(15)モーツァルト級の才能と驚異の頭脳を発揮する神童ベルニーニ~16世紀ローマの特殊な社会状況も紹介
【ローマ旅行記】(15)モーツァルト級の才能と驚異の頭脳を発揮する神童ベルニーニ~16世紀ローマの特殊な社会状況も紹介
ベルニーニは1598年にナポリで生まれた。父は有名な彫刻家で、彼の才能は父から受け継いだものでもあったのである。では、石鍋真澄の解説を見ていこう。
モーツァルト級の神童、早熟の天才ベルニーニ
父のピエトロ・べルニーニは、二年ほどローマのサン・ルカ美術アカデミーの院長をつとめたことからも分かるように、充分名の知られた彫刻家だった。今日彼は有能な後期マニエリスムの彫刻家と評されるが、ローマに現存する作品を見ると、繊細さのある、なかなか優れた彫刻家だったと思われる。しかしながら、ちょうどレオポルド・モーツァルトの場合と同じように、偉大な息子を育てなかったならば、ピエトロ・べルニーニは、ごく一部の識者にその名を知られるだけだったであろう。
その偉大な息子ジャン・ロレンツォ・べルニーニが明敏な知性の持主だったことは、いろいろな資料から明らかである。
彼は歴代の教皇やローマの知識人と親しく交わったが、教皇アレクサンデル七世は、べルニーニがいつも才能のみで高い教養のある人々と話せるのに驚く、と言ったと伝えられる。
また、やはり親交のあったイエズス会の総長オリーヴァ師は、「彼は彼の芸術の栄光によってすべての君主なわけですが、彼はその他多くの理解と英智とを心にもっており、それは世人が彼を称讃するその卓越性をも凌ぐのではないかと、私は思っております」と書簡に記している。
さらに、べルニーニのパリ滞在中ずっと同行したシャントルーは、彼の理解の早さ、すばらしい記憶力、そして生き生きとした想像力は実際よりもずっと教育を受けた人間であるという印象を与える、と証言している。
ドメニコの『伝記』を信ずるならば、こうしたべルニーニの明敏さは幼い時から認められ、父親から相談を受けたナポリの神父も、どんな道に進んでも大丈夫と太鼓判を押したという。そのため父親は息子の進路について思い悩んだが、「遠くの太陽より近くの炭火」というわけで、すでに彫刻で遊ぶようになっていたべルニーニは、自ら父親に彫刻の手ほどきを願い出たのである。
ところが、すぐに「他の者が額に汗して習い覚えることを自然から授かっている」ことが分かり、父親は本気で息子を訓練するようになる。
ある日、べルニーニが課題を越えて自らいろいろな工夫をしてデッサンしているのを見て父親が問うと、彼は人のまねをしているだけでは人をのり越えてはゆけないと答えた。優れた師だった父親は、それから後は自由に勉強させることにした、とドメニコは伝えている。
こうした幼年期の伝記は単なるレトリックに終始することが多く、たいていは引用するに値しないものだ。しかしベルニーニの場合は、ある種の実感をもって受けとることができる。彼はおそらくモーツァルトだけが比較しうる、芸術史上でも稀な神童、早熟の天才だったからである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P1-2
「彼はおそらくモーツァルトだけが比較しうる、芸術史上でも稀な神童、早熟の天才だった」
モーツァルト級の天才。ローマを芸術都市に作り替えてしまうほどの天才はその幼少期からやはり桁外れのスケールだった。
ローマにやって来たベルニーニと当時のローマの芸術事情
だが神童べルニーニについて今日知りうるすべては、ピエトロがローマに出てから後のことである。
教皇の招聘を受けた彼は一六〇五年頃、つまりべルニーニ七歳の頃に、「多くの家族をひきつれて」ローマに移った(アンジェリカは少なくとも七人の子供をもうけたことか知られている)。この転居はべルニーニの生涯にとって決定的重要性を有している。
彼は六十を過ぎてからルイ十四世の招きで半年ほどパリを訪れた他は、ずっとこの「永遠の都」にとどまることになる。べルニーニとローマ、これほど一人の美術家と一つの都市が互いに深く関係し合っている例は他に見られない。
一六四四年にルイ十三世がべルニーニと親交のあったマザランを通じて、一万二〇〇〇スクーディという多額の年俸て彼をフランスに招こうとしたことがあった。その時教皇ウルバヌス八世は、ベルニーニにローマにとどまるよう説得して、「おまえはローマのために生まれ、ローマはおまえのためにあるのだから」と言ったと伝えられる。
幼いべルニーニが初めて見たローマがどのようだったかは、有名なテンぺスタの地図(一五九三年)が克明に教えてくれる。大型の銅版画一二枚から成るこの巨大で正確な絵地図によって、都市の各所を検討してゆくのは実に楽しい。
このテンペスタの地図ともう一つの優れたローマの地図、ファルダのそれ(一六七六年)とを比べると、べルニーニが生きた時代のローマの発展と変化をつぶさに見ることかできる。二つの地図の比較は測り知れない示唆を与えてくれる。それはべルニーニがローマに残した遺産を、何にもまして正確に、かつ雄弁に教えてくれるからである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P3-4
ベルニーニはナポリ生まれでローマ出身ではない。しかし七歳の時にやって来たこのローマが彼の終生の活躍の場となる。ウルバヌス八世の「おまえはローマのために生まれ、ローマはおまえのためにあるのだから」という言葉はまさに彼の人生を象徴した至言であると言えるのではないだろうか。
そして石鍋真澄は当時のローマの芸術事情について次のように解説を続ける。
テンペスタの地図に見る一六世紀末のローマは、一〇万ほどの人口を擁する、充分活気のある都市だった。一五二七年の神聖ローマ皇帝カール五世による「ローマの掠奪」によってルネッサンスの楽天的気分が一掃されて以来、ローマは反宗教改革の厳格な空気に包まれていたが、トリエントの宗教会議を経て次第に自信をとりもどし、世紀の末には新たな「教会の勝利」を謳歌する新時代を迎えつつあった。これを裏づけるように、一五二七年当時五万五〇〇〇ほどだった人口は倍近くに増え、一般民衆は概して貧しかったが、都市は建設工事で活気を帯びていた。
カトリック世界の中心たるにふさわしい都市をめざす数々の建設活動は、ローマが反宗教改革の重苦しい空気を脱しつつある何よりの証拠だといえる。
実際、一六世紀の最後の四半世紀は偉大な建設の時代だった。一六世紀を通じてローマで新たに建設された教会は五三を下らないと数えられるが、サン・ピエトロを除き、その大半が一五六〇年以降の建設に成るものである。また一五二六年に起工された新しいサン・ピエトロは完成までに実に一二〇年間かかり、一五〇万スクーディ(およそ純銀四四卜ン)かかったといわれるが、その建設の主要な部分もやはりこの時期になされている。
こうした「ローマの再建」の権化ともいうべき教皇シクストゥス五世は、一五八五年以降わずか五年間の在位期間にもかかわらず、ローマの整備と教皇庁の体制づくりに異常な情熱を燃した。彼は少なくとも一〇の教会を建て、水道を引き、幾本かの真直ぐな道路で主要な場所を結び、広場を古代ローマ人がエジプトから運んできたオべリスクや古代の記念柱で飾った。彼の事業は今日あるローマの都市の基礎を築いたといえる。朝早く起きて、自ら工事の進み具合を見にゆくのを何よりの楽しみにしていたというエピソードほど、この教皇の生き生きしたイメージを伝えるものはない。
そのシクストゥス五世の前任者グレゴリウス十三世はよく、建設事業はすべての君主がしなければならない人民への慈悲だ、その仕事は人々の生活を助けるのだ、と言ったと伝えられる。めぼしい産業のない、ほとんど完全な消費都市だったローマに土木建設事業は唯一の産業らしい産業だったのである。
だが、この十六世紀後半の建設の時代は、優れた美術作品を創造することはなかった。この時期を支配していたのは実務主義であり、美術家は独創的であるよりも、有能な職人であることを期待された。この時期に建てられた数多くの教会を見て歩くと、それを痛感する。それらは堅実な仕事ではあるが、「趣味」と個性に欠けている。これらの凡庸な美術家に対して、真に創造的な美術家を見出すことができるのは、ようやく世紀の末になってからである。すなわち、建築家のカルロ・マデルノ、画家アンニバレ・カラッチとカラヴァッジョらがそれで、彼らの力でローマは「バロック」へと大きく動き始め、再びヨーロッパにおける最も先進的な美術活動の地となるのである。ナポリをあとにした幼いべルニーニを迎えたのは、こうしたローマであった。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P4-5
この箇所は当時のローマの社会状況を知る上で非常に重要なポイントがいくつも出てきている。まず1527年の「ローマの掠奪」というローマ始まって以来最悪の事件がここで語られている。
「ローマの掠奪」は「サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)事件」とも呼ばれる。私は今回ローマを訪れるにあたりこのサッコ・ディ・ローマ事件に非常に強い関心を持っていた。
私がこの事件を知ったのは以前当ブログでも紹介した『教皇たちのローマ』のおかげだ。
この事件は1527年にローマが攻撃され、虐殺、略奪の限りが尽くされた恐るべき出来事だった。
しかもそれを行ったのが何を隠そうカール5世の神聖ローマ帝国軍だったのだ。
カール五世はスペインと神聖ローマ帝国という二つの国の皇帝だ。つまり彼は熱烈たるカトリック国のトップにいた人物ということになる。そのカトリック王国の盟主が聖地バチカンを徹底的に破壊し略奪したというのだから私はその事実に頭がくらくらする思いだった。
と言うのも、私はこれまで、スペインはアメリカ大陸の発見後その黄金を用いてカトリックの繁栄と宗教改革への対抗のために莫大な財と労力を用いていたと理解してきた。
たしかにそれは事実なのだが、そんなスペイン・神聖ローマ帝国があろうことかカトリックの総本山のバチカンを略奪し破壊するなんて想像できるだろうか。
なぜそのようなことが起きてしまったのかは長くなってしまうのでここではお話しできないが、私にとってこの出来事はあまりに衝撃的なものとなったのだった。これまでもローマ掠奪(サッコ・ディ・ローマ)という出来事自体はキリスト教史を学ぶ上でおそらく目にしていたことはあったはずだ。だがこの出来事の重大さ、深刻さには全く気付いていなかった。この本を読んで初めてその意味がわかったのである。そのような意味でも『教皇たちのローマ』はこれまでの私のキリスト教観を覆してくれた作品になった。
そしてその『教皇たちのローマ』の中で参考文献として挙げられていたのがアンドレ・シャステル著『ローマ劫掠 1527年、聖都の悲劇』になる。
『教皇たちのローマ』ではローマ劫掠やアンドレ・シャステルについて次のように述べられていた。
本文で記したように、プロテスタントやカトリックやハプスブルク家にとってもサッコ・ディ・ローマは、いわば歴史の汚点であり、あまり触れてほしくないエピソードである。
だからヨーロッパでは、一般にこの事件について詳しく論じられない傾向がある。日本では、ニ〇〇六年に主に美術について論じたシャステルの古典的研究書が翻訳されたが、事件の概要はほとんど知られていないといっていい。そして、この事件が意味するところ、また事件の影響は論じられたことがないように思われる。
平凡社、石鍋真澄『教皇たちのローマ ルネサンスとバロックの美術と社会』P336
たしかにサッコ・ディ・ローマという事件は私もこの本を読むまでほとんど聞いたことがなかった。しかも本で読んだことがあっても「こんなことがありましたよ」程度のさらっとした記述しかない。なのでその重大さに気づくこともなかったのである。
なぜこの事件があまり語られないのかということの背景には上のような事情があったのだ。
だが今紹介している『ローマ劫掠 1527年、聖都の悲劇』はそんなサッコ・ディ・ローマを正面から論じた貴重な作品となっている。
訳者あとがきではこの本について次のように述べられている。
「ローマ劫掠」というヨーロッパ史上の事件は、日本の読者一般にそうなじみのある出来事ではないかもしれない。
一四九四年にフランス王シャルル八世がナポリの領有権を主張してイタリアに軍を進めて以来、イタリアはフランス・スペイン領大国が闘争を繰り返す舞台となり、半島に群立する小国家を翻弄した。キリスト教世界の精神的首長たるローマ教皇庁―当時はイタリア中部に広い領土を有するれっきとした「国家」でもあった—も例外ではなかった。
一五二三年に教皇に選出されたメディチ家出身のクレメンス七世は、両勢力の政治的圧力に対して外交的操作によって均衡を保つことに失敗し、神聖ローマ皇帝とスぺイン王を兼ねたカール五世の軍隊によって「世界の首都」たるローマが蹂躙されるという、前代未聞の破局を招いてしまう。
ミケランジェロやラファエッロがヴァティカン宮殿に現在も残る華麗な壁画を描き始めてから二十年もたたない頃だ。
本書は、このローマ劫掠という出来事を、二十世紀を代表するフランスの美術史家アンドレ・シャステルが、狭義の美術史的議論に限定されない広い文化史的視点から論じた一書である。
筑摩書房、アンドレ・シャステル著、越川倫明、岩井瑞枝、中西麻澄、近藤真彫、小林亜起子訳『ローマ劫掠 1527年、聖都の悲劇』P456
※一部改行した
この作品ではサッコ・ディ・ローマという恐るべき事件の経緯をかなり詳しく見ていくことができるので石鍋真澄著『教皇たちのローマ』と合わせてぜひおすすめしたい。
そしてそんな恐るべき事件を経て荒廃しきったローマが徐々に回復していった時期に生まれたのがベルニーニだったのである。
特に教会建築や公共施設を次々と建設していったシクストゥス五世はローマ復活の象徴的な人物である。そして気になるのは解説中の「シクストゥス五世の前任者グレゴリウス十三世はよく、建設事業はすべての君主がしなければならない人民への慈悲だ、その仕事は人々の生活を助けるのだ、と言ったと伝えられる。めぼしい産業のない、ほとんど完全な消費都市だったローマに土木建設事業は唯一の産業らしい産業だったのである。」という言葉だ。
ローマには土木建設以外に産業がなかったのである。何度も「ものづくり」などの産業を興そうと試みたのだがどうしてもうまくいかず、結局産業が生まれないというのがローマという街だったのである。だからこそ建設事業が積極的に行われたのだ。巨大な聖堂を造ることはバチカンの浪費に思えるかもしれない。しかし事はそう単純ではない。ローマ市民を支える公共事業としての側面もあったのである。ヨーロッパ中から富が集まるバチカンはそうしてローマ市民を養っていたのである。宗教は宗教だけにあらず。時代背景を見ていく面白さはここにある。
そして一六世紀末のローマになるとついにマデルノやカラッチ、カラバッジョら傑出した芸術家がどんどん出てくることになる。こうした新しい芸術の波がついにローマにやって来た。そこにモーツァルト級の世界最高レベルの天才が生まれてきたのだ。時代背景と彼の誕生がぴたりと合ったのである!奇跡としか言いようがない。
早熟の天才ベルニーニのパトロン、シピオーネ・ボルゲーゼの存在
1605年に教皇となったパウルス5世の甥の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼは神童ベルニーニの強力なパトロンになる。現在ローマにあるボルケーゼ美術館はこの人物のコレクションが元になっていて、数多くのベルニーニ作品が所蔵されている。この美術館については次の記事で改めてお話ししていきたい。
では、このパトロンの後押しの下、神童ベルニーニがどのような日々を送ったのかを見ていこう。
パウルス五世の前任者、メディチ家出身のレオ十一世は、たった二六日間教皇の座にとどまっただけで他界した。この人物とは対照的に壮健で、しかも五十三歳の若さで教皇に選ばれたパウルス五世は、結局一五年余りローマに君臨することになる。このパウルス五世の治世の間に、ローマの美術環境は大きく変貌する。
すなわち、優れた趣味をもつパトロンとコレクターの成長に従って、前時代を支配していた実務主義は、新たな美への覚醒によって克服されていったのである。
こうした変化に中心的役割を果したのは、教皇の甥で、二十七歳の若さで枢機卿に叙せられたシピオーネ・ボルゲーゼであった。幼いべルニーニは、このシピオーネ・ボルゲーゼの目にとまり、彼に育てられるのである。
この頃のべルニーニの神童ぶりを髣髴とさせるエピソードが、いくつか伝えられている。そのうち最もドラマティックなのは、シピオーネ・ボルゲーゼが幼いべルニーニを教皇の御前に連れていった時の話である。
その時ベルニーニは、聖パウロの頭部を描くよう求められるが、見事にそれを仕上げ、非常な称讃を得る。するとパウルス五世は居合わせた枢機卿に、「この子供が彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」と言ったというのである。この日教皇が褒美にとらせた一二個の金のメダルは、記念として今も我が家に保存してある、とドミニコは伝えている。
後年べルニーニ自身パリでこの出来事に言及しているか、それによれば、彼の手に成る聖ヨハネの頭部を見た教皇は、それが幼い子供の作品であるとは信じられず、目の前で聖パウロを描いてみるよう求めたという。これは八歳の時の出来事だ、とべルニーニは語っている。
また、後年べルニーニの最大のパトロンとなるウルバヌス八世がまだ枢機卿だったころ、八歳だった彼の作品を見て、笑いながらピエトロに「ベルニーニ殿、ご注意あれ。この子供は貴君を乗り越え、間違いなく師を凌駕しますぞ」と言った。すると父親は「それはいっこう構いません。ご承知のとおり、このゲームでは負けるが勝ちですから」と答えたという。これは少々作り話めいているが、やはりべルニーニ自身がシャントルーに語った話である。
またドメニコによれば、べルニーニが敬愛してやまなかった画家アンニバレ・カラッチは幼い彼の作品を見て、他の者が年をとってようやく達するところまでかく幼くして到達している、と感嘆したという。この話の真偽は定かでないが、べルニーニが最晩年の巨匠を見知っていたことは確かなようだ。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P6-7
「この子供が彼の世紀のミケランジェロになるよう願うことにしよう」
パウルス五世のこの言葉はまさに予言のごとく実現する。ベルニーニは一七世紀のミケランジェロになったのだ。
ベルニーニの神童ぶりには驚くしかない。ベルニーニはこの時代には珍しい長寿の人生を送った(これもくしくもミケランジェロとも同じだ)。そしてその長い人生の始まりからしてすでに傑出した才能を示していたのである。審美眼の鋭いパトロン、ボルケーゼの目に留まったというだけでも驚異的なことだ。しかも彼の手引きで様々な有力者に出会っても全く物怖じせずやり取りができてしまうその機知。末恐ろしい子どもである。
ベルニーニがいかに飛び抜けた存在だったかが今回の記事で伝わったのではないだろうか。
次の記事ではこのパトロンの美術館であるボルゲーゼ美術館をご紹介する。ここにはベルニーニの初期の作品がずらりと展示されている。彼の芸術家としてのスタートを学ぶのにこれに勝る場所はない。若くしてすでに天才のきらめきを見せるその作品たちに私もただただ驚くしかなかった。
続く
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