太宰治『駆込み訴え』あらすじと感想~ユダの裏切りを太宰流に翻案!人間の弱さ、ずるさ、いじらしさの極致!
太宰治『駆込み訴え』あらすじと感想~ユダの裏切りを太宰流に翻案!人間の弱さ、ずるさ、いじらしさの極致!
今回ご紹介するのは1940年に太宰治によって発表された『駆込み訴え』です。私が読んだのは新潮社、20203年第百五刷版『走れメロス』所収の『駆込み訴え』です。
早速この作品について見ていきましょう。
『駈込み訴え』は「中央公論」昭和十五年二月号に発表された。夫人の言によると、よどみなく一気に口述したと言う。まことに天才と言う以外ない。「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い」と息せき切って訴える口調に、ぼくは先代中村吉右衛門の熱演を想像してしまう。作者がもっともあぶらの乗った時期、永年の胸の思いを一気に吐露したような迫力あるたたみこむような文体の、人をぐいぐい引込まずにはおかぬ傑作である。
新潮社、太宰治『走れメロス』P291-292
本作『駆込み訴え』は前回の記事で紹介した『富嶽百景』と同じ時期の、いわば太宰の復活期に書かれた傑作短編です。
上の本紹介にありますように、この物語は「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い」というまさに「駆込み訴え」から始まります。誰が何を訴えのか。それこそまさにユダがイエス・キリストを売ったというあの有名な聖書の出来事なのです。
ユダの裏切りはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名な最後の晩餐でもモチーフとなっています。この最後の晩餐でイエスは「12使徒の中の一人がが私を裏切る」と予言し、一同大慌てという図がこの絵で描かれています。
その裏切り者こそユダであり、そのユダがどのように裏切りを働いたかを太宰流に描いたのが本作『駆込み訴え』になります。
せっかくですので、冒頭の数ページを読んでいきましょう。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。あの人は傲慢だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちとどこかの野原でのたれ死していたに違いない。「狐には穴あり、鳥には塒、されども人の子には枕するところ無し」それ、それ、それだ。ちゃんと白状していやがるのだ。ぺテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢を言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。謂わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。
新潮社、太宰治『走れメロス』P140-142
いかがでしょうか。ユダはこの感じで最後まであと20ページをこのまま喋り通します。上の箇所を読んで頂ければ感じて頂けますように、まさに流れるようによどみなく言葉があふれ出てきています。解説で「夫人の言によると、よどみなく一気に口述したと言う。まことに天才と言う以外ない。」と述べられていたように、まさにリアルに語るがごとしの恐るべき作品です。
そしてこの最初の箇所だけを読んでいると、「ふむ、ユダの言うことももっともだ」とも見ようによっては思ってしまうのですが、この後ユダの語りに次第に異変が起きてきます。まあ、一言で言うならばぼろが出てくるのです。
ユダの最初の訴えはイエスを批判し、「自分は虐げられた。奴はペテンだ」という告発でしたが、どうやら彼の訴えはそれが主な理由ではなく、彼個人の歪んだ愛のもつれであることがほのめかされてきます。
私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。ぺテロやヤコブたちは、ただ、あなたについて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。けれども、私だけは知っています。あなたについて歩いたって、なんの得するところも無いということを知っています。それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません。どうしたのでしょう。あなたが此の世にいなくなったら、私もすぐに死にます。生きていることが出来ません。私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもお止しになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります。
新潮社、太宰治『走れメロス』P143-144
私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。
新潮社、太宰治『走れメロス』P144-145
私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。今にがっかりするのが、私にはわかっています。おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高うせられると、あの人は約来なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。私は、なんの報酬も考えていない。
新潮社、太宰治『走れメロス』P145
私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。そうして、出来ればあの人に説教などを止してもらい、私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。ああ、そうなったら!私はどんなに仕合せだろう。私は今の、此の、現世の喜びだけを信じる。次の世の審判など、私は少しも怖れていない。あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。ああ、あの人を殺して下さい。
新潮社、太宰治『走れメロス』P145-146
いかがでしょうか。どんどん饒舌になっていくユダ。最初の告発とはだいぶ毛色が変わってきました。
ユダはイエス・キリストの説く愛を全く理解せず、この世の人間的な愛しか見ようとしません。ですが滑稽なことに、彼は彼なりの無償の愛をイエスに注いでいるのです。そしてそれが報われないからこそ、いっそイエスを殺してしまえという発想に至ってしまうのでした。
ユダは弱い。とてつもなく弱い。
しかし彼は単に弱いだけでなく弱い者の論理、いじらしさ、プライドを持っています。この、弱き者のプライド、いじらしさは太宰の得意中の得意分野です。太宰はユダに憑依し、この後も告発とも自己破壊とも取れる訴えを続けます。その勢いは一向に衰えません。あまりに強烈です。
巻末の解説では本作について次のように述べられています。
こういう文章は一生に何度も書けるものではない。「聖書」から材をとったものであるが、キリストとユダ、それは反対法の役割を自らに課した太宰治の文学、生き方の中核にあるモチーフである。ユダの中にあるキリストに対するアンビバレンツな愛憎を、ここまで切実に心理的に表現した例を知らない。キリスト教国の人間には書けない文学とも言える。ぼくはこの作品を飜訳、出版し、西洋諸国の人々に読ませたい気がする。ここに太宰の終生の悲願が、かなしみが、宿命がこめられている。このキリストとユダの関係は、さらに『右大臣実朝』の実朝と公暁の関係に、『斜陽』の母とかず子、直治の関係に、再追求される。身もだえし、血を吐くような切ない内心の訴えが、見事な文学的芸と、文体と、思想により、計算され、支えられている。文学とは永遠に弱い小人のユダの側にあるのであろうか。
新潮社、太宰治『走れメロス』P292
「こういう文章は一生に何度も書けるものではない。」
そう、まさに「なぜこんなものが書けるのだ!一体どうなっているのだ太宰は!」と思わざるをえないほどよどみのない真っすぐなユダの告発です。ものすごい作品です。太宰作品をこれから先私は読んでいくことになったのですが、その中でも一番印象に残ったのがこの作品です。
ページ数にして20頁ほどという短い作品ですが、その濃密具合は異常です。この20頁を裏切り者のユダがひたすら喋り倒します。これは恐るべき作品です。
ぜひおすすめしたい名作です。ぜひ読んで頂ければなと思います。
以上、「太宰治『駆込み訴え』あらすじと感想~ユダの裏切りを太宰流に翻案!人間の弱さ、ずるさ、いじらしさの極致!」でした。
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