ニーチェ『この人を見よ』あらすじと感想~発狂直前に書かれたニーチェ最後の作品
ニーチェの自伝的作品『この人を見よ』概要と感想~発狂直前に書かれたニーチェ最後の作品
今回ご紹介するのは1888年にニーチェによって書かれた『この人を見よ』です。
私が読んだのはちくま学芸文庫版、川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ 自伝集』所収の『この人を見よ』です。
早速この本について見ていきましょう。
ニーチェは44歳(1888年)の誕生日に自伝『この人を見よ』の執筆を開始した。精神錯乱に見舞われる前年、『ヴァーグナーの場合』『偶像の黄昏』『反キリスト者』『ニーチェ対ヴァーグナー』などとともに、悲劇の前の多産を象徴するような一冊であった。脱稿から20年後に曲折をへてようやく出版されるに至った本書は、晩年のニーチェの思想とその形成過程を知るための必読文献である。
ちくま学芸文庫版、川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ 自伝集』裏表紙
この本の巻末解説によると、この作品はニーチェの誕生日10月15日に書き始められ11月4日には脱稿するという驚異的スピードで書かれた作品です。1889年1月初頭にはニーチェは発狂してしまうのでまさにこの作品は発狂直前のニーチェ最後の姿を知ることができる1冊となっています。
この作品はニーチェの自伝的な作品となっており、彼の思想の形成過程やこれまでの作品に込めた思いなどを知ることができます。
目次を見て頂ければそれは一目瞭然だと思います。
目次
ちくま学芸文庫版、川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ 自伝集』目次より
序言
なぜ私はこんなに賢明なのか
なぜ私はこんなに利口なのか
なぜ私はこんなに良い本を書くのか
悲劇の誕生
反時代的考察
人間的な、あまりに人間的なもの
曙光
喜ばしき知識
ツァラトゥストラはかく語った
善悪の彼岸
道徳の系譜学
偶像の黄昏
ヴァーグナーの場合
なぜ私は一個の運命なのか
ただ、これを見て「ん?」となった方もおられるのではないでしょうか。目次の最初に出てくる「なぜ私はこんなに賢明なのか、なぜ私はこんなに利口なのか、なぜ私はこんなに良い本を書くのか」という項目のインパクトはなかなかですよね。
すでにこうした時点でニーチェの狂気が透けて見えてくるような気がします。
実際に本文を読んでいると正気と狂気のはざまを揺れ動くような言葉が続いていきます。読んでいて恐怖を感じるほど鬼気迫る言葉でニーチェは語り続けます。ほとんど狂気と言ってもいいような精神状態で書かれた言葉というのは、やはり凄まじい強さがあります。ドストエフスキーにもそれを感じますが、やはり天才と言われる人間の精神の在り様は通常のそれとはまるで違うということを考えさせられました。
また、この作品ではニーチェのキリスト教に対する姿勢や自らの思想についての独白を聴くことができます。このことについて以前、「ニーチェとドストエフスキーの比較~それぞれの思想の特徴とはー今後のニーチェ記事について一言」という記事の中でフランス人ノーベル文学賞作家アンドレ・ジイドの次のような指摘を引用しました。ニーチェの最晩年の特徴をジイドは次のように述べます。
ドストエフスキーは、シベリヤ時代、彼の手に福音書を持たせたひとりの女に出会いました。一面福音書は牢獄で公式に許されている唯一の読書だったのです。福音書を読み、熟考したことはドストエフスキーにとって重要至極のことでした。つづいて彼の書いたすべての作品には、福音書の教義が浸透しております。われわれの談話が回を重ねるごとに、われわれは、彼が福音書に見出しているいろいろな真理に、いやでも立ちもどらねばならないでしょう。
福音書に出会うという一事が、ある側面で一つはきわめて縁の深い二つの天性を刺激しめざませた甚しく相異る反応、つまりニーチェにおけるさまざまの反応と、ドストエフスキーにおける反応を観察し、比較してみることは、極度に興味あることと私には思われます。
ニーチェにおける直接の、深い反応は、これはぜひ言わなければならないことですが、嫉妬でした。この感情を考慮せずにニーチェの作品を十分理解することは、できることだとは私には思われません。
ニーチェはキリストに嫉妬したのです、気が狂うほど嫉妬したのです。
『ツアラトゥストゥラ』を書きつつ、彼は福音書にわるさを仕掛けてやろうという望みに責めさいなまれつづけています。(中略)
彼は『反キリスト』を書きますし、又彼の最後の作品『エッケ・ホモ』のなかでは、《かの人》の教えを押しのけ、これにとって代わろうという意気込みで《かの人》の競争者ぶり、勝ち誇った態度に出ています。
ドストエフスキーにあっては、反応はこれとは全くちがっています。彼ははじめて接触したばかりでもう、そこには何か、ただ彼ばかりでなく、全人類より優れたもの、何か神的なものがあるのを感じました……
新潮社版、『ジイド全集第14巻』所収、寺田透訳『ドストエフスキー』P76-77
「ニーチェはキリストに嫉妬したのです、気が狂うほど嫉妬したのです」
「彼の最後の作品『エッケ・ホモ』のなかでは、《かの人》の教えを押しのけ、これにとって代わろうという意気込みで《かの人》の競争者ぶり、勝ち誇った態度に出ています」
というジイドの言葉は非常に興味深い指摘でした。
『この人を見よ(エッケ・ホモ)』の中にはこうしたジイドの指摘を連想させる箇所がいくつも出てきますが今回はその中のいくつかを引用します。
私の運命は、私が最初の端正な人間でなければならぬこと、私が自分を数千年にわたる虚偽に対する敵対者として自覚していることを欲しているのだ……私が初めて真理を露呈した。初めて嘘を嘘として感じとった―かぎつけたことによって……私の天才は鼻孔にある……私は言い逆らう、およそこんなにひどく言い逆らった人はいまだかつていなかったほどひどく。にもかかわらず私は否定的精神とはまるで反対なのだ。私は福音の使者なのである。こんな使者などかつてあったためしがない。今までそんなものを言い表わす概念など存在しなかったほど、それほど高級な使命を私はよく知っている。私が出現して、やっと再びもろもろの希望が存在するに至ったのだ。これらすべての事柄をもってして、私はまた必然的に宿命の人でもある。数千年にわたる嘘を相手に真理が闘うのだから、あまたの震動、夢想だもしなかったような地震の痙攣、山野の移動などが起こるのも当然。
ちくま学芸文庫版、川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ 自伝集』P172
他にも、
私は人間ではない。私はダイナマイトだ。
ちくま学芸文庫版、川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ 自伝集』P171
私はとび抜けて前代未聞の最も恐ろしい人間である。ただしこのことは、私が最も恩恵を施す人間であるだろうということを妨げはしない。私は破壊の喜びというものを私の破壊の力倆に応じた程度において知っている、ーどちらの場合にも私は私のディオニュソス的本性に従う。この本性は否定を行なうことと肯定を語ることとを決して引き離すことができない。私は最初のインモラリストだ。そのゆえに私はずばぬけた破壊者だ。
ちくま学芸文庫版、川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ 自伝集』P173
などなど、かなり過激な言葉が出てきます。これははたして本当に正気で書かれたのか、それとも狂気に身を任せて書きなぐられたものなのか。
ニーチェ研究者の西尾幹二の『西尾幹二全集第五巻 光と断崖ー最晩年のニーチェ』によれば、全体としてはぎりぎりのところでユーモア感覚も感じられる箇所もあり、正気と狂気のはざまの精神で書かれてはいるものの、ところどころで精神の危うさを感じる箇所が出てくるという指摘がなされていました。
やはり一貫して正気の状態で書かれたというよりも正気と狂気が入り混じったぎりぎりの精神状態での執筆と考えてもいいのかもしれません。
ニーチェ最晩年の狂気すれすれの圧倒的パワーを感じられる作品です。かなり面食らう箇所もありますが、だからこそそのインパクトも絶大です。ぜひおすすめしたい作品です。普通の本を読むのとはまた異なる「黒魔術的な」読書とも言うことができるかもしれません。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「ニーチェの自伝的作品『この人を見よ』~発狂直前に書かれたニーチェ最後の作品」でした。
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