(10)『ドン・キホーテ』のおすすめエピソード「焚書詮議の物語」と異端審問のつながり
今回ご紹介する『ドン・キホーテ』の焚書詮議の物語は私の大好きなエピソードです。何回読んでもくすっと笑ってしまいます。セルバンデスのユーモアがこれでもかと詰まったシーンです。
『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』を読んだことで、そんな私の大好きなシーンが異端審問とつながり、新しい視点を得ることができました。セルバンデスの驚くべき手腕にただただ感嘆するのみです。
とても興味深い読書体験でした。
今回ご紹介する『ドン・キホーテ』の焚書詮議の物語は私の大好きなエピソードです。何回読んでもくすっと笑ってしまいます。セルバンデスのユーモアがこれでもかと詰まったシーンです。
『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』を読んだことで、そんな私の大好きなシーンが異端審問とつながり、新しい視点を得ることができました。セルバンデスの驚くべき手腕にただただ感嘆するのみです。
とても興味深い読書体験でした。
モンテーニュは啓蒙思想で有名なフランス人ではありますがその血筋のルーツはスペインのコンベルソであったと言われています。驚くべきことに、異端審問が横行していたスペインの歴史がモンテーニュの思想に大きな影響を与えていたのでありました。
敵対的な思想を持つ者を抹殺しようとした異端審問でしたが結局こうしたもっと強大な存在を生み出すことになってしまったのです。教会への不信や懐疑論、無神論の流れは教会の権威を徐々に蝕んでいきます。
近代的なヨーロッパの哲学者がいかに生まれてきたということに異端審問が大きな影響を与えていたというのは非常に興味深いものでした。
異端審問による弾圧と追放は単に政治的な問題だけではなく、経済面にもとてつもないダメージを与えたのでした。この引用箇所はこの本の中でも特に印象に残ったもののひとつです。
他者を排除することは結果的に自分たちの首を絞めることになるということをここで思い知らされます。感情に任せて悪者をやっつけたつもりになっても、実際は何一つ問題の解決にはなっていないのです。
これは現代でも同じです。誰かを悪者に仕立て上げ、責任は彼らにあると攻撃し排除する。本当に見るべきものは何かを議論せず、何の対策も打てないまま時だけが過ぎていく・・・
その結果見るも無残な損失が残され、国は衰退していく・・・スペインの異端審問はまったく他人事ではありません。これは今まさに私たちが直面している問題でもあるのです。
ここからいよいよこの本の核心に入っていきます。
皆さんもお気づきのように、まさしくこれはソ連時代ともリンクしていきます。
スパイがどこにいるかわからないという社会。権力の維持のために秘密警察を利用し、体制を守ろうとするのは中世スペインですでに大々的に行われていたのでありました。
権力を持った人間がそれを悪用する恐ろしさがこの記事では感じられると思います。
「権力こそ正義であり、権力さえあればどんな不正も許される」
このことはまさしくソ連時代のレーニン、スターリンも掲げていたお題目でした。
スペインの食文化を代表するタパスには実は裏の意味がありました。
スペインではキリスト教徒、改宗ユダヤ教徒・イスラム教徒は共存し、もはや同化していましたので単に見た目だけでは誰が何を信じているのかはわかりませんでした。ですのでこうした食べ物を通して信仰の如何を確かめようとしていたのです。
例えばですが、ある家で会食をしようとなったときに、客たちはそれぞれ料理を持ち寄ることになります。そしてその時に豚肉のソーセージをわざと持ち寄るのです。それで家の主人や他の客人がそれを食べようとしなければ隠れユダヤ教徒やイスラム教徒であることがばれてしまうのです。
この記事内で説かれる箇所を読んだ時、私はビリビリっとしたものを全身に感じました。
と言うのも、ガレー船での漕役刑というのはセルバンテスの『ドン・キホーテ』にも登場し、漕役囚たちとドン・キホーテのエピソードは私の中で非常に大きなインパクトを占めていたからです。
『ドン・キホーテ』という作品のあまりのすごさに改めて衝撃を受けました。恐るべき風刺や皮肉がそこら中に散りばめられているのです。しかも、それを知らなくとも面白い小説として読めてしまうのですから驚異と言うほかありません。ますます大好きな小説になりました。
異端審問という歴史を知ることで、文学の見え方も変わってくる。これは非常に興味深いことでありました。
この記事で見ていくのは単に「異端を裁くだけのシステム」と思われていたものが、社会全体の病気となっていく過程です。
最初は疑わしき者を罰するだけでした。
しかしそれがどんどんエスカレートし、もはや誰が誰に密告されるなどわからない疑心暗鬼の世界に変わっていきます。こんな世界で人と人との温かい交流などありえるでしょうか。私たちがこれまで当たり前のように交わしていた楽しいつながりはありえるでしょうか。
ここまで監視と密告が定着してしまえば、人間同士の信頼関係は崩壊です。
こうなってしまえばひとりひとりの国民にはほとんどなす術がありません。スペインは徐々に活力を失っていくのでありました・・・
「私は不本意だがこれからお前を拷問にかける。お前が悪いことをしたから悪いのだぞ?神はそれを知っておられる。神は絶対に正しい。その神より委託を受けている私たちも正しい。お前は拷問によって苦しむかもしれんがそれは自業自得だ。だがそれによりお前は罪を償うことができるのだ。むしろ我々に感謝してもらいたい。」
異端審問官であれどさすがに自分の手を汚すのは精神的にダメージがあります。そこで自分たちの心が痛まないようにこうして神という絶対的な権威を利用していたのでした。これはスターリンやヒトラーによる虐殺の時にも見られたものです。絶対的な権威による免罪があるからこそ、淡々と暴力を振るうことができたのでした。
異端審問というと宗教的な不寛容が原因で起こったとイメージされがちですが、このスペイン異端審問においては政治的なものがその主な理由でした。
国内に充満する暴力の空気にいかに対処するのかというのがいつの世も為政者の悩みの種です。
攻撃性が高まった社会において、その攻撃性を反らすことができなければ統治は不可能になる。だからスケープゴートが必要になる。悪者探しを盛んに宣伝し、彼らに責任を負わすことで為政者に不満が向かないようにする。これはいつの時代でも行われてきたことです。このことは以前スターリンの記事でもお話ししました。私達も気を付けなければなりません。
セルバンテスによって『ドン・キホーテ』が発表されたのは1605年のこと。
1492年にグラナダが陥落し、カトリック勢力がスペイン全土を統一してからおよそ100年少し。この間に異端審問は全盛を極め、ユダヤ人やイスラム教徒は迫害を受けました。
この迫害に対しセルバンデスは作中で驚くほど巧みにそれを風刺し、皮肉っています。これは普通に読んでいたらまず気付かないレベルです。当時の歴史を知り、さらに解説を受けなければまず通り過ぎてしまうでしょう。
私自身、この本を読んで改めて『ドン・キホーテ』がいかにすごいかを再発見しました。
この本の最大の見どころは本の終盤に書かれたこの『ドン・キホーテ』とスペインの歴史とのつながりと言っても過言ではないくらい私には驚きの事実でした。