サラエボ旧市街散策~多民族が共存したヨーロッパのエルサレムの由来とは ボスニア編⑤
サラエボ旧市街散策~多民族が共存したヨーロッパのエルサレムの由来とは 僧侶上田隆弘の世界一周記―ボスニア編⑤
4月28日。
本日もBEMI TOURのミルザさん、松井さんと共にサラエボを散策。
今日はサラエボウォーキングツアーということで、サラエボの文化と歴史、そして紛争当時のことを学ぶ半日のスケジュール。
今回の記事では文化と歴史に焦点を当てて述べていきたい。
ツアーはサラエボの市庁舎からスタート。
以前の記事でも取り上げたこの写真。
この写真の赤と黄色の建物が市庁舎だ。
なぜここを取り上げたかというと、この建物がボスニアがオーストリアに支配されていた時期に建てられたことを述べるため。
目の前を走る路面電車もオーストリアがここを支配したからこそ敷設されることになった。
オーストリアが1878年からここボスニアを支配していたという歴史。
これが重要になってくるのがみなさんご存知のサラエボ事件。
そう。オーストリアの皇太子が暗殺され、第一次世界大戦勃発のきっかけとなった事件だ。
ここがその暗殺現場のラテン橋。
視界の開けた川沿いの道。
暗殺の実行犯は「青年ボスニア」という結社に属するボスニア在住のセルビア人。
オーストリアによるボスニア支配に抵抗するというのがこの結社の大義名分であったのだが、実際のところはもっと複雑に絡み合った国際政治の問題であったとされている。
実行犯は「青年ボスニア」のセルビア人ではあるものの、彼らを煽動し裏で武器弾薬を提供していた組織の存在がある。
青年ボスニアのメンバーは結局のところ、利用されたに過ぎなかったのかもしれないのだ。
バルカン半島を巡る争いは複雑を極める。
バルカン半島ではこの事件が起こる前の1912年から第一次、第二次バルカン戦争が起きていた。
この半島に属する国々がすでに領土を巡って戦争状態に陥っていたのだ。
そしてそれを背後から眺めている大国ロシアやオーストリア、オスマン帝国、イギリスなどの思惑が絡み合う。
バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたのにはそのような背景があったのだ。
そしてサラエボ事件はその緊張状態と火種の爆発が最も劇的な形で現れたものと言えるだろう。
現在この暗殺現場となった建物は博物館として利用され資料が展示されている。
さて、これからいよいよ旧市街中心部へと入っていく。
この道路の先が旧市街中心部。サラエボ観光のハイライト。
旧市街の路地へ一歩踏み出すと、明らかに雰囲気が変わったことを実感する。
軒を連ねる建物のアラブ情緒を感じさせるたたずまい。
ヨーロッパでありながらまったく異質なものを感じさせる。
というのもこの旧市街は15世紀からボスニアを統治していたオスマン帝国時代の名残で、この近辺はアラブ街をモデルにした商業街だったそうだ。
ここの特産は金属加工品や陶器、宝飾品。
現在でもたくさんのお店がこの旧市街に軒を連ねている。
旧市街中心部は多くの観光客で賑わっている。
すれ違う人たちの顔を見ていると、ヨーロッパの様々なところから来ていることが伺えた。
ヨーロッパでありながら独特の景観と文化を持つサラエボは、人気の観光地として復活しつつあるようだ。
バシチャルシア広場にあるサラエボの象徴、セビリ。
セビリは水汲み場として作られ、その独特な形状から今でも市民に愛されている。
この周辺は飲食店が立ち並び、ゆっくりするにはもってこいの場所だ。
さて、タイトルにもあるように、ここサラエボはヨーロッパのエルサレムと呼ばれていた。
その由来はサラエボの街に数多くの宗教が共存していたところにある。
旧市街を歩くと、
カトリックの教会や
セルビア正教の教会、
ユダヤ教のシナゴーグ、
そしてイスラームのモスクがある。
現代日本に住むぼく達にとっては、このように様々な宗教施設が近くに立ち並ぶことに違和感を持つことは少ないと思う。
お寺のすぐそばに教会があるのも当たり前だし、同じ仏教でも宗派が全然違ったりする。
しかし、中世ヨーロッパにおいてはそのようなことはかなり珍しいことであったと言える。
そして下手をすれば命の危険にまで発展するほどのことだったのだ。
それほど他の宗教と共存するということは難しかったのだ。
では、なぜサラエボはそれが可能だったのだろうか。
その一つ目の鍵は地理上の問題。
サラエボはヨーロッパ世界とアジア世界の中間に位置していた。
陸路でヨーロッパからアジアへ向かおうとするとサラエボを通ることになり、アジアからヨーロッパへ向かうときもサラエボを通ることになる。
アラビア半島からのルートも然り。
つまり、サラエボは東西の文化が行き交う街だったのだ。
ヨーロッパのキリスト教文化やアラブ世界のイスラム文化、さらには東アジアの品々もここを通過していったであろう。もしかしたら日本の品物もここを通ったかもしれない。
陸路の交通の要所。それがサラエボだったのだ。
だからこそ多様な人種や宗教、文化がこの街では入り乱れていた。
閉鎖的な世界では一つの人種、一つの宗教、一つの言語が力を持ちやすい。
しかしここサラエボでは常日頃から多種多様な文化に触れていた。
だからこそ共存可能な精神的な素地ができていたのかもしれない。
そして第二にオスマン帝国の支配体制が挙げられる。
オスマン帝国はイスラム教を中心とした帝国だ。
宗教を中心にした帝国が支配した属国に対して何をしようとするか想像してみてほしい。
普通は自分達の宗教を押し付けようとするのではないだろうか。
だが、オスマン帝国はそうはしなかった。
彼らは宗教の多様性を認めたのだ。
その代わり、イスラム教以外の宗教を信じる者に税金を課した。
だが、この税金も法外な金額ではなく、むしろこれまでの圧政者よりも税負担が減ったということもあったそうだ。
こうしてボスニアでは多様な宗教を持つ者同士が共存する仕組みが公に出来上がった。
そしてこのことこそサラエボがヨーロッパのエルサレムと呼ばれた所以だったのだ。
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が一堂に会し共存している土地。
そしてここサラエボも同じように3つの一神教が共存していた。
サラエボが独特な景観や文化を持っているのもこのような背景があったのだ。
さて、話は変わるが文化のお話でもう一つ。
ボスニアコーヒーのお話だ。
ぼくが大好きなコーヒーもトルコから伝わり、世界中に広がっていった。
そしてボスニアコーヒーの飲み方は一風変わっている。
ボスニア人ガイドのミルザさんにその飲み方を伝授してもらった。
コーヒーの入っている容器からゆっくりとカップへと注ぎ入れる。(※カップは写真に写っていない。)
容器に入っていたコーヒーはかなり濃く、コーヒーの粉も浮かんでいるのでカップに注いだ後もそれが沈むまで少し待つ。
ここまでは普通のコーヒーと変わらない。
しかしここからが一味ちがう。
なんと、ミルザさんはおもむろに角砂糖をつまみ上げコーヒーに浸し、柔らかくなった角砂糖を一齧りしたのだ。
それからコーヒーを飲み、口の中で砂糖と混ぜ合わせる。
普通は砂糖をコーヒーに入れてかき混ぜるところを、口の中に直接砂糖を含んでしまうのだ。
これを教えてもらったときには驚いてしまったが、いざ試してみるとこれがまた絶妙に美味しい。
普段ブラックしか飲まないぼくだったがこれにははまってしまった。
砂糖の甘さが口に広がり、そこにコーヒーをすかさず流し込む。
苦みが口の中を覆うもすぐに砂糖の甘みと調和し、後味も驚くほど心地よい。
砂糖を直接口にするなんて、なんかギトギトするんじゃないかと疑っていたが全くそんなことはなかった。
これは素晴らしい。
サラエボ滞在中、ぼくは何度となくボスニアコーヒーを現地スタイルで頂いたのであった。
さて、サラエボウォーキングツアーの記事もこれにて前半は終了。
次の記事ではボスニア紛争についてお話ししていく。
この紛争にはこれまで述べてきた歴史や文化がものすごく絡んでくる。
多様な文化や宗教が共存していたこの国がなぜ悲惨な紛争へと突き進んでいったのか。
また、紛争はこの街にどのような爪痕を残していったのか。
次の記事ではそのことに焦点を当ててお話ししていきたい。
続く
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