼ねてブッダ死去後の仏教の歩みについて極々ざっくりとお話ししていきます。世界にまたがる2000年以上の歴史をほんの1ページでわかりやすくまとめるというのはあまりに無謀なことではありますが、あくまで極々ざっくりと見ていくことにしましょう。
では早速始めていきます。
ブッダ滅後の経典結集
ブッダ亡き後、一番最初の課題となったのはブッダの教えをどうまとめ、どう継承していくかということでした。
これはどういうことかといいますと、この時代のインドには教えを文字に書き残すという習慣がなく、全て口頭で継承するのが普通のことだったという背景があります。しかもブッダの説法は独特で、人によってその教えを柔軟に変えていくという対機説法を行っていました。つまり、その人の悩みや気質によって異なる教えを語っていたのです。
もしブッダが自分の教えを体系的にまとめた聖典のようなものを残していれば問題がなかったのですが、今申しましたように、当時のインドにはそのような習慣はありません。もちろん、ブッダの基本的な教えは弟子達の間でもすでに共有されていたでしょうが、それとは別の多種多様な教えがそれぞれの弟子に授けられていたのでした。
ブッダという絶対的なトップがいなくなってしまった以上、これから先は「これはどうしたらいいでしょう?」と相談できる相手もいなくなります。また、弟子同士で解釈の違いが起きてもそれを絶対的な権威で仲裁してくれる人もいません。こうなると、そうしたことを防ぐための「より体系的なルールと教えの定式化」が必要になってきます。
こういうわけでブッダ教団の弟子達が一堂に会し、教え(経典)の編纂に取りかかったのでありました。これを結集と言います。この時に中心となったのは高弟マハーカッサパとブッダの従者だったアーナンダになります。特に、アーナンダは多門第一と呼ばれるほど抜群の記憶力を持ち、ブッダの教えを一言一句記憶していたと言われています。ブッダの一番そばで長きにわたって仕えたアーナンダです。その彼が教えを記憶していたおかげで結集は無事完了しました。ここで編纂されたお経、すなわちブッダの教えを「アーガマ」、漢訳では「阿含経」と言います。
ブッダ滅後約100年後に起こった第二次経典結集~ブッダ教団の分裂へ
一回目の結集はそこまでの混乱もなく無事終了することができましたが、これにはこの結集がブッダを直接知る弟子達によって行われたという背景もありました。ですがブッダが亡くなってから100年も経つと、もはやブッダと直接面識のある人もいなくなってしまいます。さらには時代も移ろいゆき、ブッダ教団のあり方も変わってきました。
やはり草創当時のいわば家族経営のような教団から、すでに古代インドにおいて完全に定着した大教団となるとその運営も全く性格の異なるものになっていきます。
そしてついにブッダ教団の中で決定的な事件が起こることになってしまいました。そのきっかけが第二次結集になります。
この時の結集で主要な議題となったのは、教団が受け取るお布施として金品や塩などの保管可能な食糧を認めるべきか否かの問題でした。
これには仏教教団における切実な問題がありました。ブッダ在世時の弟子達は基本的には自分の財産を持たず遊行生活を送っていたのですが、時代を経て僧院に定住する出家者が増えていったのです。
ブッダ教団が大きくなるにつれ、土地や建物を寄進する人が増えました。そしてそれに付随して信者側から「ここに定住して我らのためにいてほしい」という働きかけもあったことでしょう。これに対しては僧院に滞在することで出家者側としても集中して瞑想修行に励めるというメリットもあり、相互作用的に僧院生活が広がっていきました。
しかしこうした僧院生活が始まるとどうしても実務上お金や食料、その他諸々の物品などと関わらざるを得なくなります。木の下や洞窟の中で野宿しながら生きていた頃とは時代が違うのです。また、信者側の求めることもかつてとは異なってきていたのでした。
そんな中保守的なグループがこうした状況を認めず、昔と変わらぬルールであるべきだと強く主張します。
その結果保守的なグループ「上座部」と、新たなあり方を是とする「大衆部」の二つへと仏教教団が分かれてしまったのでした。これを根本分裂と言います。
そしてここからさらにグループは細かく分かれていき、それぞれの部派が独自に仏教を説いていくことになりました。
この記事の冒頭、私は「ブッダ滅後の歴史を極々ざっくりとお話しします」と言ったものの、この二つの結集についてはかなりじっくりと見てきました。この調子で話し出すといつになったらこの記事が終わるのかと不安になるかもしれませんがご安心ください。私がこの二つの結集を取り上げたのには理由があります。
まず第一に、「ブッダの教えは唯一絶対のものではない」ということを知るのに、この結集という出来事はあまりに重要なものだからです。
先にも述べましたようにブッダは対機説法という方法を取りました。これにより様々な教えが説かれることになるのですが、時には相矛盾することすら説かれるという事態を引き起こしました。これをどう解釈するかで弟子たちの見解がどうしても分かれてしまうのです。
さらにブッダは自らの思想を体系化して聖典化することもなかったので、教えと教えの連関性がわかりにくく、多くの空白が存在してしまっています。つまり、単発の教えが並べられているだけという状態なので、それをどう解釈すればいいのかということが受け手側に委ねられてしまうのです。
また、一神教のように、唯一絶対神からの聖なる言葉として語られたわけでもないというのも重要です。これにより、多様な解釈を許容する余地があることになります。
こういうわけで、お経というものは唯一絶対のものではなく、さらには解釈がどんどん分かれていくというのが必然の運命だと言えるのです。
皆さんも「なぜ仏教にはこんなにたくさんのお経や宗派があるのだろうか」と疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。それにはこうした背景があったのです。ブッダの教えには空白がありすぎるのです。その空白に対し、それぞれの宗派が独自の解釈を行い、経典がさらに生み出されていきます。私達日本にも伝わった大乗経典も大きく言えばその流れの一つだということができます。厳密に言い出すとかなりややこしい話になるのでここではこれ以上はお話しできませんが、仏教経典には唯一絶対なものはなく、多種多様な経典がそれぞれのグループから生み出され続けたというのが仏教のユニークな点だと思われます。だからこそ仏教は時代や地域を超えてこれほどまでの広がりを持つことができたのではないでしょうか。
アショーカ王の登場
さて、ここからはさくさくっと進んでいきます。
ブッダが亡くなってからちょうど100年後、アショーカ王がマウリヤ王朝の王として即位しました。年代としては紀元前268年頃と言われています。マウリヤ王朝は当時全インドを統治した大国で、その力は絶大でした。その王が仏教に深く帰依し、インド中にブッダの偉大さを記念する柱を立てたのです。仏教がインド全土に広がったのは彼のおかげだと言われています
そしてその中でも最も有名なのがサールナートで発見されたライオンの柱です。
これはインドの歴史上最高峰の彫刻として知られ、インドの国章としても採用されています。
私もこのライオンには圧倒されました。あまりに精緻!これがインド最高の彫刻作品のひとつと言われるのもよくわかりました。
そしてアショーカ王が歴史的に重要なのは、こうした柱の存在によってブッダの歴史が証明されたという点にあります。と言いますのも、インドでは13世紀初頭に仏教が滅び、その後忘れ去られていたため、遺跡はほぼ土に埋まっていたのでした。しかし19世紀のイギリス統治下で発掘が行われ、これらの柱に書かれた碑文からブッダの遺跡であることが証明されたのです。もしアショーカ王の柱がなければインドの仏跡は分からずじまいだったかもしれないのです。というわけで、アショーカ王は私達の大恩人だと言うことができるでしょう。
スリランカへの仏教伝来
そしてこのアショーカ王の息子マヒンダもすごかった!彼は出家僧侶としての道を歩み、高名な長老となりました。そして彼はスリランカに渡り、仏教を伝えたとされています。これは紀元前3世紀の後半の頃だったと言われています。
ちなみに上の写真がスリランカ仏教伝来の地ミヒンタレーになります。伝承によればこの岩の上でスリランカのティッサ王とマヒンダ長老が会談し仏教が公式に伝来したとされています。私もここを訪れましたが、その伝説にふさわしい厳かな山でした。スリランカで最も印象に残った場所のひとつです。
サーンチーの仏塔など、仏教美術が盛んに
ブッダ滅後しばらくは仏教美術というものはなかなか発展しなかったようですが、紀元前二世紀頃より大掛かりな美術作品を伴ったストゥーパ(仏舎利塔)が作られるようになっていきました。その代表がサーンチーの大ストゥーパになります。
人と比べればその巨大さがわかると思います。紀元前二世紀に全てが作られたわけではありませんが、芸術的な作品が、しかもかなりの高水準の芸術が表現され始めたというのは重要なポイントです。
また、この時にはまだブッダの姿は芸術には表されていません。神聖な存在であるブッダは畏れ多いので菩提樹など様々な象徴を用いて表すのが一般的でした。
紀元後1世紀末~2世紀頃、仏像の登場
ブッダが亡くなってからおよそ400年以上も経ち、ようやくここで仏像が現れてきます。
仏像の始まりとしてよく言われるのがガンダーラではありますが、実はもう一か所候補地があります。それがタージマハルのあるアグラからも近いマトゥラーという地になります。
ちなみに、かなりざっくりではありますが赤い丸で囲ったエリアがガンダーラです。
こちらが1世紀末頃から2世紀にかけて作られたマトゥラーの仏像。
そしてこちらがガンダーラ仏になります。マトゥラーがインド的で肉感的なものを感じさせるのに対し、ガンダーラはより写実的でシャープな印象を受けます。人種も互いに明らかに違いますよね。
ただ、この両者、どちらが先だったのかというのは学術的にもまだ決着がついていません。ただ、どちらが先かはわかりませんが、「ブッダの姿を芸術化してはいけない」というタブーを打ち破ったという点で非常に画期的なことだったと言えます。ここから先、ストゥーパよりも仏像製作が盛んになり、仏像への信仰も生まれてくることになります。
大乗仏教の誕生
仏像の製作開始と同じ紀元一世紀頃、仏教教団内でも大きな動きが出てきます。それが大乗経典の誕生です。
大乗仏教という名称自体は皆さんもよく耳にすると思います。私達日本人が信仰している仏教は基本的にこの大乗仏教になります。ただ、この大乗仏教とは何ぞやという話を始めると分厚い本一冊があっという間に出来上がるほどなので今回はそれは置いておきます。
大事なことは、『般若経』や『法華経』、『阿弥陀経』など私達の信仰する大乗仏教のお経たちが紀元1世紀頃に徐々に生まれ始めたということです。ここから私たちの日本仏教の流れへと繋がっていきます。
中国への仏教伝来
中国への仏教伝来は諸説あり、正確にはわかりませんが、それが初めて行われたのは紀元1世紀後半頃ではないかとされています。仏教伝来が本格化したのは2世紀の安世高や支婁迦讖ら訳経僧が中国を訪れるようになってからです。
ただ、中国にはすでに儒教や道教があり最初から仏教が盛んに信仰されたわけではありません。
仏教が盛んになるにはまだまだ時間が必要でした。
アジャンタ、エローラ、サールナートなどインド仏教美術の全盛期
上で仏像の始まりについてお話ししましたが、時代を経てその他にも素晴らしい仏教芸術の世界が開かれていきました。
その有名なものがアジャンタやエローラ、サールナートになります。
こちらはムンバイ近くにあるアジャンタ遺跡で、壁画が有名です。
こちらもムンバイ近くにあるエローラ遺跡で、こちらは岩をくり抜いた仏像が有名で、個人的にインド仏跡のベストスポットです。身体に電流が流れるほどの衝撃でした。これらアジャンタ、エローラ遺跡についてはまた別記事でじっくりご紹介していきたいと考えています。
そして3つ目のサールナートですが、ここはガンジス河で有名なバラナシ(地図上ではワーラーナシー)の郊外に位置します。上の地図で赤丸で囲ったエリアですね。
ここはブッダの初転法輪で有名な聖地で、さらにマトゥラー、ガンダーラと並ぶ仏像製作のメッカとしても知られています。その中でも5世紀頃に作られたサールナート仏はインド仏像の最高傑作として有名です。
チャンドラグプタ王のグプタ王朝がインドに成立~ヒンドゥー教王朝の登場で仏教が劣勢に
西暦320年頃、インドでグプタ王朝が成立しました。この王朝はヒンドゥー教を重んじたため、この時代にヒンドゥー教の勢いが増してくることになります。ヒンドゥー教はすでに紀元前4世紀頃から仏教やジャイナ教などとも相互に影響を与え合いながらその教義を確立させ始めていましたが、ここに来てインドで爆発的に流行を見せるようになります。
また、仏教教団としてはさらに苦しいことに、ローマ帝国が衰退した結果貿易が下火になり、メインスポンサーだった大商人が次々と没落していくという事態も重なります。こうして主要な支援を失った仏教教団は徐々に求心力を失い始めていくのでした。
中国仏教の隆盛
4~5世紀になってくるとインドから中国へ多数の経典が持ち込まれ、一気に漢訳が進むことになりました。そしてさらに時を経て6世紀にはインドでは起こらなかった新たな展開が生まれてきます。
それが大乗経典をベースにした仏教宗派の誕生でした。実はインドでは大乗仏教がそれほど主流になった形跡がほとんど見られず、むしろ伝統的な上座部と共存する形で細々と信仰されていたのでした。(※この辺りの事情はグレゴリー・・ショペン『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』を参照)
仏教発祥の地インドで成立することのなかった大乗仏教の宗派。それが遠く離れた中国で花開いたのです。
ここから中国では大乗仏教の経典をベースにした宗派たる天台宗や法相宗、浄土教信仰が盛んになっていきます。
仏教の日本伝来
日本の仏教伝来は従来538年説と552年説がありますが、いずれにせよ中国から朝鮮経由での伝来となっています。この時期は上で述べましたように、まさに中国において仏教が勢いを増していく時代にありました。そのような時代背景において日本に仏教が伝来しそれを受け入れたというのは、この時代にしてすでに日本が東アジアの国際社会の政治情勢を敏感に捉えていたということになるかもしれません。
玄奘三蔵のインドへの求法の旅
そして忘れてはならないのが玄奘三蔵の存在です。
彼は「三蔵法師=玄奘」というくらい日本でも有名な高僧ですが、彼が世界的に有名になったのは三蔵(経、律、論という経典群)を求めて中国からはるばるインドへ旅し、大量の経典を無事中国へもたらし翻訳したという偉業にありました。
そしてそんな彼の旅が『西遊記』のモデルとなったことはもちろんですが、彼の『大唐西域記』の記述に従って19世紀にイギリスが仏跡を発掘したという驚きの事実があります。玄奘のこの記録がなければ仏跡は発掘されず埋まっていたままだったかもしれないのです。その意味でも玄奘の偉大さは不朽のものがあると言えるでしょう。
インドにおける密教の流行と中国への波及。最澄と空海の入唐も
また、7世紀頃よりインド仏教では密教が盛んになっていきます。密教とはその名の通り、秘密の教えのことです。さらに具体的に言いますと火を使った儀式や呪文を唱えることで悟りの境地へと向かおうとする仏教になります。厳密に言うならばもっと細かい定義がありますでしょうが、極々ざっくり言うならばそのような神秘主義的な仏教ということになります。
ただ、この密教も仏教から独自に生まれたのではなく、ヒンドゥー教との競合から生まれてきたというのは重要なポイントです。
上でも述べましたように、グプタ王朝の登場から仏教はヒンドゥー教に押され始めていました。ヒンドゥー教は元々インド一般民衆の支持を受けていたバラモン教の流れを引き継ぎ、さらには土着の信仰も吸収して巨大な宗教体系を持つようになっていました。また、儀式や儀礼も洗練され、人々の心を捉えるようになっていきます。
密教はまさにこうした流れに対抗するべく、ヒンドゥー教的な儀礼を取り込んだ結果生まれたものでした。護摩を焚いたり、呪文や道具を使うのもまさにそこと繋がってきます。
こうした動きの中密教は急成長し、インドやスリランカ、東南アジアの仏教徒の間にも浸透していきました。インドネシアのジャワ島にある世界最大級の仏教遺跡ボロブドゥールはまさにこの流れの中で生まれています。
やがて密教は東南アジアだけでなく中国にも進出し、最新の仏教思想として流行することになりました。そしてくしくもそのタイミングで中国にやって来たのがあの最澄と空海なのです。特に空海は密教の師匠である恵果からその全てを伝授され日本で真言宗を大成します。
先程の日本仏教伝来の箇所でも少しお話ししましたが、ここでも日本はアジア世界の国際情勢の最先端をすぐさま取り入れることに成功しているのです。しかも今回の密教に関しては〈中国ー日本〉の関係性だけでなく、東南アジアの国際情勢まで網羅した仏教コミュニティに参入することも意味しています。かつての日本は私の想像よりもはるかに国際的な情報を掴んでいたようです。これには私も驚きました。
インド仏教の衰退と滅亡
さて、ヒンドゥー教の儀礼を取り入れ密教化したインド仏教ですが、思わぬ副作用に悩むようになります。
それが仏教のヒンドゥー化でした。
これまでの連載記事で見てきましたように、仏教はバラモン教への批判から始まってきました。つまり本来バラモン教との連続物であるヒンドゥー教的なものとも異質な宗教であるはずだったのです。それが密教化を通してヒンドゥー教的なものへと変わっていってしまったのです。
こうなると仏教の独自性は失われ、ますます希求力を失うことになってしまいます。
さらにはヒンドゥー教もブッダをヒンドゥー教の三大神たるヴィシュヌ神の化身として扱うようになっていきました。
ヴィシュヌ神には様々な化身がいることで有名で、その中の一つとしてブッダが置かれ、ヒンドゥー教の中でブッダがインドの神様として祀られるようになってしまったのです。こういうわけでインド人にとって仏教はヒンドゥー教の中に吸収されたという印象になってしまったのでした。(逆に仏教ではヴィシュヌ神を観音菩薩として取り入れているのでお相子と言えばお相子ですが・・・)
こうして徐々にインドにおいて仏教の力は弱まることになります。かつては王侯貴族や大商人という強力な支援者がいたものの、もはやインドはヒンドゥー教王朝が主体で、商人もヒンドゥー教に帰依する者ばかりでした。元々一般民衆からの支持が薄かった仏教ではありましたが、頼みの綱であるこれら大スポンサーも不在の今、インド仏教の命運は風前の灯火でした。
そして最後の時が訪れます。
それが12世紀末から13世紀初頭にかけてのイスラーム勢力の侵入でした。一神教文化である彼らにとって仏教寺院は憎むべき異教の神殿です。彼らは仏像を打ち壊し、徹底的に僧院を破壊し、仏教教団に再起不能のダメージを与えました。
こちらがインドで最も重要な僧院であったナーランダー大学跡です。ここもイスラームの侵入により徹底的に破壊されてしまいました。
ナーランダー大学は王舎城からも近い位置にあり、あのサーリプッタ(舎利弗)やモッガラーナ(目犍連)がこの周辺の村の出身だったと言われています。そしてここは古くから学問の中心として知られ、5世紀にはインドの学問の最先端を行く大学としての機能を果たすようになりました。
あの玄奘三蔵が天竺(インド)を目指したのも、ここに来るためだったのです。ここには1500人以上の教授が常駐し、1万人ほどの学生が日夜勉学に励んでいたとされている、まさに仏教研究のメッカでした。玄奘はここで学ぶために命を賭けてインドへ旅立ったのです。
しかしそれほど繁栄を極めていたナーランダー大学も12世紀末のイスラームの侵入により破壊され、貴重な書物も全て灰燼に帰してしまいました。その炎は半年間燃え続けていたと言われています。
左の写真の塔の下部にある頭の無い仏像が見えますでしょうか。このように、偶像崇拝を認めないイスラーム勢力によってインド国内の仏像は破壊されることになりました。また、右の写真は図書館跡になります。実際に行ってみてわかったのですが、この図書館は現代の基準から考えてもかなり巨大です。半年間火が消えなかったというのも納得してしまうほどでした。
こうしてイスラーム勢力の侵入によりインドの仏教は滅びることになりました。もちろん、これはあくまで最後の決定打であり、その以前にすでに仏教は衰退していたというのが重要なポイントになります。
こういうわけでインドでは仏教が滅び、忘れ去られ、いつしか土に埋まった存在へと変わってしまったのでありました。
そこからインドの仏教が再発見されるのは19世紀のイギリスによる発掘調査を待たねばなりません。
これがブッダ滅後の仏教の極々ざっくりとした流れとなります。
おわりに~あとがきにかえて
こうして仏教発祥の地インドでは仏教が滅びることになりましたが、仏教そのものはその土地その土地のあり方に合わせて変化しながら世界各地へと広がっていきました。
『新アジア仏教史05 中央アジア 文明・文化の交差点』の中で「仏教はインドで梱包されて中国に送り届けられたわけではない」と語られていたのはまさにその通りです。
インドから中国へ伝播していくだけでも中央アジアの文化をふんだんに吸収し、中国国内に入ってからも中国固有の文化や歴史と絡み合い、仏教は変容していきました。
そして日本に伝来してからも中国の仏教そのままのコピーではなく、日本固有の土壌や社会状況と結びつき、独自の仏教が生まれていくことになります。
この連載記事ではブッダの生涯だけでなくその時代背景にも注目してお話ししてきましたが、その理由はこうしたことにも繋がってくるからなのです。
「宗教は宗教だけにあらず」
まさしく仏教もその通りです。中国や日本だけでなく、タイやミャンマー、スリランカの仏教もインドそのままではなく現地の文化と融合してその地に根付きました。
仏教発祥の地インドでは残念ながら滅びてしまった仏教ですが、こうして変化しながら世界中に広がっていったというのは実に興味深いものがあります。その地その地にフィットして変化できる余地があるというのも仏教のポイントなのかもしれません。
そういう意味で、私はインドに行き日本仏教の可能性について深く確信するものがありました。互いの仏教をリスペクトしながらも、私達は私達の仏教に自信を持ってよいのです。誇りを持ってよいのです。今こうして受け継がれてきた教えを大切にする意義は必ずあるのです。
私自身、昨年から今年にかけてインド・スリランカを訪れ、仏教に対する思いを新たにしました。これから先も「私にとって仏教とは何か」を問い続けながら学んでいきたいと思います。
では、これをもってあとがきとさせて頂きます。25回にわたりお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
2024年3月31日 函館錦識寺 上田隆弘
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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