法話

すでに自己が仏教コラム・法話

すでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか-お釈迦様のことばに聴く

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか―お釈迦様のことばに聴く 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚…

われらはここにあって仏教コラム・法話

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう~寿命とは何か、死と病をどう考えるのか―お釈迦様のことばに聴く

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。―お釈迦様のことばに聴く 六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る…

うるわしく仏教コラム・法話

いくら美しい言葉で自分を飾り立てようとも肝心の実践がなければ虚しいものである―お釈迦様のことばに聴く

うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りのないものがある―お釈迦様のことばに聴く 五一 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。 岩波書店、中…

自己肯定感仏教コラム・法話

自分らしさ・ありのまま讃美の危険性とは~「自分の思いのままにできること」が人生の幸せ?

前回の記事「他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く」ではお釈迦様のことばをもとに、なぜ人は他者を攻撃せずにはいられないのかということを考えました。

今回の記事では引き続きこの言葉を参考に、なぜ人は他者に寛容でいられないのかをもう少し踏み込んで考えていきたいと思います。

他人の過失を見るなかれ仏教コラム・法話

他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く

どうして人はこんなにも他者を攻撃せずにはいられないのでしょうか。どうして他人の過失や気に食わないところを責めずにはいられないのでしょうか。

なぜ日本人は他人の過失に不寛容になってしまったのか、この記事ではそのことについて考えていきたいと思います

放逸に耽るな仏教コラム・法話

放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る―お釈迦様のことばに聴く

放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る―お釈迦様のことばに聴く 二五 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。 …

たとえために仏教コラム・法話

「何を言ったか」より「何をしているか」で判断しよう。綺麗な言葉に騙されないために~お釈迦様のことばに聴く

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである―お釈迦様のことばに聴く 一九 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。―…