⑶ブッダはなぜ家を捨て出家したいと願ったのか~カピラヴァストゥでのブッダの青年期と四門出遊

カピラヴァストゥ 仏教コラム・法話

【現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】⑶
 ブッダはなぜ家を捨て出家したいと願ったのか~カピラヴァストゥでのブッダの青年期と四門出遊

ブッダの青年期~なぜブッダは王位を捨て出家しようとしたのか

何不自由ない贅沢な暮らしを続けていたブッダでありましたが、やがて彼は出家へと心が動いていくことになります。

その代表的なエピソードが「四門出遊しもんしゅつゆう」です。

カピラヴァストゥの東門

これはブッダがカピラヴァストゥの東西南北の四つの門で出会った人々を見て出家を志そうとした非常に重要な出来事です。ブッダはこれまで宮殿に閉じこもり、スッドーダナの目論見通り、世の中の悪や苦悩とは無縁の生活をしていました。そんな彼が宮殿を出て外へ出ていこうと馬車を繰り出したのがこの物語のきっかけです。

仏伝『ブッダチャリタ』ではこの四門出遊が次のように描かれています。最初に出てくるシュッダーディヴァーサ神はインド土着の神様のことです。インドの神々もブッダの出家を望んでいるということをここで示しているのでしょう。では少し長くなりますが重要な箇所ですのでじっくり読んでいきましょう。

王子は、清潔で地味な衣服をまとった慇懃な人々の群がる行啓の道を初めて見て喜んだ。自分自身も生まれかわったかのような気もしたのである。

一方、シュッダーディヴァーサ神たちは、その都がまるで天界であるかのごとくたのしげなさまを見て、王子の出家を促すため、一人の老人を創り出した。

すると、王子は、老いに打ち負かされ、人々とは異なった姿となったこの男を見つけ、大いに関心を持ち、眼差しを動かさず、彼をじっと見つめて、御者にたずねた。

「御者よ、髪は白く、手で杖にすがり、目は落ち窪んで眉に覆われ、身体はたるみ曲がっているこの男はだれか。この変わりようはもともとなのか、偶然なのか」

このように言われて御者は、かの神たちによって分別をなくされていたため、過ちともわからず、隠すべき事柄ではあったが、王子に告げてしまった。

「美しい姿を奪うものであり、体力を破滅させるもの、悲しみを生み出すもの、快楽の果てるところ、記憶を消すもの、もろもろの感官の敵である老いと呼ばれるものによって、この男は砕かれております。

というのは、あの男も幼児のときは乳をのみ、時へて地をはい、順を追って美しい若者となりましたが、また同じような順を追って年を取ったのですから」

そう言われて、王子はすこし動揺し、御者に「この弱点は、私にもあるのだろうか」とたずねた。すると、御者は彼に言った。

「長寿をまっとうするあなたも、疑いなく時の力によってこのように年をとられます。このように老いが容色を滅ぼすことを知りながらも、人々はそこへ行こうとするのです」

すると、出世間の道(法)に従おうという前世からの意志によって心が清められ、無数の劫の間、善業を積んだ偉大なこの人は、老いのことを聞いておののいた。あたかも雷鳴をすぐ近くで聞いた牛のように。

深くため息をつき首をふりながら、その老いた男をみつめ、また喜んでいる人々を見て、彼はおののいて言った。

「このように老いは、だれかれの区別なく、記憶、容色、気力を奪う。人々は眼前にこのような者を見つつもおののかない。

それゆえ、御者よ、馬をもどせ。すみやかに館に帰れ。心に老いの恐怖があるかぎり、どうして庭園を喜ぶことができよう」

そこで御者は王子の命により、馬車を引き返した。そして王子はかの館に入ったが、心は思いわずらい、空家に入ったかのようだった。

だが、そこでもなお彼は、老い、老いと考えめぐらし、心は休まらなかった。それゆえ、前と同じように彼はまた王の許しを得て外出した。

すると、かの神たちは、身体が病に冒されたもう一人の男を創り出した。その男を見つけ、シュッドーダナ王の息子はその男をみつめたまま御者にたずねた。

「腹がふくれあがり、息をするたびに身体が上下し、肩と腕がだらりと下がり、肢体は痩せて青白く、他人に寄りかかりながら、『お母さん』と哀れに叫んでいるあの男はだれか」

すると御者は言った。「この男はかつては壮健だったのですが、今は身の自由もきかないようになってしまいました。殿下、それは、体液の不調より生じて力を増した、病という大きな不幸のせいなのです」

王子は憐れみを覚えてその男を見つめながら統けた。「この弱点はこの男にのみ起こったのか。病の恐れは生きものにおしなべてあるのか」

すると御者は「王子様、この弱点は人に共通のものです。このように人々はもろもろの病におしつぶされ苦痛にあえぎつつも、一方でたのしんでいるのです」

そのように真実を聞いて、王子は心沈み、波間に映る月のように震えた。男を哀れに思い、幾分低い声で彼は言った。

「これは生きものがもつ、病という禍いなのだ。それを見ながら、人々は平気でいる。もろもろの病の恐れから解き放たれることなく戯れている人々の無知は、ああ、なんと大きなものか。

御者よ、外出より引き返し、王宮に馬車を進ませよ。病の恐れのことを聞いて、私の心はたのしみどころではなく、縮んでしまうかのようだ」

そして、喜びも消え、彼は帰途につき、思案に耽りながら館に入った。彼が二度もこのように帰ってきたのを見て。王は調べてみた。

そして王は、帰ってきた原因を聞くと、自分が王子に捨てられたと感じた。王は道を整備する係の者を叱責したのみで、怒ったけれども重い刑を科することはなかった。

また、王は、感官にすばらしく訴えるものを、かの息子のためにあてがうよう取りはからった。感官のうつろいやすさに捕らえられて、多分、自分たちを捨てないであろうと望みながら。

しかし、王の息子は、後宮の中で音楽などの感官の諸対象によってもたのしむことはなかった。それゆえ、王は、気分も変わるだろうと考えて、外出するよう命じた。

愛していたゆえに息子の気持ちがわかっていた王は、愛欲のもついかなる危険をも考えずに、芸に通じている者をと思い、ふさわしい遊女たちが王子に侍るように命じた。そして、行啓の道が念入りに美しくされ、調べられたあと、王は御者と馬車をかえて、王子を外出させた。

そのようにして王子が進んでいったとき、かの神たちは一人の死者を創り出した。道を運ばれていくその死者を御者と王子は見たが、他の者は見なかった。

そこで王子は御者に言った。「四人の人に運ばれ、悲しげな人々に付き添われていて、飾られてはいるが嘆かれているあの者はだれなのか」

そのとき、御者の心は本性が清浄なるかのシュッダーディヴァーサ神たちによってとらえられていたため、事実を知る彼は言うべきではなかったことも主人に述べてしまった。

「この者は、だれかはわかりませんが、知性、感覚、息、さらにもろもろの性質が無くなり、眠っており、意識なく、草木となってしまったのです。愛する人々により努力して育てられ、守られてきましたが、今捨てられるのです」

この御者の言葉を聞くと、王子はすこしたじろいで言った。「これはこの男にのみ起こることなのか。すべての生きものの終わりはこのようなものか」

御者は王子に答えた。「これはすべての生きものの最後のありさまです。卑しいものであれ、中位のものであれ、偉大なものであれ、この世においてすべてのものの消滅は定まっております」

王子は堅固な心の持ち主ではあったが、死のことを聞くとたちまち心沈んでしまった。彼は馬車の欄干の先に肩でもたれかかり、震え声で語った。

これが生きものに定まった帰結なのに、人は恐れず平気でいる。このように死への道にありながら安閑としているのだから、人の心はかたくななものだと思う。

だから、御者よ、われわれの馬車をもどせ。園遊の時でも場所でもないから。消滅を知った以上、心ある者がどうして今この破滅の時に平気でおられよう」

講談社、梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』P34-38

この『ブッダチャリタ』では描かれていないのですが、基本的な仏伝ではこの後にもう一度外出し、その時に出家修行者と出会ったことでブッダは出家の志を固めたという流れとなっていきます。

宮殿で何不自由ない生活をしていたブッダが本格的に目覚めていくきっかけとしてこの四門出遊のエピソードが語られたのでありますが、ブッダもこの時いくら若いとはいえ、老いや病、死を知らなかったはずがありません。このエピソードで重要なのは、老いと病と死をブッダが自分の問題として実感したところにあります。単なる知識ではなく、それこそ全身を通じてその存在を感じたところにブッダの衝撃があったのでしょう。

これは私達も一緒ですよね。頭では自分が死ぬ事も病気になることも老いることもわかってはいます。ですが全身を揺るがす現実の問題として本当に自分がそれを実感しているかといえばなかなかそうはいきません。他人事として傍観してしまうのが実際のところでしょう。しかし一度その老病死の恐怖を自分の問題として体感したならば世界の見え方は変わってしまいます。こうした人間のあり様をブッダもここで体感したのでしょう。

そして最後にもう一点、『ブッダチャリタ』を読んで特に印象に残った箇所があります。以下のブッダの言葉に私はハッとしました。

惑いの依りどころである王位に、賢い人がどうしてつくことができるでしょうか。王位には恐怖と驕慢と疲労がつきものであり、他人を不当に扱うことによって、正義を滅ぼすことがあります。

王位は楽しいものではありますが、火のついた黄金宮殿のように、毒をもったとびきりのご馳走のように、鰐に満ちた蓮池のように、災いのもとであります。(中略)

心の安らぎを楽しむなら、王権はゆらぎます。王権に意を用いると、心の安らぎは崩壊します。心の安らぎと罰の厳しさはいっしょになりません。冷たい水と熱い火が一つにならないように。

講談社、梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』P102-103

少し先回りになりますがこれは「出家した王子を連れ戻すようにやってきた大臣・宮廷祭官の二人とゴータマとの緊張感に満ちた議論の応酬(第九章)」の中のブッダの言葉です。

ブッダはなぜ王位を捨てたのか。ブッダは王位のことをどう思っていたのかがここで端的に示されています。

ブッダの出家の根本的な動機は宗教的な悟りを得るためです。ですが、それはあくまでも究極、根本的な動機であって、ブッダの生活には実際レベルの様々な動機もあるわけです。四門出遊で病人や死人を見たこと、瞑想的な性格だったこと、美しい女性たちの醜い寝姿を見たことなどなど、様々な要因が重なってついに出家へと繋がったわけです。

ですのでこの王位への嫌悪感というのも大きな理由の一つとして見ていく必要があります。

私は以前、『カウティリヤ実理論』というインドの古典を当ブログで紹介しました。

詳しいことはリンク先の記事を参照して頂きたいのですが、この『カウティリヤ実理論』では王が為すべき権謀術数の数々が説かれています。しかもこれがあのマキャヴェリの『君主論』にも比される相当えげつない帝王学が説かれているのです。

この本を読んでいると王族で生まれることが全く羨ましくありません。どんなに贅沢ができたとしても私は謹んでその権利をお返ししたいと思いました。ブッダももしかしたらそういう気持ちだったのかもしれないと『カウティリヤ実理論』を読んだ時に私は思ったのでありました。

いずれにせよ、ブッダは王位を捨て出家修行者となることを固く決意することになります。

次の記事で実際にブッダが住んだカピラヴァストウを見ていくことにしましょう。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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