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共産主義と資本主義、そして宗教のつながり~ぼくがキューバを選んだ理由 僧侶上田隆弘の世界一周記―キューバ編⑥
ここまで4本の記事にわたってキューバの歴史をお話ししてきたが、みなさんの中には次のような疑問をお持ちになった方もおられるかもしれない。
「なぜいきなりキューバの歴史をここまで話し出したのだろう。
いや、そもそもなぜキューバ?キューバと宗教って何か関係はあるの?」と。
たしかにキューバは宗教の聖地ではない。
だが、ぼくにとっては宗教を学ぶ上で非常に重要な国がキューバだったのだ。
今回の記事ではその「なぜ僕が宗教の聖地でもないキューバを選んだのか」ということについてお話ししていきたい。
ぼくが最初にキューバに興味を持ったきっかけはキューバ危機だ。
世界の歴史が完全に違う方向に行きかねなかった世紀の大事件とそれを引き起こした米ソ冷戦。
もちろん1990年生まれのぼくには当時のことはまったくわからない。
だが、わからないからこそ冷戦時の世界の在り方にぼくは興味を持っていた。
ソ連が崩壊した今とはまったく違った世界観や考え方が当時はあった。
冷戦構造が世界に与えた影響は計り知れないだろう。そしてぼくが生きている今日の世界もその歴史の上に成り立っている。
すべての歴史を知ることはできなくとも、冷戦の緊張感を学ぶにはキューバ危機が最も適しているのではないかとぼくは思い、キューバを学び始めたのだった。
そしてそのような流れでキューバを学んでいる内に、ぼくの知っていたキューバ像とは全く違ったキューバがぼくの目の前に現れてきた。
それまで抱いていた危険な共産主義独裁国家というイメージがどんどん崩れていく。
またそれと同時にアメリカという国家についてのイメージも変わっていくことになった。
平成2年生まれのぼくにとっては資本主義の世界というのは当たり前のものだった。
だが、キューバはぼくにとっての当たり前の世界とはまるでちがう世界観、価値観を持って生きていたのだ。
どうやら資本主義、共産主義という2つの在り方はそれを生きる人々の世界観や価値観を丸ごと変えてしまう代物らしい。
考え方だけではなく物質的な面でもその違いは顕著に現れる。
建物も違えばそもそも物量が違う。資本主義陣営の繁栄は検証するまでもなく圧倒的だ。物であふれた世界がそこにはある(それがいいか悪いかは別として)。
だがそもそも資本主義、共産主義の「〇〇主義」とは一体何なのだろうか。
先の記事でも少し触れたが共産主義とは経済活動が成熟し、資本家が労働者を搾取する悲惨な状況を革命によって打ち倒して平等な理想社会を実現することを目的とするものだ。
それに対し資本主義は経済の自由競争によって理想の世界が生まれてくるという考え方だ。
もちろんある程度の規制によって行き過ぎた搾取がないように国家のコントロールも前提とされているが、基本的には自由競争だ。
さてものすごくざっくりとではあるが共産主義と資本主義とは何かを考えてみた。(※2024年6月追記 共産主義と資本主義をこのようにあまりにざっくりとまとめるとはなんと恐ろしいことをしたのだと今は感じている。5年前の未熟な私だということでご容赦頂けたら幸いだ)
共産主義とは平等なユートピアを理想とする。
資本主義は自由な経済活動による繁栄を理想とする。
さて、ここで重要なことは共産主義、資本主義共に「理想の世界を描いている」ということだ。
その理想の世界を実現するために革命や社会統制、あるいは自由競争などの道筋が引かれている。
そしてさらにその下に個々の人間ひとりひとりが何をすべきで、どうすれば「いい人間」として認められるのかということがずらっと並びたてられているのだ。
つまり共産主義、資本主義の「〇〇主義」とは理想の世界、ユートピアを信じ、それに向かって生きていくことを表すのだ。
抽象的な理想、概念を多数の人間が同じように信じること。
実はこれこそ、人間(ホモ・サピエンス)とチンパンジーを分ける最大の違いなのだ。
このことについて日本でもベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』では次のように述べている。
一対一、いや十対十でも、私たちはきまりが悪いほどチンパンジーに似ている。
重大な違いが見えてくるのは、一五〇という個体数を超えたときで、一〇〇〇~二〇〇〇という個体数に達すると、その差には肝を潰す。
もし何千頭ものチンパンジーを天安門やウォール街、ヴァチカン宮殿、国連本部に集めようとしたら、大混乱になる。
それとは対照的に、サピエンスはそうした場所に何千という単位でしばしば集まる。サピエンスはいっしょになると、交易のネットワークや集団での祝典、政治的機関といった、単独ではけっして生み出しようのなかった、整然としたパターンを生み出す。
私たちとチンパンジーの真の違いは、多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤だ。この接着剤こそが、私たちを万物の支配者に仕立てたのだ。
※一部改行しました。太字は上田隆弘による
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 上』柴田裕之訳 河出書房新社 P56
人間は抽象的な理想、つまり神話があるからこそ大きな集団として結びつくことができるのだ。
逆に言えばそれができなければ人類はここまで発展することなく、厳しい環境下の中絶滅していたかもしれない。
ぼくがこの旅を志したのも人間がどのように進化し宗教が生まれてきたのかという興味からだった。そのことはタンザニア編の記事でもお話しした。
共産主義も資本主義も理想の世界を描き、それを信じるものだった。
そう、宗教と「〇〇主義」には実は共通点がある。
「宗教はアヘン」と言い切った社会主義も実は宗教的な要素をはらんでいるのだ。
ユートピアという抽象的な理想郷を創造し、そしてそこにたどり着くための道筋を描き、個々人のあるべき生き方も規定する。
これは宗教の在り方と実に似ている。
神が存在し世界の秩序を創りあげ、天国にいくために人々は何をすべきかが示される。
理想の世界を信じ、突き進むというあり方は広く宗教に見られる道筋だ。
これがあるからこそ人間は巨大な集団を作り上げ、急激な発展を遂げることができたのだ。
人類の発展には抽象的な理想、つまり宗教と神話が不可欠だったのだ。
資本主義もその例外ではない。
お金、つまり信用を基にした社会システムと自由競争で世界は成り立つという共同理念があるからこそぼくたちは円滑に生活することができているのだ。
その中にいると意識はできないが、実はぼくたちも無意識に資本主義を信じて生きている。
そしてその資本主義が提供する理想への道筋や理想の人間像をぼくたちは摂取して生きている。
勤勉に働くこと、お金をたくさん稼ぐこと、自分らしく生きること。
それは人類共通の美徳ではない。
それはあくまで資本主義という神話が語る理想の生き方に過ぎないのだ。
キューバが信じている共産主義では必ずしもそれらは美徳とは言えるものではない。
宗教がひとりひとりの世界観や価値観、理想の人間像までも規定していく。
これは宗教を学ぶぼくにとっては非常に興味深い問題だった。
特にキューバはそれを学ぶ上で絶好の機会となった。
というのも、キューバは今転換期を迎えている。
これまでお話ししてきたように、ソ連の崩壊後、観光業に力を入れたことで大量の資本がキューバに流れ込んできている。
これは単にお金がたくさん入ってきたということで済まされる問題ではない。
それまで共産主義の理想を生きてきた社会の中に突如資本主義の理想がなだれ込んでくることに他ならないのだ。いわば理想と理想の衝突、そしてそれらが混じり合う混沌が出現したのだ。
ここまでお話ししてきたキューバという国をもう一度考えてみたい。
みんな平等に貧しかったからこそのおおらかさというものがあったのだ。
しかしもしそこに突然貧富の差が生まれたらどうなるのだろうか。
隣の家が急にお金持ちになり、自分はますます貧しくなっていく。
そうなってしまった時にキューバの人たちはどうなっていくのだろうか。
これまでと同じ陽気で仲良しなキューバのコミュニティは存続することができるのだろうか。
それは誰にもわからない。
まさに今それがキューバで試されているところなのだ。
ぼくが4本にわたってキューバの歴史についてお話ししたのもそのような流れを伝えたかったからに他ならない。
ぼくがキューバについて感じたことをこれからお話ししていくためには、キューバとはどんな国でどんな歴史を経てきたのかということが必要不可欠なものだったのだ。
資本主義の殿堂たるアメリカと共産主義国家キューバ。
ぼくにとってアメリカからキューバへと向かうというこの一連の流れは決定的に重要なものだったのだ。
資本主義と共産主義を学ぶことは宗教を学ぶに等しい。
見えにくい事実であるがどちらも意図的に他の宗教を排し、無宗教のように装ってはいるが実は宗教のエッセンスをふんだんに利用しているのだ。
もちろん、ここまで述べてきたような人類を結びつける役割が宗教の唯一の本質だというつもりはない。
ぼくが言いたいのは人を結びつける役割も宗教の大事なひとつの側面だということだ。
そもそも宗教は、「宗教とは〇〇だ」というようにひとつのもので定義できるようなものではない。あまりに広大な領域にまたがるため唯一の定義など存在しないのだ。
あくまでそのひとつの側面として宗教が人を結びつける役割、理想の世界を提供し人々の生き方を規定するという役割にぼくは惹き付けられ、この旅が始まったのだ。
さて、いよいよ次の記事から本格的にキューバの旅行記を始めていく。
最初の目的地はチェ・ゲバラゆかりの地サンタクララだ。
続く
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