(9)第一次世界大戦とレーニン~ドイツの支援と新聞メディアの掌握
ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』を読む⑼
引き続きヴィクター・セベスチェン著『レーニン 権力と愛』の中から印象に残った箇所を紹介していきます。
1917年ロシア二月革命の勃発
1917年2月、ロシア革命が勃発します。
革命はほぼ、オフラーナ(※皇帝の秘密警察。ブログ筆者注)の警告が予測していたとおりに始まっていた。一九一六ー一七年のロシアの冬は、ニ〇世紀ではかつてなく寒かった。この先起きようとしている事態の、重要な、それでいて往々にして過小評価されている要因である。
一月末からほぼ二月いっぱいのぺトログラードの気温は、平均して摂氏マイナス一五度。鉄道を含め都市への輸送網はほぼ停止。穀物その他の食料供給はぺトログラードやモスクワにはまったく届かなかった。
首都の行政長官A・P・バルクは二月一九日、同市は前週、普段の三万プードに比べ、五〇〇〇プード(ロシアの旧重量単位、一プードは約一六キログラム)の小麦粉しか届かず、同市のパン屋は平常の九万プードに比べ、たった三万五〇〇〇プードの小麦粉しか使用できなかったと報告している。
数千人の女性ー実際にほとんどが女性だったーがパンを求めて夜通し行列していた。次いで二月二三日、北極の天候が急変し、「気温は温暖といっていい五度だった」。
ぺトログラードでストライキとデモの波が始まったのはその時であるー国際女性デーの二三日には約一三万人、翌日には一八万人以上が参加した。最初の大規模街頭行動の午後までには、民衆はもはや「パンを寄こせ」「腹が減った」ではなく、「皇帝を倒せ」「平和を寄こせ」「くたばれドイツ女」と叫んでいた。
警察は群衆を制止できず、軍隊は市民への発砲を拒否した。群衆は警官をリンチにかけーぺトログラード警察本部長を投石で殺害ー、政府庁舎を占拠しはじめた。群衆はぺトロパブロフスク要塞監獄を「解放」し、収監されていた少数の囚人を解き放った。ほとんどはこの数日間に逮捕された者たちだ。市の大部分は抗議参加者の手にあった。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P19-20
※一部改行しました
1917年のロシア二月革命は実はレーニンが主導したものではありません。飢えた市民が食べ物を要求するデモから始まったのです。
しかもここで述べられていたように、この冬は例年よりもかなり寒く、食糧不足が深刻でした。さらに第一次世界大戦によって経済も破壊され、戦傷者も増えていくばかり。政府に対するこれまでの不満が爆発寸前の状況になっていました。
そしてちょうど国際女性デーの時に極寒の気候が収まり、温かい気温が戻ってきたのです。そのため、よりたくさんの人が外出しデモに参加することになりました。天候がこの革命に影響を与えていたというのは些細なことのようで実は大きな役割を果たしていたのです。これはなるほどなと思いました。
さて、この革命の経緯をより詳しく解説するとなるとかなり長くなってしまいます。
より詳しく知りたい方はぜひこの本と以前紹介した神野正史著『世界史劇場 ロシア革命の激震』を読んで頂きたいです。
今回の記事ではこれ以上は立ち入りませんが、この革命で重要なことはあくまでこの革命が自然発生的に起こったということ。そして肝心のレーニンは何の役割も果たしていなかったどころか、現場にすらいなかったということです。
レーニンは当時スイスに亡命中で、彼自身がこの革命の報に度肝を抜かれたと言われています。「まさか本当に革命が起こるとは」と彼は遠く離れたスイスで衝撃を受けたのです。
レーニンがロシア革命の主役になっていくのは二月革命の後です。彼はとてつもない方法でロシアへの帰国を果たし、革命後の臨時政府と戦うことになるのです。
レーニンの帰国ードイツの封印列車
ロシア二月革命後成立した臨時政府は第一次世界大戦の継続を主張していました。
しかし英仏露と戦っていたドイツはロシアが手を引いてくれることを望んでいました。
ロシアとの戦闘が終了すればイギリス、フランスとの戦闘に集中することができます。
そこでドイツはある奇策を思いつくことになります。それが有名な「封印列車」によるレーニンのロシア移送だったのです。封印列車を簡単に説明すると、次のようなものになります
封印列車
ベレ出版、神野正史著『世界史劇場 ロシア革命の激震』P216
「戦争継続を叫ぶ臨時政府打倒」という利害の一致を見たドイツはレーニンの帰国を支援。
レーニンと同志32名を送り届けることに。
ただし、道中、革命思想をドイツ国内に流布されることを避けるため、列車の窓を閉め、外部との接触を一切禁止した。
よって、これを「封印列車」と呼ぶ。
しかし、実際にはこの命令は現場にて徹底されず、レーニンは走行中の列車の窓から外を眺めることもできたし、一停車駅にて新聞・ビールなどを買いに降りたり、さらには、外部の人間と接触することもできた。
レーニンはドイツとの戦争を停止することを主張していました。それがドイツにとっては好都合でした。ドイツは彼をロシアに送り込み、政治工作をすることで英仏との戦争を優位に進めようと考えていたのです。
ただ、レーニンは平和主義者だから戦争停止を訴えていたわけではありません。自らの権力掌握のために有利になるから戦争停止を主張していたに過ぎません。実際に彼が権力を掌握した後、ロシアは内戦へと突き進むことになります。
レーニンの政治活動ーポピュリスト的演説。嘘の公約。
さて、封印列車によって帰国したレーニンは積極的に政治活動に勤しみます。臨時政府を攻撃し、自らが指導者となるよう過激な演説を続けていきます。
公的生活面でのレーニンは、一〇〇年後に長い歴史のある洗練された民主主義諸国でも見られるーそして多くの民衆扇動家に模倣されるーことになる極めてポピュリスト的な政治活動スタイルを採用した。彼は複雑な問題に単純な解決法を提案した。恥じることなくうそをついた。
彼はケレンスキーとトロツキーがそれぞれにそうだったような、輝かしい雄弁家ではない。だが、だれでも理解できる直接的で率直な言葉で問題を提示し、人民が彼とボリシェヴィキの言葉に耳を傾けさえすれば世界は変えられるのだと説明する能力に秀でていた。
経済的不公平と半封建的制度がロシアを何世紀も遅らせてきたって?彼の回答は単純明快。「人民がなすべきことは、一〇〇〇人の金融・産業界の大物の資産を没収し……数十人の大富豪の抵抗を打ち破ることだけだ」と言った。
人民は土地に飢えているって?簡単だ。「農民は元の地主の主人から領地を取り上げなければならない。いまや農民が主人でなければならない」。
労働者は産業の運営方法を理解しないかもしれないって?レーニンには、ある解決法があった。「ひと握りの資本家どもを逮捕して、彼らを今のニコライ・ロマノフと同じ境遇に置け、そうすれば彼らは富裕の手掛かりと秘密を明かすだろう」。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P67-68
※一部改行しました
レーニンは現代でも特に問題になっているポピュリズム的な手法を用いて政治活動をしました。わかりやすく、国民が飛びつくようなことをどんどん言っていきます。不満を持った国民たちの欲求や憎悪を煽り、自分の支持者にしていくよう仕向けるのです。
レーニンは臆面もない冷笑的言辞を使って、人びとになんでもかんでも約束するのが常だった。農民には土地を約束したーけれども、農民に荘園を渡すことは考えていなかった。土地を国有化し、農民が国営の巨大集団農場で働くようにしたいと考えていたのだ。
彼は労働者が工場を経営しなければならないと言った。だが実は、労働者が企業を管理するとか、労働組合が経営する協同組合をつくるという公約など、信じてはいなかった。党の指導の下に、労働力管理を中央集権化することを目指していたのである。
臨時政府がもともとは九月初めに予定していた制憲会議選挙を延期すると、レーニンは民主主義を「裏切る」ものだと攻撃した。もちろん、彼は「ブルジョア民主主義」ー競い合う政党問の自由選挙ーなど信じていなかったし、彼がつくり出した国家では、その後七〇年間、そんなものはなくなるのである。
政治宣伝では物事を単純化しておくことが重要だ、と彼は側近らに語った。「われわれは平和、土地、パン、こういった物事について語らなければいけない。そうすればわれわれは暗闇のなかの灯台のように輝くだろう」と。
彼は自分でもうそだと分かっていることを、ほとんどの物事は自分が理論づけをするのだという前提に立って、擁護した。すなわち、目的ー社会主義革命ーが手段を正当化するのだ。
ロシアに戻って三カ月の間、レーニンは何十回もの集会で演説し、日ごとに国民の注目の的になっていった。彼は明晰、論理的、率直、誠実で、見かけは正直で説得力があるようだった。身体的には強烈な存在感はないが、「彼にはどこか非凡なところがある、と人びとには感じられた」。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P68-69
※一部改行しました
農村における内戦の予兆
政治目的のために階級憎悪をかき立てようとするレーニンの決意に、彼の批判者らは仰天した。だが、レーニンには、社会主義は階級戦争そのものだった。だから、これに伴う暴力は不可避なのだ。
彼がよく言ったように、「武力によらずに解決された大問題は歴史上、いまだない」のだ。ロシアの混沌状態は、「彼らブルジョア政府にとって悪いことは、われわれには良いことだという前提に立って」、歓迎すべきである、と彼は近しい同志たちに言っている。
とはいえ、レーニン賛美者の何人かでさえ、彼が一九一七年の春と夏に見せた大衆扇動ポピュリズムにはショックを受けた。たとえば、彼が多くの演説で使った「収奪者を収奪せよ」というスローガンがそうだ。熱烈な社会主義者であるゴーリキーは絶望していた。「わたしの不安は毎日高まる」と、彼は六月一四日に妻宛てに書いている。「レーニンの狂った政治活動は、やがて内戦につながるだろう」と。
その内戦はすでに、混沌状態にのみ込まれた農村で起きつつあった。臨時政府の命令はロシアの多くの田舎には届かず、法と秩序は完全に崩壊していた。ロシア中の多くの所領が農民に占拠され、農氏は地主を追い出し、暴行を加え、多くのケースでは殺害した。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P74
※一部改行しました
レーニンは過激な演説を繰り返し、人々の憎悪を煽りました。
農村ではレーニンがまだロシアに戻らぬ二月革命の段階で秩序が崩壊し始め、彼が主導権を握り始めるころには混沌状態に陥っていました。すでに内戦の火種がそこに生まれつつあったのです。
レーニンの権力拡大ー新聞メディアの掌握
レーニンはすっかり楽観していた。それは、自分のメッセージが届きつつあると確信していたからでもあるが、主な理由は彼が巨額の資金源を手にしていたことである。ボリシェヴィキの党員数は増えていた。
三月初めに最大二万三〇〇〇人だつた党員数は、七月までにニ〇万人に達していた。もっとも重要なのは、ボリシェヴィキがどの政党機関紙よりもはるかに多部数を誇る新聞王国を早々と築き上げたことだ。
「プラウダ」は二月末に合法化された。四月半ばにもなると、ぺトログラードで一日に八万五〇〇〇部を刷り、売っていた。地方版があり、さまざまな民族のための版が、主なところではグルジア語、ラトヴィア語、ポーランド語、アルメニア語、それにイディッシュ語で発行されていた。
膨大な部数が陸軍兵士ー前線兵向けの『ソルダツコヴァヤ・プラウダ』(兵士プラウダ)は一日七万部ーと水兵向けに出ていた。ボリシェヴィキは思いがけなくも、高価な最新式の新品印刷機を買う資金的余裕ができたし、膨大な新聞用紙の備蓄を買う金があり、多数の読者を取り込んだ頒布システムを有した。
そして、読みやすく、時には、すばらしい紙面をつくる優秀なジャーナリストを見つけた。すべて合わせると、ボリシェヴィキは七月初めには計四一紙、総部数約三五万部を発行していた。
新聞をそれほど素早く軌道に乗せるのは「尋常ならざる組織化の芸当だった」とトロツキーは述べており、それはボリシェヴィキにとって政治宣伝の巨大なインパクトを生んだ。
それまでボリシェヴィキのことを聞いたことがなかった人びとは、いまや彼らがどんな立場に立っているかを知ることになったー戦争の問題に関しては、たしかにそうであった。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P80-81
※一部改行しました
レーニンはたしかに演説の名手で、ポピュリスト的戦略とも相まって多くの支持者を獲得していきました。
ですが彼の人気を一気に底上げしたのは彼のメディア戦略にありました。
彼は新聞を自ら立ち上げ、ロシアにおけるメディアを掌握してしまいます。これは引用にもありますように、「尋常ならざる組織化の芸当」でした。他の新聞社を圧倒するクオリティと物量を彼は国民に提供したのです。
ですが、それにしてもなぜレーニンはこんな芸当をすることができたのでしょうか。それが次の引用になります。
ドイツによる巨額の秘密支援金
この事業はレーニンが指揮したが、「封印列車」を含む取引の一部としての、ドイツからの巨額の金がなければ実現しなかっただろう。
レーニンがその取り決めを自ら処理したわけではないし、彼と取引を直接結びつける記録はないが、レーニンがすべての委細を承知していたのは間違いない。多少の証拠が明らかになったのは、一九九一年のソ連の崩壊からしばらくしてからである。共産党は証拠を七〇年以上も用心深く隠してきたのだ。今でも詳細は完全には分かっていない。
一九一七年二月~一八年三月の間に、ドイツからボリシェヴィキにいくらの金が流れたか、確実なことはだれにも分からない。ドイツ社会民主党のエドゥアルト・ベルンシュタインが、この疑惑を公然と取り上げた最初の一人だった。しかし、彼はレーニンの長年の敵としてよく知られていたうえ、彼自身が、自分の「確かに信頼できる情報源」からは何も証明できないと認めていた。また、彼はドイツがレーニンに与えた金額は法外だと主張していたー「五〇〇〇万金マルクほど」だと彼は言った。現在の価値にして約一億ドルである。実の数字がどうであれ、たしかに大金ではあったはずだが、それほど多くはなかっただろう。(中略)
ドイツはのちに、金額は言わないまま、ボリシェヴィキを資金的に援助したことを認めた。ボリシェヴィキが権力を握ったとき、ドイツは戦略の成功に満足した。ドイツの外相、リヒャルト・フォン・キュールマンは自慢せんばかりだった。
「協商の解体は……わが国外交のもっとも重要な戦争目的を構成する」と彼は閣僚仲間に話した。
「ロシアは敵の鎖の中の最弱の環だった。われわれの任務は鎖を緩め、可能ならば除去することだった。これはロシアにおけるわれわれの〔革命諸グループとの〕〔破壊〕活動の目的だった……ボリシェヴィキが機関紙『プラウダ』を創刊し、精力的な政治宣伝を行い、狭い党基盤を見事に拡大できるようになったのは、彼らがさまざまなチャンネルを通し、異なった名称を使って、われわれから着実な資金フローを受けてからだ……。それは完全にわれわれの利益になるのである」(中略)
いったん権力を握ると、レーニンは急いで痕跡を隠した。一〇月革命後の新政権は、当局者が臨時政府の文書を点検した際、見つかった限りのすべての証拠を廃棄した。レーニンとトロツキーはその隠ぺいを間違いなく知っていたし、それを命じた可能性も高い。
彼らはいかなる痕跡も残すまいと決めていたのだが、少なくとも、残った一つの覚書が、彼らの手抜かりを示している。
トロツキー指導下の外務人民委員部の二人の職員、フョードル・ザールキンドとエフゲニー・ポリヴァノフが、いくつかの「押収された価値ある資料」を見つけたと報告した。
彼らはレーニン宛ての手紙で「法務省の保管文書で、同志レーニンとジノヴィエフ、コロンタイほかの、いわゆる『売国行為』に関するファイルから、われわれはドイツ帝国銀行の一九一七年三月二日付の、金銭の支払いを認める指図書番号27433な除去しました」と書いている。彼らは「ストックホルム新銀行のすべての通帳を点検した……ドイツ帝国銀行の指図書2704が出てきた」、それも除去したと述べている。この文書は七〇年後に日の目を見たのである。
ドイツからの莫大な活動資金は、ボリシェヴィキの運勢を大きく上向かせた。とはいえ、レーニンの敵たちの無能ぶりの方がもっと大きな要因だったーそして、レーニンは彼らが繰り返し与えてくれた好機をすばやくつかんだのである。
白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P81-84
※一部改行しました
なんと、レーニンの政治活動の背後にはドイツ政府の秘密資金があったのです。しかもその金額が桁外れです。そうした資金があったからこそロシアでのメディア掌握が可能になったのでした。
そもそもロシア二月革命勃発時、スイスに亡命中だったレーニンを封印列車でロシアに送り届けたのもドイツです。
ドイツは戦争からの撤退を主張していたレーニンをロシアに送ることで、ロシア政府が対独戦争から手を引くことを狙っていたのでした。
ですのでドイツは帰国後もレーニンを秘密裏に支援していたのです。
レーニンが権力を掌握できたのもドイツの戦略があったからこそというのは私にとっても驚きでした。
国際政治の複雑さを感じさせられました。
続く
Amazon商品ページはこちら↓
次の記事はこちら
前の記事はこちら
関連記事
「レーニン伝を読む」記事一覧はこちらです。全部で16記事あります
コメント